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第9話 就職詐欺

 朝。まだ薄明かりの中で、雑貨屋の軒先に鳥の鳴き声が響く。


 アルヴィンは棚の前に立って、隣のリーナに仕事を教えていた。


「ここが紐類の在庫だ。基本的には太さの順に並べる」


 リーナは手帳と羽ペンを持って、几帳面に書き留めている。


「在庫の管理表はこれ。壁に掛かった羊皮紙に書いてある数を下回ったら発注する。発注先は裏に書いてある」


 リーナが羊皮紙をめくると、丁寧な文字が並んでいた。元のアルヴィンの字だ。几帳面な男だったらしい。


「よく売れるものを手前に。蝋燭は消費が早い。常に補充を意識して」


「……種類を覚えるまでが大変ですね」


「まあ、これっぽっちの店だ」


 棚が四つにカウンターが一つ。アルヴィンは苦笑いした。


「すぐに慣れる」


 その時、外から低い、どこか押し殺したような声がした。


「頼もう」


 リーナが「私が出ます」と入口に向かい、扉を開けた。そこに立っていた大柄な男を見て、思わず半歩後ずさる。粗末な服を着ているが、顔立ちが普通と違う。堀が深く、目に鋭さがある。どこか戦場を潜り抜けてきたような重厚な風貌だ。


「……あ、あの。何だかすごく怖そうな人が来ました」


 アルヴィンがカウンターの奥から出てきた。昨日声をかけた厩番だ。男の顔を見た瞬間、表情が変わった。


「いやあ、よく来た!」


 男は無愛想に頷いた。


「お安い御用だ。それより、この間の話は本当だろうな」


 ニヤリと笑みを浮かべる。アルヴィンは外を確認した。まだ人の動きは少ない。


「人には会わなかったろうな」


「こんな時間だ。まだ人はいない。遠くからじゃ顔も見えない」


 男を中に入れ、奥の部屋を指さした。


「そこに服が用意してある。着替えてきてくれ」


 しばらくして男が戻ってくると、リーナは目を見開いた。先ほどのボロ服とは別人だ。立派な生地の深い色の服が鈍く輝いている。質の良い服を身に纏うと、あの「重厚さ」がまったく違う意味を持ち始めた。


「思った通りだ。まさに馬子にも衣装」


 アルヴィンは膝を叩いた。


「どうだ、リーナ。偉そうだろう?」


 リーナが激しく首を縦に振ると、男は少し得意げに胸を張った。


「まあ、重要人物というやつだ」


 アルヴィンは鞄を持ち上げた。


「それじゃあ、今日は用事があるから店番よろしく頼む」


「え、もう行ってしまうんですか?」


「お昼ご飯はあそこの棚。お釣りはそこ。分からなかったら帳簿を見ろ。頼んだ!」


 扉が閉まった。


 ◇


 静寂の中に取り残されたリーナは、大きくため息をついた。


「……はい」


 誰もいない店に呟いて、仕方なく棚の商品を確認しながら並べ直す。アルヴィンに教わった通り、几帳面に。帳簿を開いて前日の記録を確認する。


 しばらくすると客が来た。農夫らしい男が蝋燭と石鹸を買っていき、次は若い女性が紐を二束。お釣りを数える手が少し震えたが——合っていた。


「……できた」


 小さく息をつく。一息ついて、食べ物を置いてあると言われた棚に目を向けた。ナプキンをそっとめくると、チーズを挟んだバゲットが置いてある。


「……昼食付き」


 小さく笑いながらかじり始めた時——。


 どかん。


 扉が叩きつけられるように開いて、リーナはバゲットを落とした。


 大きな農夫が赤い顔で入ってきた。太い眉がつり上がっている。


「アルヴィンの野郎はどこだ!」


「ア、アルヴィンさんは出かけていますけど……」


 農夫のヴォルフはリーナを睨んだ。


「アルヴィンの奴、支払いは待つと言ってたのに、ひどい取り立て屋を雇いやがって! いきなり家にやってきて、ツケを全額まとめて返せとか、無いなら馬を持っていくとか、無茶苦茶言いやがる!」


