第80話 ポンジスキーム
聖シュタイン帝国。マーゲン男爵の居城。
城壁が厚い。石造りの古い城だ。山の急斜面を削り取って建てられており、正面からの攻略が難しい地形にある。内堀に水が張られ、跳ね橋が下りていた。
城内の広場に、馬が繋がれていた。一頭、二頭ではない。数十頭が杭に結ばれ、蹄を鳴らしている。甲冑を着た兵士たちが行き交い、武器の手入れをし、槍を磨いていた。旗竿にマーゲン家の紋章が翻っている。赤地に黒い鷹。風を受けて布が激しくはためいていた。
コンラートはその光景を見ながら、城の中に進んだ。
顔には何も出さなかった。ただ歩いた。足音が石畳に響く。
謁見の間は狭かった。天井が低く、窓が小さい。防御を優先した城の造りだ。
マーゲン男爵は、鎧を着こんだまま椅子に座っていた。五十代の男だ。頬に古い傷がある。帝国の辺境で長年戦ってきた顔だ。
「鉄剣聖コンラートに、わざわざお出でいただくとは光栄ですな」
声に警戒が混じっていた。
「大変なことになっていますね」
コンラートが言った。視線が広場の方へ動いた。
「クロッツの息子は以前から怪しかった」
マーゲンが前に乗り出した。
「突然笑い出す。脈絡のないことを口走る。異端審問を受けたとなれば——本物だろう。そして神の使者に手をかけた。許しがたい」
「事故と聞きましたが」
「我々が整備した街道だ。崖から落ちるはずがない」
マーゲンの目が細くなった。
「あれは我々を陥れるための罠だ」
「ご自重ください」
コンラートが一歩前に出た。
「皇帝陛下は、帝国の臣下同士が争うことを許さないと——大変お怒りです」
「クロッツは陛下のお気に入りだ」
マーゲンの声が低くなった。
「我々だけが手を引けば——次は何が起きるか。クロッツが我々の領地に踏み込んでくる。陛下は止めてくださるか」
「ハインリヒ皇太子がお諫めしています。どうかご信頼を——。お二人が争うことで喜ぶのは誰かお考え下さい」
「リミニの工作だというのか」
マーゲンが立ち上がった。
「そのリミニに負けて逃げ帰ったお主に——言われたくはない」
コンラートの唇が、静かに引き結ばれた。
「そうです」
声は変わらなかった。揺れなかった。しかし、その奥に何かが燃えているのが伝わった。
「私はリミニに負けた。食料を焼かれ、毒を盛られた。千名の命を失った」
一呼吸置いた。
「それがリミニの戦い方です。今もまた——マーゲン殿とクロッツ殿を争わせて、帝国の国力を削ごうとしている。二つの家のどちらが勝っても、笑うのはリミニだ」
マーゲンが黙った。
コンラートを見た。傷のある顔が、何かを測るように動いた。
「恐ろしいのはリミニだけではない」
静かに言った。
「私が手を引いたとたん——皇帝がクロッツに味方したなら、どうなる。お主は陛下を止められるか」
コンラートが床を見た。
「ハインリヒ殿下が——」
「殿下は陛下ではない」
二人の間に、沈黙が落ちた。
馬の蹄の音が、外から聞こえた。風が旗をはためかせる音が続いた。
「私にも——一族に対しての責任がある」
マーゲンが言った。怒りではなかった。疲れた声だった。年老いた男が、誰にも見せたくないものを、少しだけ見せた声だった。
コンラートはその声を、黙って聞いた。
二人の言葉は交わらなかった。
カラカス地方。
夏の終わりが近づいていた。麦の穂が色づき始め、街道沿いの木々が少しずつ葉の色を変えている。空は高く、日差しは柔らかくなっていた。
街道の脇の空き地に、大きなテントが張られていた。テントの前に、男たちが列を作っていた。
様々な顔があった。元兵士の体つきをした者、日焼けした農夫のような男、まだ若い者、傷を持つ者。揃いの服も装備もない。それぞれが思い思いの格好で、列についていた。
テントの中では、ブラント軍務卿の部下が机の前に立っていた。
「良いか。これは屯田兵の契約だ」
部下が羊皮紙を広げた。
「軍務のない時は、農作業をしなければならない。自分たちの食料は自分たちで作る。給金は通常の兵士の八割だが、農作物の売り上げから分け前がある。分かったな」
「分かった」
男たちが次々と羽根ペンを取り、署名していった。
テントの脇で、ブラント軍務卿が腕を組んで見ていた。
立派なカイゼル髭の下の口元が、わずかに動いた。
南部街道への出資から流れ込んだ資金。そして、アルヴィン・フェルトナーが仕掛けた複数の作戦が資金を集め、ここに人を集めていた。
ブラントはテントを出た。
麦畑が広がっていた。遠くまで続く黄金色の海だ。その中に、人影が動いていた。聖シュタインの魔法部隊が農夫の服を着て鍬を振っている。新しく雇われた屯田兵が、カラカスの農民に教わりながら畦を作っている。
誰も「要塞を作ろう」とは言っていない。誰も「防衛拠点を整備しよう」とは言っていない。
ただ、農業をしている。
しかし——気づけば、世界でも有数の要塞が完成しつつあった。
「軍人として——」
ブラントが麦畑に向かって、低く呟いた。
「こういう景色が続いてくれれば——それほど良いことは、ない」
