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第10話 染みと、嘘と、三十三パーセント

 村外れの小さな農家。石造りの壁に年季の入った木の扉。


 中に入ると、老夫婦がテーブルに座っていた。夫人が目を真っ赤にしている。夫のヤコブも顔が曇っていた。


「神父様……」


「彼はアルヴィンだ。信用できる」


 アルヴィンは椅子に座り、話を聞いた。


「今年は豊作なんだ。なのに、なのに……たった半年で、どうして借金が五倍になる」


 ヤコブの掠れた声に、夫人がまた泣き始めた。


「言いたくないんですが、どうしてそんな契約をしたんですか」


「借りる時は三パーセントと言っていた。それが書類では三十三パーセントになっている」


 契約書を見せてもらった。羊皮紙に書き文字で「三十三/百」と記されている。字が読めない老農夫が知らずに署名した契約だ。


「何とかします。俺に任せてください」


 帰り道、二人で石畳の道を歩いた。夕暮れが近く、麦畑が赤く染まっている。しばらく無言だった。


「ひどい話ですね」


 リーナが口を開いた。


「ああ。反吐が出る」


「でも……どうしてアルヴィンさんは、そこまで一生懸命なんですか」


 アルヴィンは立ち止まった。麦畑を見る。風が吹いて穂が揺れた。


「昔、俺は欲深いやつから奪い取ることに夢中だった。不平等な世の中で、それは当然の権利だと思っていた」


 リーナは黙って聞いている。


「それ以外のことに興味を持たないでいたら、俺の方法を仲間が悪用した。たくさんの人が苦しんだ」


 風が止まった。


「だから今度は、そういう人たちのためになりたい」


「アルヴィンさん、あなたって一体……」


「行こう」


 それだけ言って、歩き始めた。


 ◇


 その夜。雑貨屋の明かりがまだ灯っている中、アルヴィンとリーナが机を挟んで向き合っていた。テーブルの上にヤコブの契約書が広げてある。


「リーナ、一つお願いがある」


「なんですか」


「この書き文字を見てくれ。三十三——の、最初の三十。この部分を染み抜きしてほしい」


 リーナは顔を上げた。


「それって……契約書の改ざんじゃないですか」


 アルヴィンは目を逸らさなかった。


「そもそもこの契約書自体が改ざんなんだ。口約束だって契約だ。字が読めないのを良いことに数字を書き換えた。だから元の契約に戻すだけだ。俺はそう思う」


 リーナは契約書を見つめた。三十三/百。字が読めない老農夫が知らずに署名した書面。


「……私の魔法は、染みしか消せません」


 少し間があった。静かな店の中で蝋燭が揺れている。


「インクも——」


 リーナは羊皮紙を見た。


「染みですか?」


 アルヴィンは何も言わず、ただ待っていた。


 リーナはヤコブの顔を思い出した。夫人の赤い目。「今年は豊作なんだ。なのに、なのに——」


「……染みです。インクも、染みです」


 リーナは手のひらを契約書に当てた。じっと見つめ、息を止める。


 羊皮紙の上の「三十三」——その最初の「三十」が、ゆっくりと動き始めた。インクが薄くなっていく。まるで液体が染み込むように消えて、リーナの手に移っていく。腕の白い肌に、黒いインクの痕が浮かんだ。


 契約書に残ったのは——「三」だけ。


「すごい」


 アルヴィンは呟いた。


「後はイサッコが持っている契約書だ。それと、長袖の服がいるな。買い物に行こう」


 ◇


 翌朝。馬車が一軒の屋敷の前に止まった。


 リーナは清楚な長袖のワンピースを着ている。いつもは実用性優先の普段着だが、こういう格好をすると良い所のお嬢様にも見えた。今度はアルヴィンも「馬子にも衣装か」とは口に出さなかった。