「す、すいません。私、事情を聞かされてなくて……」


「あいつは人の良い顔をして、血も涙もない悪魔だ」


 散々悪口を並べた後、「まあ、あんたに言っても仕方がない。また来るからな!」と扉を叩きつけて去っていった。


 リーナはゆっくり椅子に座り、落ちたバゲットを拾った。食べる気が失せている。


 気を取り直して帳簿を広げていると、今度は食堂の店主がやってきた。額に血管を浮かせて「アルヴィンはどこだ、隠すとただじゃおかん」と凄む。「私は何も知らなくて……」と答えるのが精一杯だった。店主は「アルヴィンに言っておけ。話があると」とだけ言って去っていった。


 夕方。リーナは椅子にもたれて天井を見ていた。バゲットは半分しか食べられず、昼寝もできていない。


「昼食、昼寝付き……就職詐欺だ」


 その時、扉が開いた。


「ただいま」


 上機嫌なアルヴィンが入ってくる。リーナは恨みがましい目で見た。


「……お帰りなさい。次々と怒った人がやってきました。ヴォルフさんと食堂の店主さん」


「ああ。まあ、そうなるな」


「まあ、って——」


 言いかけた時、扉が再び開いた。暗い顔の神父が立っている。


 ◇


「アルヴィン。教会に乱暴者をけしかけるとは何事だ」


 神父の声が低い。リーナは思わず半歩後ずさったが、アルヴィンは動じなかった。椅子に腰かけて、落ち着いた声で答える。


「俺はそんなことはしていませんよ。ツケを売っただけです」


「しらばっくれるな。現に、粗暴な輩が乗り込んできた」


 アルヴィンはしばらく神父を見つめてから、静かに言った。


「神父さん。あんたはずっとツケで買い物をして、俺が強く言えないのにつけ込んで、払ってくれなかったじゃないか」


「だからあんなことをしてもいいと?」


「こっちは、もう商品の仕入れをする金もなくなって、泣く泣くツケを回収する権利を売ったんだ。一体、それ以外どうしろって?両親の残した店を、潰せというのかい」


「いや…。そんなことは」


 低い声だが震えてはいない。神父が下を向いた。重い沈黙が落ちる。


「神父さん。お説教を聞くのは得意ですか」


 神父が顔を上げると、アルヴィンは少し疲れたような笑みを浮かべていた。


「俺はあんたの説教を三年間聞きましたよ。ありがたい話ばかりでした。だから信用してツケで売った」


 神父は何も言えなかった。長い沈黙の後、息を吐いた。


「……分かった。軽い気持ちのツケが、そんなにお前を追い込んでいるとは知らなかった。いつの間にか私は……あの金貸しと同じことをしていた」


 それから神父は、絞り出すように言った。


「アルヴィン。一つ聞いてもらえるか。ヤコブのことだ」


 村外れの老農夫が、去年の凶作で村の外から来た金貸しに金を借りた。収穫までの数ヶ月のつもりが、畑を取り上げられそうになっている。


「利率は?」


「……月に三十三パーセント」


 アルヴィンの顔が引きつった。リーナも息を呑んでいる。


「……月に?」


「ああ」


「どうしてそんな契約を」


 神父は悲しそうな目をした。


「ヤコブは、字が読めない」


 その言葉の意味を、アルヴィンはゆっくりと理解した。字が読めない。だから契約書に何が書かれていようと分からない。最初から土地を取り上げるための契約だ。


「神父さん。ヤコブのところに一緒に行ってくれ」


 立ち上がりながら、低い声で呟いた。


「俺は、弱い人間ばかりカモにする奴が許せない」


 その言葉を言った瞬間、アルヴィンの目の奥に暗いものが過った。阿久津の後悔。前世で、自分の組織が同じことをした。弱い人間を監禁し、搾取し、殺した。あの二十人の遺体。


 リーナが何かを感じ取ったように、アルヴィンの横顔を見つめていた。ただの怒りではない。もっと深い場所からくる暗く、やるせのない怒りだ。


「アルヴィンさん……」


「行こう」


 振り向かなかった。

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