第76話 暗殺帳
カラカス地方の朝は、静かだった。
麦畑に朝霧が漂っている。昨夜の出来事が嘘のように、空は白く凪いでいた。蒸留所の石壁に、鳥の声だけが響いている。
しかし、蒸留所の中は違った。
扉が破られた研究室に、シャドーキャビネットの面々が集まっていた。昨夜の痕跡が、至るところに残っている。廊下の石畳に残った血の跡。扉の蝶番が引きちぎられた木枠。床に散らばった蝋の欠片——アルカーナムを封じていた、あの蝋だ。
白いシーツが、部屋の隅に置かれていた。
人の形に盛り上がっている。
◇
リーナが部屋の隅から隅まで歩き回っていた。
壁の棚を確かめ、床に落ちているものを拾い上げ、窓枠に手をかけて外を見た。いつも通り、静かに、丁寧に。魔法使いの目が、部屋に残った気配を探っている。
ルカが白いシーツの前で立ち止まった。
少し間があった。それから、小さな手でシーツをめくった。
エルネストが目を閉じた。カッシオが一歩後ずさりする。
レアンドロ・チェネーレの顔が現れた。目が、大きく見開かれたままだった。何かを見上げているような目。何故か嬉しそうな顔にも見える。
リーナが顔をそむけた。
ルカは動かなかった。
老化魔法を扱う者として、ルカは死を別の角度から見る。この男の時間は——いつ止まったのか。自然に老いたものか、外から加えられたものか。その感覚を頼りに、じっと見つめていた。
しばらくして、ルカがシーツを戻した。
「この人の時間は——止まったのではなく」
静かな声だった。
「溢れたのだと思います」
部屋が静まり返った。
◇
「君も何か感じるか」
アルヴィンがリーナに聞いた。
「アルカーナムと接触して、大きな魔法を使ったのですから——残り香はあります」
リーナの手のひらが、かすかに震えていた。棚を見ている。蝋で固めたアルカーナムが並んでいる棚だ。マルタを助けたあの粒と、同じものが、今は違うものに見えた。
「俺は自由都市の関所で、この男に会っている」
アルヴィンが言った。
「ずっと目をつむったまま、旅人の列を歩いていた。魔法使いを嗅ぎ分けていたんだ。俺を見た時、魔法の残り香があると言った」
「探知系の魔法使いでしょうか」
ルカが振り返った。
「指名手配されているファブリツィオをここまで連れてきた。目を閉じたまま、夜道を迷わず歩いて来たんだ。辻褄は合う」
ファブリツィオの名前が出た瞬間、ナディールが少しだけ顔を歪めた。父親を殺した実行犯が捕まったのだ。しかし、今は優先するべきことがある。
「問題は」ナディールが静かに言った。「この男が、どうして死んだかだ」
エルネストが腕を組んだ。大きな手が、体の前でゆっくりと組まれる。
「先王フリードリヒ王の研究には、はっきり書かれています。アルカーナムは魔法の副作用を打ち消す、と」
沈黙の中で、マルタが何かを言おうとして、やめた。
あの日のことを、マルタは覚えている。戦場を脱出した後、蒸留所にかくまわれていた。まともに声も出なかった。リーナが隣に座り続け、毛布を重ねてくれた。そしてあの粒が口元で蒸発して、血が戻ってきた。
同じものが、この男を殺した。
その事実が、胸の中でどう処理すればいいか分からなかった。
「私の副作用も、消すことができました」
リーナがマルタの代わりに言葉を継いだ。「染み抜きで引き受けた黒塗りの汚れも、アルカーナムで解消できた。それは確かです」
「だとしたら——なぜ」
エルネストがつぶやいた。
「この人の副作用は何だったのでしょう。探知能力と引き換えなら…、視力や聴力が失われるのでしょうか」
リーナが棚を見ながら言った。考えながら話している声だった。
「目は開かれている。副作用は中和されていた。だとすれば——」
それ以上は、考えが繋がらなかった。
