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第81話 正義の孤立


 砂埃が、空に舞っていた。


 城壁の向こうから火矢が飛んでくる。放物線を描き、地面に落ちて転がり、草に火が移る。消す暇はない。次の矢が、また来る。


 聖シュタイン帝国。マーゲン男爵の軍勢が、クロッツ伯爵の城を取り囲んでいた。


 弓兵の列が、城壁を向いて膝をついている。矢を番える。放つ。また番える。乾いた音が続く。城壁の上でクロッツの兵士が倒れた。倒れた場所に、別の兵士が滑り込む。穴をふさぐように。城は、まだ持ちこたえていた。


 馬の上でマーゲン男爵が戦場を眺めていた。


 五十代の男だ。頬に古い傷が走っている。帝国の辺境で長年戦ってきた男の顔。その目が——城の正門に向けられていた。


 城内に動きがある。


 馬蹄の音が、内側から伝わってくる。門が開いた。騎兵が一列、二列、三列と流れ出てくる。別動隊だ。弓兵の側面をつく気だ。


「行けっ」


 マーゲンが剣を掲げた。


 騎士団が一斉に駆け出した。蹄が地面を叩く音が重なり、地が揺れる。砂埃が柱のように立ち上がった。別動隊が弓兵に届く前に——粉砕する。


 ぶつかった。


 金属が弾ける音。人の声。馬の嘶き。砂埃が視界を塞ぐ。それでも騎士たちは押した。押して、押して、押し続けた。


 その戦いは夕暮れまで続いた。


 クロッツ伯爵の城は、その夜、焼け落ちた。


 ◇


 帰路は、沈黙の行軍が続いた。


 疲弊した兵士たちが、一列になって歩いている。鎧が汚れている。誰も口を利かない。勝ったはずなのに、笑顔がない。それほどの代価を払った、ということだ。


 マーゲンは馬の上から周囲を見渡した。


 おかしい。


 故郷に近づくほど、人の気配が少なくなる。街道沿いの農家の窓が、どこも閉まっている。


 城が見えてきた。


 マーゲンは馬を止めた。


 城門が——壊れていた。


 扉が外から打ち破られた跡がある。吊り橋が、半分落ちている。城の内外に、倒れた者たちの姿があった。動いていない。石畳の上に、黒い染みが広がっていた。


 マーゲンが馬を降りた。


 城の中庭に入る。兵士が一人、石壁に背をもたせかけていた。立ち上がろうとするが、足に力が入らない。それでも、なんとか膝を伸ばした。


「男爵様……」


「何があった」


 声が低かった。感情のない声。


「クロッツ伯爵の——別動隊です。我々の本隊が出陣した隙を突いて」


 兵士が言葉を切った。傷の痛みが顔に出た。


「我々が敵の城を攻略している間に……」


 マーゲンは、廃墟になった自分の城を見渡した。


 クロッツの城を焼いた。しかし自分の城も焼かれていた。


「……相打ちか」


 絞り出すような声だった。


 砂埃が、吹いた。


 帝国の国力が、また一つ、削れていた。誰かが計算した通りに。彼らは——どこかで、この報を受けとっている。


 ◇


 アルカディア公国。魔法評議会の議場は、白い建物の最上階にあった。


 楕円形のテーブルを囲むように、評議員たちが座っている。全員が黒いコートだ。胸の刺繍が、それぞれの魔法を示している。


 その中央に、一人だけ赤いコートがあった。


 アリアドネ・テミスが座っていた。


 机の上に、一枚の羊皮紙が置かれている。リミニからの通牒だ。


「自由都市から計算機を売ってほしいという問い合わせがあり、該当するものがないと返事をしたところ——これが届きました」


 事務官が立って読み上げた。声が揺れている。


「計算機の禁輸は、我が国の経済安全保障上の問題である。売却に応じないなら——特産品百品目の価格と数量を見直す。更に、リミニ系商会で働く魔法使いの就労許可の更新もしない」


 議場が静まり返った。


 しばらく誰も口を開かなかった。


「そもそも計算機というのは何だ。どこを探してもそんなものはない」


 端の席の評議員が言った。眉間に皺を寄せている。


「アルカディアからエアルが購入したはずだと言うのですが、我々には分からない」


 別の評議員が手を上げた。


「計算に関係する魔法があるか。時間を薄く延ばす、時間を進めるというのの応用だろうか。それなら計算が速くなる」


 アリアドネが口を開いた。


「鶏を割くのに牛刀というか——魔法とは関係がなさそうですね」


 静かな声だった。感情を見せない声だ。しかしその奥に何かが詰まっている。


「計算機についてはエアルに聞く方が早い。それより——百品目とはどういうことか」


「こちらをご覧ください」


 別の事務官が羊皮紙を広げた。細かい文字が並んでいる。評議員が一人、指でその列を辿り始めた。


「絹……染料……」


 指が止まった。


「絹と染料も含まれているぞ」


 声が変わった。


「絹と染料が来なければ——魔法使いの刺繍も作れなくなる」


 議場の空気が、変わった。


 全員が自分の胸の刺繍に目をやった。長い時間をかけて施された、細かな刺繍。魔法使いである証。それが——なくなる。


「結婚式の祝いの衣装も作れない。市民の不満が募る」


「それにリミニ系商会で働く魔法使いの就労許可が更新されなければ——経済的に困窮する。養う家族がいる者も多い」


 評議員の一人が手を上げた。


「計算機はきっかけに過ぎないと思う。リミニが持ち掛けた魔法学校の建設も断った。この一年、我々はリミニに対して拒絶を続けてきた。それが積み重なって——こういうことになった」


 アリアドネは答えなかった。


「言いにくいが——」


 別の評議員が、慎重に言葉を選びながら口を開いた。


「議長は、脱獄犯のレアンドロ・チェネーレをロレンツォ議長が使っていたと仰る。あれを使うには生贄を捧げていたとしか思えない、と」


「そうです」


「お怒りはごもっともです。しかし——犠牲者が出ていたとしても、それは自由都市の中の話です。アルカディアの市民が犠牲になったわけではない」


 アリアドネは黙っていた。


 評議員が続けた。声は穏やかだったが、言葉の芯は固かった。


「聖シュタインへの留学も禁止しました。ここでリミニまで敵に回せば——我々は孤立します」


 また間があった。


「申し上げにくいのですが」


 別の声が、静かに言った。


「正義だけでは——国は回りません」


 議場が、沈黙した。


 アリアドネは答えられなかった。


 それぞれの顔を見回した。誰も目を逸らさない。全員が、真剣に考えている。リミニへの恐れでもなく、怠惰でもなく——それぞれが、色々なものを抱えて、この結論に至っていた。


 だからこそ——反論できない。


 勇気ある判断に、全員がついてくるとは限らない。それが政治だと、アリアドネは知っていた。しかし、知っていることと現実とは異なる。


 赤いコートが、白い議場の中に一つだけあった。


 全員の黒いコートの中で——ただ一人。

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