第75話 デューデリジェンス
数日後、リミニの黒い馬車が街道を連ねてやってきた。
悪路に強い複雑な懸架機構を持つ馬車が、四台、五台と続く。車輪が砂埃を巻き上げながら、エアル王都の入り口に止まった。
アルヴィンとフェルディナントが出迎えていた。
最初に降り立ったのはバルトロメオだった。五十代の男。服の仕立てが良い。馬車から降りながら、すでに周囲に目を走らせている——商人が習慣で身につけた、値踏みの目だ。続く馬車から、書記官たちが次々と降りてくる。一人、二人、十人——最後には二十人になった。全員、腕に書類の束を抱え、腰に羽根ペンを差している。
「ようこそエアルへ」フェルディナントが頭を下げた。
「この度はよろしくお願いいたします」バルトロメオが前に出た。アルヴィンを見つけ、少し目を細めた。「おや、顧問殿もご一緒で」
「私はあなたと銀行の両方の顧問を務めておりますので」アルヴィンが穏やかに言った。「ご一緒させていただきますよ」
「それはありがたい」バルトロメオが大きく頷いた。「今回の調査では、現在正味価値の計算が早速使えます。あなたに教えていただいた手法が、ここでも役に立つとは」
指先が、軽くズボンの脇を叩いた。
◇
王宮の大きな会議室に、三十人が向かい合って座った。
エアル側が十人。リミニ側が二十人。テーブルを挟み、それぞれが書類を広げている。インクの匂い、羽根ペンの音、紙をめくる乾いた音——部屋が静かな緊張に包まれていた。
バルトロメオが立ち上がった。
「これから一週間で、南街道開発計画の採算性を両チームで検証します。内容は区間ごとの建設コスト、将来の流通品種、交易量を精査した上での通行料見込み、経済波及効果——多岐にわたります」
フェルディナントが続けた。
「基礎資料はこちらで用意しました。昼間は両チームで精査し、最も現実的なシナリオを採用します。それから両チームに分かれて計算に入ります。翌日、両者の数字が一致すれば次の段階へ。一致しなければ原因を究明します」
「計算は全てエアルの通貨、リル建てで行います」バルトロメオが補足した。「大変な作業になりますが、どうぞよろしく」
アルヴィンは部屋の隅で腕を組んでいた。特に何も言わない。ただ——会議の進み具合を、静かに楽しそうに見ていた。
議論が始まった。
建設コストから入る。山間部の区間は岩盤が固く、掘削に特殊な道具が必要になる。平野部は輸送が楽な分、木材の入手が難しい。材料の産地から離れるほど輸送費が積み上がる。架橋が必要な川は何ヶ所あるか。雨季の浸水リスクをどう見積もるか。
リミニの書記官たちが矢継ぎ早に数字を出してくる。エアル側の書記官も負けずに資料を引く。数字が飛び交い、議論がまとまり、その日の基礎データが固まっていった。
午後の遅い時間、それぞれが別の部屋に移動した。
リミニの計算室に、二十人が整然と座った。各自の前に紙が広がり、羽根ペンが走り始める。無駄口は一切なかった。精鋭という言葉通りだ。バルトロメオが立って全員を見渡し、満足そうに腕を組んだ。
やがてリーダー格の書記官が手を上げた。
「出来ました」
バルトロメオが計算書を受け取り、一から目を通す。数字の並びを指先で追い、桁を確認し、合計を検算する。間違いなかった。
「完璧だ」
計算書を携え、大会議室に戻る。精鋭二十人が当日中に仕上げた——エアル側が十人で追いつけるはずがない、と思いながら計算書を机に置こうとして、ふと気がついた。
エアル側の机にも、すでに計算書が置かれていた。
「……我々より、早く?」
バルトロメオが首をかしげた。
◇
翌朝、三十人が再び机についた。
「昨日の結果を比較します」バルトロメオが言った。「我々の数字は八十七億五千三百九十四万八百一リル」
「エアルの数字は」フェルディナントが計算書を開いた。「八十七億五千三百九十四万八百一リル。一致しましたな」
室内に、安堵の声が広がった。雑な計算なら数字が一致するわけがない。二チームがそれぞれ緻密に積み上げた結果が一致したことの重みを、この部屋の全員が知っていた。
バルトロメオは拍手しながら、静かに考えていた。
エアルは半分の人数で、自分たちより早く、同じ数字を出した。
翌日も、その翌日も、同じことが起きた。計算量が増えるほど、差は開いた。リミニの精鋭が計算を終える時には、エアル側は既に作業を終えていた。計算違いが出て再計算が必要になっても、エアル側はすでに次の計算書を用意していた。
ある日の昼、バルトロメオはフェルディナントに尋ねた。
「昨日は何時頃に計算が終わりましたか」
「昨日は計算量が多かったので」フェルディナントが少し考えてから答えた。「二時間ほどかかりましたでしょうか」
「我々が六時間かけた作業を——たった二時間で」
「我々には、銀行由来のシステムがありまして」
それ以上は言わなかった。
リミニ側の書記官が小声で囁いた。「エアルは紙をこれほど贅沢に使うのか」
「製紙工場で藁から作るそうだ」隣の者が答えた。
「この紙も輸出商品になるぞ」
それを聞きながら、バルトロメオの指が、テーブルの端を静かに叩いていた。
◇
七日目の朝、最終日が来た。
「我々の数字は百七十億四千五百八十七万三リルです」バルトロメオが立って言った。
