第79話 共同管理
現在。エアル王国。
ナディールの執務室には、以前より秩序が戻っていた。棚に収まった書類。地図が貼られた壁。机の上には今夜の案件だけが並んでいる。
ランプの灯りが揺れていた。夜が深い。
ナディールが書類から顔を上げた。
机の上に——赤い封筒があった。
先ほどまで、確かに何もなかった。部屋に誰も入っていない。扉も窓も、開いた気配がない。それなのに、ランプの光の中に、赤い封筒が置かれている。蝋で封印されていた。
ナディールは少しの間、その封筒を見ていた。
それから、静かに手を伸ばした。封印を割る。折り畳まれた紙を広げた。
几帳面な文字が並んでいた。
「満月の晩に、蒸留所でお会いしましょう。アリアドネ・テミス」
口に出して読んだ。
ランプの灯りが揺れた。
「さすがに、魔法評議会の議長だな」
ナディールは窓の外を見た。夜空に、月がある。まだ満月までは、数日かかる。
◇
満月の夜。カラカスの空は澄んでいた。
蒸留所の研究室に、シャドーキャビネットの面々が集まっていた。ランプを数本灯し、テーブルを囲んでいる。窓の外、月が白く輝いている。麦畑が銀色に光り、遠くまで平らに広がっていた。
「フリードリヒ王の記録は、隅から隅まであたりました」
リーナが言った。机の上に羊皮紙の束が積まれている。先王の研究記録だ。
「アルカーナムを使うことで魔法使いが死ぬという記述は——どこにもありませんでした」
ナディールが頷いた。
「お疲れだったな。こうなれば——アルカディアの力を借りるしかないか。我々は知らないことが多すぎる」
「本当にアリアドネ議長が来るのでしょうか」
カッシオが少し落ち着かない様子で言った。
「そして——何を語るかだ」
アルヴィンが腕を組んで答えた。
その時、扉がトントンと叩かれた。
リーナが立ち上がって扉を開けた。
赤いコートの女が立っていた。
室内の全員が、思わず顔を上げた。満月の外光を背に、アリアドネ・テミスが静かに立っていた。馬車の音も、足音も、誰も聞いていなかった。
「今晩は、宰相閣下」
アリアドネが会釈した。
ナディールが苦笑した。
「これでは——警備になりませんね」
「確かに」
アリアドネが部屋の中を見渡した。棚に並ぶアルカーナムの蝋の粒。研究資料の束。エルネストの大きな手、ルカの小さな体、マルタの目に宿った静かな炎。
「魔導物質を保管するには——少し無防備すぎます。それが私たちの懸念でもあります」
ナディールが椅子を一つ、テーブルに引き寄せた。
「どうぞ」
アリアドネが座った。テーブルを囲む全員をゆっくりと見回した。アルヴィンとリーナに目が止まった。
「グラリキスでお会いしましたね」
「覚えていていただいたなんて光栄です」
リーナが言った。
「あの日が懐かしい」
アリアドネの声に、かすかな翳りが混じった。
「各国が集って、花を愛でていた。あれから半年も経っていないのに——世界はここまで不安定になってしまった」
一呼吸置いて、エルネスト、ルカ、マルタに目を向けた。
「でもエアルでは——魔法使いが生き生きしている。ありがたいことですね」
「ええ」
ナディールが頷いた。そして表情を変えた。宰相の顔になった。
「ですが——少し行き詰まっています」
ランプの灯りの中で、ナディールは話し始めた。
「ご存じの通り、父フリードリヒは魔導物質の研究をしていました。私たちはアルカーナムと呼んでいます。その蒸留技術を復元することに成功しました」
「警備も固めていました。兵士を配置し、周囲には聖シュタインの魔法部隊と屯田兵が控えている。それで十分だと思っていた」
間があった。
「侵入者があったのですね」
アリアドネが静かに言った。問いではなく、事実の確認だった。
「レアンドロ・チェネーレという魔法使いが、遍歴の騎士たちを率いてアルカーナムを奪いに来ました」
アリアドネの顔が変わった。
「レアンドロ・チェネーレ」
名前を口にした。声に何かが混じった。
「彼は——どうなりましたか」
「アルカーナムに接触した結果、魔法の暴走を起こして死にました」
