第86話 南街道の攻防
南街道開発準備銀行の王都支店が、ひっそりと開業していた。
アルヴィンがその前を通りかかると、口座開設の行列ができていた。見慣れた人影が、扉から出てきたところだった。
リーナだ。
手に、真新しい通帳を持っている。
「リーナ、こんなところで何を?」
「あ、アルヴィンさん」リーナが振り返った。「口座開設をしてきました」
「どうして?」
「南街道の開発に協力できますし、金利も良いし。街道の工事現場にも毎月寄付しているって聞いたので。農民の方々に少しでも還元できるかと」少し得意そうな顔になった。「それに、今ならこの人形がつきます」
小さな縫いぐるみを見せた。橋の形を模した、愛らしい布の飾りだ。
アルヴィンが笑い出した。
「小口預金者を馬鹿にするな、か。間違いないな」
「やっぱり馬鹿にしていません?」
アルヴィンは笑いを収めた。
「いや」真剣な顔になっていた。「これはまずいぞ」
リーナが首をかしげたが、アルヴィンはすでに歩き出していた。国立銀行の方へ、早足で。
◇
扉をくぐった瞬間、廊下の奥から足音が響いてきた。
速い。
フェルディナントだった。走っている。この男が廊下を走るのを、アルヴィンは初めて見た。眼鏡が少し曲がっていた。息が切れていた。
「アルヴィンさん」
「何があった」
「南部支店から——使者が来ました」
アルヴィンの目の色が変わった。
「取り付け騒ぎです」
◇
使者の話は短かった。
朝から引き出しの列ができていた。最初は十人ほどだった。それが口コミで広がった。「銀行が危ないらしい」「今のうちに下ろしておいた方がいい」——誰が言い始めたか分からない。昼を過ぎても列は減らなかった。増えていく一方だった。
「準備率は」
「支店単体では——すでに警戒水準を下回っています」
フェルディナントが声を低くして言った。人に聞かれてはならない数字だ。
アルヴィンはしばらく黙った。
窓の外、王都の街路に人が行き交っていた。荷を運ぶ男。子供を連れた女。誰も何も知らない。南部で今、何が起きているかを。
「金貨を集める」
アルヴィンが言った。声に揺れはなかった。「俺の口座のポンジの配当分から回せるだけ回せ。屯田兵の給金準備金からも一時的に借りる。ナディールに話をつけてくれ」
「すぐに動きます」フェルディナントが頷いた。踵を返しかけて——止まった。「アルヴィンさんは」
「俺は自分の口座から金貨を下ろして南部に行く」
フェルディナントが目を見開いた。
「見せ金が必要だ」
それだけ言った。フェルディナントはもう何も聞かなかった。
◇
アルヴィンが屈強な傭兵たちを連れて南部支店に着いたのは、昼過ぎだった。
列は、建物の角を曲がって先まで続いていた。
老人、女、農夫——普段は土を相手にしている手が、通帳を握りしめている。誰も騒いでいない。怒鳴っていない。ただ、静かに、並んでいた。
その静けさが、かえって重かった。
アルヴィンは列の端に立って、顔を見ていった。一人ひとりの顔を。
恐れていた。金を失うことを、静かに恐れていた。悪意も策略もない。ただ、家族の暮らしを守ろうとしている人間の顔だった。
あの夜、ナディールが言った言葉が頭の中で響いた。
——街道が国の骨格なら、金は血液だ。血液が回ればこの国は健康になるぞ。
その血液が、今、南部から流れ出している。
支店長が出てきた。アルヴィンは何も言わず、鞄をひっくり返した。
金貨が、机の上に山を作った。傭兵たちも大きな鞄を開けた。また山が増えた。
支店長が息を呑んだ。
列の中から、誰かが漏らすような声を出した。列がざわついた。遠目に見えていた金貨の山が、安堵のため息を伝播させていく。
「窓口を閉めるな」
アルヴィンが支店長に言った。
「払える限り、払い続ける」
「はい」
「夕方までに本店から更に金貨が届く。それまで持ちこたえてくれ」
支店長がもう一度頷いた。目が据わっていた。疲れた顔だったが、それだけが揺れていなかった。戻っていく背中を見送って、アルヴィンは列の方に目を向けた。
農民の一人と、目が合った。
中年の年の男だった。泥のついた靴。日焼けした顔。通帳を両手で持って、列の中に立っている。
「その通帳には魔法がかかっています」アルヴィンが言った。「それが破れない限り、あなたの大切なお金は大丈夫です」
男は驚いたような顔をした。それから小さく、会釈を返した。
列が、ゆっくりと動いていく。
一人が去り、次の一人が前に進む。また一人が去る。また一人が進む。
◇
王都に戻ったのは、夕暮れ過ぎだった。
南部支店の列は、夕方までに解消した。本店から送った金貨が間に合った。農民たちは金を受け取り、それぞれの家路についた。何事もなかったように見えた。
支店長が頭を下げた。「あなたの魔法の通帳は破れないという言葉が広まって、ようやく落ち着きを取り戻しました。ありがとうございました」
しかし数字は嘘をつかない。フェルディナントの予測表には、今日一日の引き出し額が刻まれていた。消えた準備金は消えたままだ。
アルヴィンが銀行の扉をくぐると、フェルディナントが入り口近くで待っていた。奥の帳簿部屋にいるはずの男が、外套も脱がずに立っている。
「宰相が今すぐ来てほしいそうです」
声が、普段より低かった。
◇
宰相執務室。
ナディールは机の前に立っていた。椅子に座っていない。珍しいことだった。手に羊皮紙を持っている。読み終えているのに、まだ持ち続けていた。
アルヴィンが入ってくると、その羊皮紙を差し出した。