 イサッコの書斎は高い天井に重厚な棚、分厚い帳簿が何冊も並んでいる。奥に座っているのは五十代の男で、丸い眼鏡に品の良い服。だが目は笑っていない。


「イサッコと申します。委任状を拝見しましょう」


 愛想のいい声でヤコブの委任状を確認し、問題なしと頷いた。


「それでご用件は?」


「収穫が終わったので、ヤコブの借金を返済に来ました」


 イサッコの表情が動いた。


「……返済。本当に?」


「はい。元金は一万リルです」


 イサッコは少し間を置いてから、使用人にヤコブの契約書を持ってこさせた。帳簿を開いて計算する。


「今日が十八日ですから……返済金額は、正確に申し上げると五万八千二百十七リルになりますな」


「まさか! 借りたのは一万リルでしょう」


 アルヴィンが声を上げた。イサッコはやはりという顔で頷いた。


「そのまさか、なのですな。複利というのは恐ろしいものです。お貸しした時によく説明したんですが、ご理解いただけなかったようで」


「月三パーセントで計算したら、一万千九百四十一リルだ」


「三パーセント……まさか。契約書もございます。ご確認ください」


 イサッコが羊皮紙を差し出した。アルヴィンは受け取り、リーナに目くばせした。二人で覗き込む。


 リーナは契約書に触れた手のひらに、意識を集中させた。「三十三」の最初の「三十」——インクが薄くなっていく。腕の肌に黒い痕が浮かぶ。長袖のワンピースがそれを隠している。


 二人がこっそり頷く。


「……三パーセントじゃないのか……」


 アルヴィンが呟いた。イサッコが身を乗り出す。


「ご覧ください、ここに三十三と書いてございます」


 沈黙。アルヴィンは契約書を見た。


「いや。……三しかない」


 イサッコは眉をひそめた。


「何を馬鹿なことを」


 自分でも契約書を見る。もう一度、見た。


「……馬鹿な。三……しか、ない」


「じゃあ——一万千九百四十一リル。確かに払います。領収書を書いてください」


 金貨の袋を机の上に置いた。チャリ、と音がする。


 イサッコは長い間アルヴィンを見ていた。目が険しく、口元が歪んでいる。だが何も言えなかった。羽ペンを取り、「一万千九百四十一リル、受領した」と書いた。


 アルヴィンは領収書を丁寧に折り畳んで受け取った。


「ありがとうございました。お邪魔しました」


 廊下を二人で歩き、使用人に見送られて門を出た瞬間、リーナが長い息を吐いた。


「……生きた心地がしませんでした」


 アルヴィンは青い空を見上げた。


「お疲れ様。あんたのおかげだ」


 リーナは袖をまくった。白い肌に黒い染みが二つ。昨夜消した分は少し薄くなっているが、イサッコの書斎で消した分はまだはっきり残っている。


「……これ、消えるまでしばらくかかりますね」


「痛みは?」


「ないです。でも、なんか……くすぐったい」


 ◇


 ヤコブの家の前。アルヴィンが扉を叩いた。


 ヤコブが出てきて、アルヴィンの顔を見た瞬間、何かを察したのだろう。


「……終わったのか」


 アルヴィンは領収書を差し出した。


「借金は全額返済しました。土地はあなたのものです」


 ヤコブは震える手で領収書を受け取った。字は読めない。でも——分かるのだろう。


「……ありがとう」


 声が割れた。


「ありがとう」


 夫人が扉から顔を出し、リーナとアルヴィンを見て——泣き崩れた。「ありがとうございます」と繰り返している。神父が目を閉じて、口の中で何かを祈っていた。


 アルヴィンはその様子を黙って見ていた。


 ◇


 帰り道。二人で歩いている。夕焼けに染まって麦畑が金色に輝いていた。


「私、これで少しは人の役に立てたんでしょうか」


 リーナが袖を見ながら言った。アルヴィンは振り向いた。


「まだそんなことを言っているのか。君は前から、有能な給仕で、几帳面な店員で、魔法使いだ」


 リーナは立ち止まった。アルヴィンを見る。優しい目をしていた。さっきの暗い目ではない。温かい目だ。


「……ありがとうございます」


 俯いたが、口元は緩んでいた。


 麦畑の中の細い道を、二人で並んで歩く。風が吹いて穂が揺れている。金色の波だ。


「アルヴィンさん。今日のことは……誰にも言いません」


 アルヴィンは黙っていた。


「でも、悪いことだとは思いません」


「……そうか」


 一言だけ言った。


 空がオレンジ色に染まっていく。村の灯りが一つずつ点き始める。


「さて。明日も楽な仕事が待っているな」


「絶対に嘘です」


「分かってる。でも飯だけは本当だ」


「……まあ、それは信じます」


 リーナも笑った。金色の麦畑が夕風に揺れる中、二人の背中が村の灯りの中へ消えていった。

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