カイゼル髭の下で、珍しく、口元が緩んでいた。
◇
法王国セルヴィア。その総本山。
高い天井に、光が差し込んでいた。石造りの回廊の奥、法王の執務室は静かだった。分厚い石壁が外の音を遮断し、室内には蝋燭の灯りだけが揺れていた。壁に天秤の紋章が掲げられている。正義と信仰。この部屋の主が生涯をかけて守ってきたものだ。
インノケンティウス5世が椅子に座っていた。
七十を超えた法王は、白い法衣に包まれ、小さく見えた。しかし目だけは違った。老いていない。在位二十年を超えた信仰者の目だ。揺れない。迷わない。
セバスティアヌス枢機卿が、その前に立っていた。穏やかな老人の顔が、今日は少し曇っていた。血なまぐさいことを話さなければならない日だった。
「報告いたします」
セバスティアヌスが、手にした羊皮紙を見ずに語り始めた。全て頭の中に入っていた。
「リミニの商人が、司教を金で動かし、聖シュタインのクロッツ伯爵家に異端審問を仕掛けました。信頼できる筋から確認しています」
法王は動かなかった。
「更に——その後、異端審問のために派遣された使者が、帰途で落命されました」
蝋燭の炎が揺れた。
「事故の形を取っていますが——整備された街道での落馬です。不自然な点が多い」
「聖シュタインのクロッツ伯爵とマーゲン男爵の間で、すでに小競り合いが起きています。双方に死者が出ています」
法王が目を閉じた。
部屋が静まり返った。
セバスティアヌスは待った。急かさなかった。この人の沈黙には意味がある。法王が何かを聞いているような、そういう沈黙だ。
「……リミニは」
法王が、静かに言った。
「神の裁きを——金で買った」
一息置いた。
「そして——神の使者を、消した」
蝋燭がまた揺れた。
「神の御名を、商人が借りた」
セバスティアヌスは何も言わなかった。
法王がゆっくりと目を開けた。
「神の御名を貸した。ならば——神の手で、取り返す」
静かな声だった。しかし部屋の隅まで届いた。迷いがなかった。七十年の信仰が、その言葉の後ろにあった。
「セバスティアヌス」
「はい」
「エアルに行きなさい」
老枢機卿が頷いた。
「御意に」
◇
エアル国立銀行。
フェルディナントがアルヴィンの前に帳簿を広げた。眼鏡を外し、また掛け直した。
「あなたの口座に——何が起きているのですか」
声に困惑が滲んでいた。
「大きな金が入ってきては、また出ていく。それを繰り返している。護衛つきで金貨が運び込まれて、また別の護衛つきで運び出される」
アルヴィンが椅子に深く座った。
「それがポンジスキームというものだ」
「ポンジ?」
「昔の詐欺師の名前だ」
アルヴィンが机の上で指を組んだ。
「金鉱脈の開発と称して資金を集めた。本当に金が出たと言っては配当を払う。配当が倍になれば、また資金が集まる。そうすると更に大きな配当を払わなければならない。金を右から左へ、左から右へ——回し続ける」
「鉱脈は」
「ない」
フェルディナントが止まった。
「何もない。最初からね」
「では……配当は」
「最初に集めた資金から払っているんだ。だから次の出資者が必要になる。次の出資者が来なくなった瞬間に——全てが崩れる」
フェルディナントが帳簿を持つ手が、かすかに震えた。
「採掘現場の警護、金の輸送警護——それが傭兵を雇い入れる口実になる」
アルヴィンが続けた。声は変わらなかった。淡々としていた。
「人が集まる。金が回る。農地が広がる。気づいた時には、リミニの委員たちの手元には——何も残らない」
阿久津蓮の目があった。暗く、冷たく、しかし確信に満ちていた。
フェルディナントはその目を見た。この人は分かっている。全てを分かった上で、この大芝居を演じている。始まった時から破綻することが決まっている詐欺を、確信を持って動かしている。
帳簿を持つ指に力が入り、関節が白くなっていた。
◇
自由都市リミニ。
バルトロメオの執務室は、港の近くにあった。窓から運河が見える。船の帆が立っている。どこへでも行ける港の町。二百年分の商売が詰まった街だ。
バルトロメオが封筒を開けた。
数字を確認した。指がテーブルを叩き始めた。また配当が増えていた。元本はとうに回収した。今や純粋な利益だ。
「これほど安定した案件は——」
指を止めた。別の封筒が届いていた。
印章に見覚えがあった。アルカディアのものだ。封を切る。
声に出して読んだ。
「——お問い合わせいただいた計算機について調査いたしましたが、我が国ではそのようなものは発見できませんでした——」
バルトロメオが顎に手を当てた。
「売り惜しみか」
指がテーブルを叩き始めた。
「じらして値段を釣り上げる気だな」
フン、と鼻を鳴らした。
「生粋の商人を相手に——こざかしい」
アルカディアからの手紙を脇に置いた。それより配当の方が気になる。指が計算を再開した。儲けた分を再投資すればどれだけ増えるか。数字が頭の中で動き始めた。
窓の外の運河が、夕日に金色に光っていた。