「リミニから通達が来た」
重厚な印章。格式張った書体。アルヴィンは受け取って、目を走らせた。
短い文書だった。
先王フリードリヒ・フォン・エーレンベルクの借入金、元金四百五十万枚について、国立銀行の財務状況の悪化に伴い一括返済を求める——。
日付。印章。送付者の名前。
ロレンツォ・ディ・ヴァザーリ。
アルヴィンは最後まで読んだ。それから、折り返した。
しばらく、二人とも何も言わなかった。
窓の外で風が吹いた。ランプの炎が揺れて、また静かになった。
「一括で」ナディールが言った。声に感情がなかった。「四百五十万枚。我が国の税収の一年半分だ」
アルヴィンがため息をついた。
「開発銀行の設立から、国立銀行の取り付け騒ぎまで——全てが仕組まれていた」
「取り付け騒ぎで準備金を削ったところに、元本回収を申し入れる」ナディールが静かに言った。「こちらが動揺した隙を突く」
二人とも、分かっていた。
ナディールが窓の方を向いた。夜の王都が、灯りをちらちらと光らせていた。
「父の借金だ」
低い声だった。「ずっと利息だけ払い続けてきた。ようやく元本に手が届き始めたところだったのに」
アルヴィンは何も言わなかった。
あの夜、ナディールが言っていた。俺には大きなことは出来ない。できることは——この借金を返して、列強をいなして、この国を一日でも長く持たせることだけだ。
その借金が、今夜、牙を剥いた。
「——払えるのか」ナディールが振り返った。「正直に言ってくれ」
「払えない」
アルヴィンが答えた。迷わなかった。「今の手元資金では無理だ。取り付け騒ぎで準備金を使った。どう掻き集めても四百五十万枚は——ない」
ナディールの目が、かすかに揺れた。揺れて、また静まった。
「……そうか」
「ただ」
アルヴィンは羊皮紙をナディールに返した。
「払わなくても良い方法がある」
ナディールの目に、光が宿った。
「聞かせてくれ」
◇
翌朝。
フェルディナントが出勤すると、アルヴィンがすでに帳簿部屋にいた。昨夜のうちに来て、そのまま夜を明かしたのかもしれない。机の上に三つの資料があった。ポンジスキームの収支記録、委員ごとの出資額、元本と配当の差引。
「座ってくれ」
フェルディナントは椅子を引いた。眼鏡を直して、机の向こうの顔を見た。
「ポンジを畳む」
静かな声だった。感情のない、事実を告げる声だ。
フェルディナントは一度だけ瞬いた。
「委員たちへの出資金の返還は——しない。その資金を、先王の元本返済に充てる」
「それは」フェルディナントが静かに言った。「委員たちへの債務不履行になります」
「そう。デフォルト宣言だ」
机の上の三枚の資料を、アルヴィンが指でまとめた。数字の列が、端を揃えて重なっていく。
「委員たちは出資金を失う。その代わり、先王の借金が消える。リミニに握られていた首根っこが——なくなる」
フェルディナントは眼鏡を外した。磨くでもなく、手の中に持ったまま、机の木目を見た。
「それでは……委員たちが怒り狂いますよ」
「ああ」
「訴えるかもしれない」
「訴えるどころか戦争になりかねない。しかし——今のエアルはそう簡単に攻め落とせない。だから戦争もできない」
アルヴィンが静かに言った。
「……分かりました」
フェルディナントは眼鏡をかけ直した。背筋を伸ばす。いつもより、もっと真っ直ぐに。
「準備します。いつ宣言しますか」
「タイミングはナディールと決める。それまでは誰にも言うな」
「はい」
立ち上がりかけて——止まった。
「アルヴィンさん」
「何だ」
「戦争を避けて——どうやって収拾するのですか」
アルヴィンは少し間を置いた。
「交渉になる」
「交渉」
「リミニと、テーブルを挟んで向き合う。それが——決着だ」
フェルディナントは頷いた。扉に向かう。ノブに手をかけて、振り返らずに言った。
「勝てますか」
アルヴィンは答えなかった。しばらくして——
「良いところ七割かな」と笑った。
フェルディナントは扉を開けた。廊下に、朝の光が差し込んでいた。
◇
同じ日の夜。
ナディールの私室にランプが一つ灯っていた。グラスが二つ。ゴールデンフィールドの瓶。二人はしばらく、何も言わずに飲んでいた。
「ポンジスキームのデフォルトを宣言する」
アルヴィンが先に口を開いた。「その資金で先王の元本を返すと、同時に宣言する」
ナディールがグラスを持ったまま、頷いた。
「リミニは怒るな」
「怒り狂う。だがそこにテーブルを出して交渉に持ち込む」
「なるほど」
アルヴィンの表情が変わった。
「しかし——これは陽動作戦だ。我々が交渉している間に、皆に敵の本丸を攻め落としてもらう」
「なんだって!」
「これは最終決戦になる。ただの借金を返す話ではない。自由都市リミニの体制を刷新する」
少し間があった。
「……分かった」
ナディールが言った。「君の作戦にかけるよ」
グラスを掲げた。琥珀色の液体が、ランプの光を受けて揺れている。
二人が最初に乾杯した夜——あの時のナディールは、出口が見えない小さな王国の宰相だった。今も立場は変わらない。むしろ、更に追い詰められている。
しかし、この一年の歳月が、心強い仲間たちをもたらした。各国にも、力強い協力者がいる。
全て、この男との出会いから始まった。
アルヴィンもグラスを上げた。
グラスが、静かに触れ合った。
川の名にちなんだ都市で交わされた契約が、どんな毒を孕んでいたとしても。毒をもって毒を制す準備は、もう整っていた。