「兎に角」アルヴィンが静かに言った。「安全が確認できるまで、魔法使いのみんなはアルカーナムとの接触は厳禁だ」
一同が頷く。エルネストが重く頷いた。ルカが目を伏せた。カッシオが腕を組んで、硬い顔をした。
「もう一度、父の資料を隅から隅まであたってほしい」
ナディールが棚を見た。蝋の粒が並んでいる。兵士を配置し、警備を固めたつもりだった。それでも昨夜、ここに至るまで侵入を許した。
「それで分からなければ——アルカディアの力を借りるしかないか」
自分に言い聞かせるように呟いた。
◇
エアル王国の地下牢は、壁から水がにじんでいた。
石の間から細い染みが走り、足元の石畳が黒く濡れている。天井の低い廊下を進むと、鉄格子の列が続いた。採光用の小窓が一つあるだけで、午前の光が細く斜めに差し込んでいた。
アルヴィンが格子の前まで歩いてきた。
簡素な椅子を置いて、腰を下ろした。ゆっくりした動作。お前をじっくり見るつもりだ、とでも言うように。
格子の向こうで、ファブリツィオが壁に背を預けていた。左足に添え木が当てられ、革紐で固定されている。足首の角度が少し不自然だった。マルタの火の玉を剣で弾いた時、衝撃で折れた。それでも捕まった人間の崩れ方とは違う姿勢だった。背中が壁から離れない。それだけで、まだ戦っているように見えた。
アルヴィンを見上げると、苦虫を噛みつぶしたような顔をした。
「お前か」
「リミニで会っているから、ひと月ぶりかな」
「お前に関わってから——ろくなことがない」
アルヴィンが少し笑った。
「蒸留所の中の兵士たちは助からなかったが、外にいた兵士たちは一命を取り止めたよ。あの吹き矢は、毒の量が調整されていた。良くできているな」
ファブリツィオは何も言わなかった。
「何が聞きたい」
アルヴィンの目の色が変わり、笑いが消えた。詐欺師の目だ。阿久津の目だ。
「お前が今まで殺してきた者について…、聞かせてもらおうか」
ファブリツィオがアルヴィンを睨んだ。視線が絡み合う。
「ロレンツォは今頃——何を考えているだろうな」
アルヴィンが続けた。椅子に座ったまま、前のめりにもならず、ゆったりと話した。
「お前が捕まって一番困るのは、あいつだろう。口封じを考えるんじゃないか」
「だとしたら?」
ファブリツィオが低く言った。
「捕まった以上、死は覚悟している」
「うちの宰相は人格者でね」アルヴィンが言った。「親の仇を捕まえたからって、なぶり殺しにしたりしない。だがロレンツォは違う」
間があった。
ファブリツィオの視線が、少しだけ揺れた。
「保険をかけているだろう」
アルヴィンが言った。声のトーンは変わらない。
「普通、プロは記録をつける。でないと——後で踏み倒されるからな」
ファブリツィオが壁の方を向いた。
「今まで殺してきた人間の記録はどこにある。早く記録があることを知らせないと、刺客がやってくるぞ」
アルヴィンがファブリツィオの顔を覗き込んだ。
「隠し場所を言えば——ロレンツォの耳に届くように噂を流してやる。ファブリツィオが暗殺帳を隠していると」
一呼吸置いた。
「嫌なら、この牢の警備を薄くしよう」
意地悪く言った。
長い沈黙が訪れた。
ファブリツィオは窓を見る。採光窓から入る光が、石畳の上に細い四角を作っていた。しばらくその四角を見ていた。
やがて、目線を戻した。
「リミニの大金庫だ」
声は低かった。
「古い出生記録に、紛れ込ませてある」
アルヴィンが小さく、でも少し寂しそうに笑った。
「ロレンツォが守る大金庫に、自分に致命傷を負わせる記録がある——そいつはいいや」
立ち上がった。椅子を脇に寄せ、格子に背を向けて歩き出した。
格子の向こうで、ファブリツィオは動かなかった。
天井の四角い光を、また見上げていた。