アリアドネは動かなかった。
しばらく呼吸を繰り返していた。
それから、ゆっくりと息を吐いた。肩の力が、かすかに抜けた。
「そうでしたか」
それだけ言った。
「レアンドロ・チェネーレをご存じのようですね」
アルヴィンが静かに問いかけた。
「因縁があります」
アリアドネが前を向いた。
「彼は探知魔法使いです。しかし——享楽殺人鬼でもあった」
エルネストが眉をひそめた。
「六年ほど前に、アルカディアで連続殺人事件がありました。犯人はレアンドロです。私は評議会の命を受けて彼のアジトに潜入し、逮捕しています」
「連続殺人。それほどの重罪なのに——釈放されたのですか」
アルヴィンが問いかけた。声に鋭さがあった。
「脱獄しました。その後は行方不明でした。評議会も長く探しましたが——見つけられなかった」
アリアドネが机の上を見た。
「レアンドロとファブリツィオという遍歴の騎士は、リミニのロレンツォの子飼いでした」
アルヴィンが続けた。
「数々の汚れ仕事を引き受けてきた。複数の者からの証言があります」
アリアドネが机を、静かに叩いた。
「ロレンツォ」
声が低かった。怒りとも確信ともつかない声だった。
アルヴィンを見据えた。
「それが何を意味するか——分かりますか」
アルヴィンは黙っていた。
「レアンドロの家の地下室は、この世の地獄でした」
アリアドネが続けた。
「レアンドロを飼い続けたということは——享楽のための生贄が、繰り返し捧げられたということです」
室内が静まり返った。
ルカが目を伏せた。マルタが唇を引き結んだ。
「ファブリツィオの毒と——殺人鬼か」
アルヴィンが静かに言った。「金のためなら手段を選ばないというが、行き過ぎている」
「ロレンツォは心を読まれないように魔法をかけていた」
アリアドネが言った。
「その闇を、覆い隠すように」
ナディールが話題を変えた。
「アルカーナムについて、聞かせてください」
全員が顔を上げた。
「アルカーナムは魔法を増大させ、副作用を打ち消し、消滅する——そう先王の記録には書かれています。しかしレアンドロは死んだ。これが分からなければ、危険すぎてアルカーナムを使えません」
アリアドネは少し間を置いた。先ほどまでの感情の熱が引いて、議長の顔に戻った。
「副作用ではありません」
静かに言った。
「探知魔法は、使えば使うほど情報が流れ込む。アルカーナムがその主作用を増幅した。人間の認知が処理できる限界を、遥かに超える情報が一度に押し寄せた」
マルタを見た。
「例えば——炎の魔法が大きくなりすぎれば、術者自身も焼き尽くしてしまいます。それと同じことです」
「副作用ではなく——暴走か」
ルカが静かに言った。「なるほど」
「特殊な魔法を除けば、アルカーナムで暴走して死ぬことはない、ということですね」
アルヴィンが確認した。
「はい。ただし——魔法の種類と規模は、十分に考えて使うべきです」
「エアルでは魔法使いの安全を第一に考えているのですね」
アリアドネが、室内を改めて見渡しながら言った。声に——優しい響きが混じっていた。
「今回はアルカーナムを守れました。でも次は分からない」
ナディールが言った。
「アリアドネ議長は以前、アルカーナムをアルカディアの管理下に置きたいとおっしゃいました」
「ええ。その考えに変わりはありません」
「ならば——アルカーナムをここに置いたまま、共同で管理していただけませんか」
アリアドネが少し驚いた顔をした。
「ここに——置いたまま?」
「アルカーナムはこの地にある。蒸留設備もここにある。ならばここで管理するのが最も理にかなっている」
ナディールが続けた。
「アルカディアがここの警備に参加していただけるなら——私たちは製造と保管の情報を全て共有します」
アリアドネはしばらく黙っていた。
窓の外の月光が、蒸留所の石壁を白く照らしていた。麦畑が静かに揺れている。
「分かりました」
アリアドネが言った。
「部下を派遣しましょう。魔法に対する防御を固めます。リミニが次の手を打つ前に」




