表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
79/100

第79話 共同管理

 

 現在。エアル王国。


 ナディールの執務室には、以前より秩序が戻っていた。棚に収まった書類。地図が貼られた壁。机の上には今夜の案件だけが並んでいる。


 ランプの灯りが揺れていた。夜が深い。


 ナディールが書類から顔を上げた。


 机の上に——赤い封筒があった。


 先ほどまで、確かに何もなかった。部屋に誰も入っていない。扉も窓も、開いた気配がない。それなのに、ランプの光の中に、赤い封筒が置かれている。蝋で封印されていた。


 ナディールは少しの間、その封筒を見ていた。


 それから、静かに手を伸ばした。封印を割る。折り畳まれた紙を広げた。


 几帳面な文字が並んでいた。


「満月の晩に、蒸留所でお会いしましょう。アリアドネ・テミス」


 口に出して読んだ。


 ランプの灯りが揺れた。


「さすがに、魔法評議会の議長だな」


 ナディールは窓の外を見た。夜空に、月がある。まだ満月までは、数日かかる。


 ◇


 満月の夜。カラカスの空は澄んでいた。


 蒸留所の研究室に、シャドーキャビネットの面々が集まっていた。ランプを数本灯し、テーブルを囲んでいる。窓の外、月が白く輝いている。麦畑が銀色に光り、遠くまで平らに広がっていた。


