第82話 二百年の糸
エアル王宮の南翼に、日当たりの良い部屋があった。
高い天井。大きな窓。初秋の光が、石畳の床を白く照らしている。テーブルに二つの椅子。花が一輪、窓辺に飾られていた。
ナディールがテーブルについた時、胸の奥に冷たいものがあった。
セバスティアヌス枢機卿が、突然エアルを訪問した。
正式な外交使節ではないと言う。しかし——この人物が個人としてエアルを訪れるとは、どういうことか。
法王国セルヴィアは、魔法に厳しい。カラカスが聖地として認定されて以来、異端審問の影がちらつき続けていた。聖シュタインの魔法部隊が屯田兵として農地を耕している。アルカディアの魔法使いたちが蒸留所の警備を担っている。この光景を、セルヴィアがどう見るか——
「閣下にお出でいただけるとは」
ナディールは言葉を慎重に選んだ。
「光栄ではありますが、驚いております」
セバスティアヌスが穏やかに笑った。白い眉の下の目が、柔らかい。
「気を使わないでください。正式な外交使節として来たわけではありませんので」
「個人として——」
「ええ」
間があった。
「神の御名を、商人に貸してしまいました」
セバスティアヌスが静かに言った。
「取り返さなくてはなりません」
ナディールは、セバスティアヌスを見た。
「リミニのことですか」
「法王インノケンティウス五世聖下は——カラカスの聖地を、神の名において守りたいと仰せです」
突然の申し出に、ナディールは、しばらく何も言えなかった。
異端審問の影が——消えた。
消えただけではない。逆になった。守る、と言った。聖域を守る、と。
「……神は、全てをご存じということですね」
ため息のような声だった。
「その通りです」
セバスティアヌスが頷いた。
「リミニがカラカスを襲撃したことも、それを魔法使いが阻止したことも、承知しております」
「魔法使いがあの地を守ることを——快く思われないかと心配しておりました」
「カラカスは、法王自らが認定したヴェルダの聖地です」
老枢機卿が、窓の外の空を見た。秋の青い空だった。
「魔法使いがそれを守るなら——ヴェルダ自らが、守護者として選んだのでしょう」
一息置いた。
「セルヴィアから、カラカスは不可侵の聖地であると発信します。正式な文書を用意させていただきます」
ナディールの目が、わずかに潤んだ。
カラカスを守りたいと思い続けてきた。先王フリードリヒが命を懸けて残したものを。あそこで生まれた全てを。それを——神の名が守ってくれる。
「有難い」
声が、少し低くなった。
「正直なところ——魔法使いが異端審問に問われるのではないかと、ずっと懸念しておりました」
「その異端審問が——商人に使われました」
セバスティアヌスの声に、初めて、怒りに似たものが滲んだ。穏やかな老人が、怒る時の顔だ。静かで、重い。
「聖シュタインのクロッツ伯爵。ご存じですね」
「はい」
「誰が司祭に異端審問を働きかけたのか——調べていただきたいのです。我々もリミニに信者はおりますが、あなた方は商工ルートに強い」
ナディールは内心で舌を巻いた。
アルヴィンのパイプを使って、積極的にリミニの内情を探っていることを、全部——知られている。
「分かりました」
ナディールは頷いた。
「調査させていただきます」
窓の外で、風が木の葉を揺らした。秋の光が、部屋の床に動く影を作った。
◇
数日後。
ナディールの執務室は、南翼の明るい部屋とは違った。
窓が小さい。北向きだ。午後も光が差しにくく、いつも薄暗い。棚に書類が積まれ、地図が壁に貼られ、インクの匂いが染み込んでいる。この部屋で積み重ねてきた、無数の判断の痕跡が、空気に混じっている。
ナディールとアルヴィンとブラント軍務卿が、テーブルを囲んでいた。
セバスティアヌスが椅子に座っている。手に、紙束を持っていた。
「こちらが実業家のアルヴィン・フェルトナーです。リミニとの取引に深く関わっています」
ナディールが紹介した。
「こちらがブラント軍務卿。軍の実務を担っています。人目のない場所の方が良いと思いまして——狭いところで申し訳ありません」
「いいえ」
セバスティアヌスが頭を下げた。穏やかな老人だ。しかし——今日は何かを呑み込んだような顔をしていた。
「アルヴィン」
ナディールが促した。
「ああ」
アルヴィンが、机に紙を広げた。
「我々は以前から、リミニの商会の動きを観察していた。それで——某司教に寄付をして異端審問を迫った商会の名前は、すぐに分かった」
羽根ペンを取り、紙の上に商会の名前を書いた。丸く囲む。
「事業で得た収益の大部分を慈善活動に注ぎ込む、まったく感心な団体だ」
皮肉だった。しかし誰も笑わなかった。
「この商会との関係を絶てば——」
「そう簡単ではない」
アルヴィンが言葉を遮った。
「この商会は、他の十七の教区にも同様の寄付をしている」
ペンが動く。一本、二本、三本。商会から線が伸びていく。各地の地名が書かれていく。教区の名前。孤児院。病院。学校。
セバスティアヌスの顔が、変わっていった。
硬くなっていった。
「多くの孤児院や病院が、この寄付で成り立っている」
淡々と説明が続いた。
「更に言うと——別の三つの商会が、似たような動きをしている」
また丸く囲む。また線を伸ばす。
ブラントが、無言で紙束を差し出した。
「こちらが詳細なリストです」
セバスティアヌスが受け取った。
ページをめくった。また、めくった。手が止まった。また、めくった。手が、わずかに震えていた。
「思い当たる名前が含まれています。しかし、これほどの規模とは」
声が、小さかった。
「二百年かけて、浸透している」
アルヴィンが静かに言った。
「手ごわい商人たちですね」
部屋が静まり返った。
ランプの炎が、揺れた。
セバスティアヌスは、リストを持ったまま、しばらく動かなかった。七十年生きてきた老人が、自分の知らなかった世界の深さを、今、測っている顔だった。
神の名を、貸してしまった。
その傷がどれほど深いか——今、初めて噛みしめていた。