「フリードリヒ王の記録は、隅から隅まであたりました」


 リーナが言った。机の上に羊皮紙の束が積まれている。先王の研究記録だ。


「アルカーナムを使うことで魔法使いが死ぬという記述は——どこにもありませんでした」


 ナディールが頷いた。


「お疲れだったな。こうなれば——アルカディアの力を借りるしかないか。我々は知らないことが多すぎる」


「本当にアリアドネ議長が来るのでしょうか」


 カッシオが少し落ち着かない様子で言った。


「そして——何を語るかだ」


 アルヴィンが腕を組んで答えた。


 その時、扉がトントンと叩かれた。


 リーナが立ち上がって扉を開けた。


 赤いコートの女が立っていた。


 室内の全員が、思わず顔を上げた。満月の外光を背に、アリアドネ・テミスが静かに立っていた。馬車の音も、足音も、誰も聞いていなかった。


「今晩は、宰相閣下」


 アリアドネが会釈した。


 ナディールが苦笑した。


「これでは——警備になりませんね」


「確かに」


 アリアドネが部屋の中を見渡した。棚に並ぶアルカーナムの蝋の粒。研究資料の束。エルネストの大きな手、ルカの小さな体、マルタの目に宿った静かな炎。


「魔導物質を保管するには——少し無防備すぎます。それが私たちの懸念でもあります」


 ナディールが椅子を一つ、テーブルに引き寄せた。


「どうぞ」


 アリアドネが座った。テーブルを囲む全員をゆっくりと見回した。アルヴィンとリーナに目が止まった。


「グラリキスでお会いしましたね」


「覚えていていただいたなんて光栄です」


 リーナが言った。


「あの日が懐かしい」


 アリアドネの声に、かすかな翳りが混じった。


「各国が集って、花を愛でていた。あれから半年も経っていないのに——世界はここまで不安定になってしまった」


 一呼吸置いて、エルネスト、ルカ、マルタに目を向けた。


「でもエアルでは——魔法使いが生き生きしている。ありがたいことですね」


「ええ」


 ナディールが頷いた。そして表情を変えた。宰相の顔になった。


「ですが——少し行き詰まっています」


 ランプの灯りの中で、ナディールは話し始めた。


「ご存じの通り、父フリードリヒは魔導物質の研究をしていました。私たちはアルカーナムと呼んでいます。その蒸留技術を復元することに成功しました」


「警備も固めていました。兵士を配置し、周囲には聖シュタインの魔法部隊と屯田兵が控えている。それで十分だと思っていた」


 間があった。


「侵入者があったのですね」


 アリアドネが静かに言った。問いではなく、事実の確認だった。


「レアンドロ・チェネーレという魔法使いが、遍歴の騎士たちを率いてアルカーナムを奪いに来ました」


 アリアドネの顔が変わった。


「レアンドロ・チェネーレ」


 名前を口にした。声に何かが混じった。


「彼は——どうなりましたか」


「アルカーナムに接触した結果、魔法の暴走を起こして死にました」


 アリアドネは動かなかった。


 しばらく呼吸を繰り返していた。


 それから、ゆっくりと息を吐いた。肩の力が、かすかに抜けた。


「そうでしたか」


 それだけ言った。


「レアンドロ・チェネーレをご存じのようですね」


 アルヴィンが静かに問いかけた。


「因縁があります」


 アリアドネが前を向いた。


「彼は探知魔法使いです。しかし——享楽殺人鬼でもあった」


 エルネストが眉をひそめた。


「六年ほど前に、アルカディアで連続殺人事件がありました。犯人はレアンドロです。私は評議会の命を受けて彼のアジトに潜入し、逮捕しています」


「連続殺人。それほどの重罪なのに——釈放されたのですか」


 アルヴィンが問いかけた。声に鋭さがあった。


「脱獄しました。その後は行方不明でした。評議会も長く探しましたが——見つけられなかった」


 アリアドネが机の上を見た。


「レアンドロとファブリツィオという遍歴の騎士は、リミニのロレンツォの子飼いでした」


 アルヴィンが続けた。


「数々の汚れ仕事を引き受けてきた。複数の者からの証言があります」


 アリアドネが机を、静かに叩いた。


「ロレンツォ」


 声が低かった。怒りとも確信ともつかない声だった。


 アルヴィンを見据えた。


「それが何を意味するか——分かりますか」


 アルヴィンは黙っていた。


「レアンドロの家の地下室は、この世の地獄でした」


 アリアドネが続けた。


「レアンドロを飼い続けたということは——享楽のための生贄が、繰り返し捧げられたということです」


 室内が静まり返った。


 ルカが目を伏せた。マルタが唇を引き結んだ。


「ファブリツィオの毒と——殺人鬼か」


 アルヴィンが静かに言った。「金のためなら手段を選ばないというが、行き過ぎている」


「ロレンツォは心を読まれないように魔法をかけていた」


 アリアドネが言った。


「その闇を、覆い隠すように」


 ナディールが話題を変えた。


「アルカーナムについて、聞かせてください」


 全員が顔を上げた。


「アルカーナムは魔法を増大させ、副作用を打ち消し、消滅する——そう先王の記録には書かれています。しかしレアンドロは死んだ。これが分からなければ、危険すぎてアルカーナムを使えません」


 アリアドネは少し間を置いた。先ほどまでの感情の熱が引いて、議長の顔に戻った。


「副作用ではありません」


 静かに言った。


「探知魔法は、使えば使うほど情報が流れ込む。アルカーナムがその主作用を増幅した。人間の認知が処理できる限界を、遥かに超える情報が一度に押し寄せた」


 マルタを見た。


「例えば——炎の魔法が大きくなりすぎれば、術者自身も焼き尽くしてしまいます。それと同じことです」


「副作用ではなく——暴走か」


 ルカが静かに言った。「なるほど」


「特殊な魔法を除けば、アルカーナムで暴走して死ぬことはない、ということですね」


 アルヴィンが確認した。


「はい。ただし——魔法の種類と規模は、十分に考えて使うべきです」


「エアルでは魔法使いの安全を第一に考えているのですね」


 アリアドネが、室内を改めて見渡しながら言った。声に——優しい響きが混じっていた。


「今回はアルカーナムを守れました。でも次は分からない」


 ナディールが言った。


「アリアドネ議長は以前、アルカーナムをアルカディアの管理下に置きたいとおっしゃいました」


「ええ。その考えに変わりはありません」


「ならば——アルカーナムをここに置いたまま、共同で管理していただけませんか」


 アリアドネが少し驚いた顔をした。


「ここに——置いたまま?」


「アルカーナムはこの地にある。蒸留設備もここにある。ならばここで管理するのが最も理にかなっている」


 ナディールが続けた。


「アルカディアがここの警備に参加していただけるなら——私たちは製造と保管の情報を全て共有します」


 アリアドネはしばらく黙っていた。


 窓の外の月光が、蒸留所の石壁を白く照らしていた。麦畑が静かに揺れている。


「分かりました」


 アリアドネが言った。


「部下を派遣しましょう。魔法に対する防御を固めます。リミニが次の手を打つ前に」

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