「エアルの数字も百七十億四千五百八十七万三リル」フェルディナントが穏やかに答えた。「完全一致です」
拍手が起きた。
「八十七億五千三百九十四万八百一リルリルの投資に対して、収入の現在正味価値は百七十億四千五百八十七万三リル」バルトロメオが部屋を見渡した。「この投資計画は、明確な意義があります」
フェルディナントが頷いた。アルヴィンが窓際で、どこか遠い目をしていた。
「この結果は帰国後速やかに委員会にかけ、具体的な出資計画を練って参ります」
拍手の中で、一週間の作業が幕を閉じた。
◇
会議が終わると、バルトロメオがアルヴィンに近づいてきた。
「少しよろしいですか」
「何でしょう」
「あの計算の謎を——教えてください」
アルヴィンが首を傾けた。「計算の謎?」
「エアルの書記官は我々の半分だ。しかし計算にかけた時間は、我々の何分の一でしかない」バルトロメオの指が、自分の腿を叩き始めた。「何か数学的に画期的な手法を使っているに違いない。フェルディナント殿は独自のノウハウとおっしゃって、教えてくださらない」
「私に言われましても」
「あなたは私とも顧問契約を結んでいるじゃありませんか」バルトロメオが一歩前に出た。目が真剣だった。「これを解明しないと、帰国できません」
アルヴィンが少し困った顔をした。それから、ゆっくりと頷いた。
「分かりました。明日の午後、銀行に来てください」
◇
翌朝、アルヴィンが銀行の執務室に入ると、エルネストとヴィトゥスが向かい合って話し込んでいた。
「アルカディアの魔法の灯があっただろう」アルヴィンが言った。「熱くない、青い光」
「ええ」エルネストが顔を上げた。「向こうでは一般的でした」
「コスパの良い灯りです」ヴィトゥスが付け加えた。
「どこかで手に入らないか」
「聖シュタインの魔法部隊が持っていたような気がしますが」
アルヴィンがヴィトゥスを見た。「悪いが今日中に持ってきてくれ」
ヴィトゥスが露骨に嫌な顔をした。「カラカスまで日帰りですか」
アルヴィンが金貨を取り出し、放った。ヴィトゥスが受け取る。
「それで魔法部隊から灯りを譲ってもらえ。つりはお使い賃だ」
「……それはタイパの良い仕事ですね。行ってまいります」
ヴィトゥスが部屋を出ていくのと入れ替わりに、若い職人が入ってきた。細い指。懐に工具を入れている。
「急な呼び出しとはどういうことですか。計算器が壊れましたか?」
「よく来た」アルヴィンが立ち上がった。「これから人が入れるくらいの箱を作る。手伝ってくれ」
「箱?」
「外国人に計算器を見せるわけにはいかないからな」
職人が一瞬だけ間を置いてから、工具を取り出した。
「分かりました。寸法はどのくらいで」
◇
翌日の午後、バルトロメオが国立銀行の玄関に立った。
アルヴィンとフェルディナントが出迎える。バルトロメオが建物を見渡した。増設が続いて大きくはなっているが、リミニの石造りの金融街と比べれば、まだ素朴な建物だ。
「いや、無理を言って申し訳ありませんな」バルトロメオが苦笑した。
「見るだけでしたら」フェルディナントが静かに言った。
「こちらへ」
アルヴィンが先に立って歩き始めた。廊下を進み、執務室をいくつか過ぎ、突き当たりまで来た。そこに一枚の扉があった。
扉に、小さな板が打ちつけてある。「計算機室」と書かれていた。
「計算機……?」
バルトロメオが眉を上げた。
アルヴィンが扉を開けた。
室内は暗かった。窓に厚いカーテンが下ろされ、夏の日差しが完全に遮られている。昼間でも夜のような暗さだった。
部屋の中央に、大きな箱があった。
人が一人入れるほどの大きさ。黒く塗られた木の箱で、側面にいくつかのスリット穴が開いている。その穴から——青い光が漏れていた。冷たく、揺れず、ただそこにある光だった。炎ではない。魔法の光だと、見た者なら誰でも分かる。
バルトロメオの喉が鳴った。
「これは……」
「魔法の計算機です」アルヴィンが言った。「ここからカードを差し込むと——」
スリット穴にカードを押し込む。箱の内側で、カラカラ、と機械音が響いた。軽い、連続した音。歯車が回るような音だった。やがて別のスリット穴から、カードが滑り出てきた。
表面に、数字が印字されていた。
バルトロメオが一歩近づいた。カードを手に取り、数字を見た。もう一枚差し込む。また音がして、また出てくる。数字が変わった。
「……これが」呟いた。「脅威の計算スピードを生み出していたのか」
振り向いてアルヴィンと目を合わせた。
「いくらで売ってもらえますか」
「ご覧の通りアルカディアの技術です」アルヴィンが穏やかに言った。「我々にできるのは、使うだけで」
「それでいくらで買われました」
アルヴィンが少し考える顔をした。「金貨十万枚、くらいでしょうか」
「高い」バルトロメオが一拍置いた。指が、腿の上で激しく動き始めた。「しかし——その価値は、ある」
三人が部屋を出た。廊下に出ると、バルトロメオがまだ何かを計算しながら歩いている。指が止まらない。
薄暗い部屋に、静寂が戻った。
しばらくして、箱がゆっくりと動いた。
側面が開き、中から人間の手が這い出てきた。続いて頭が出て、肩が出て——ヴィトゥスが箱の中から這い出し、床に座り込んだ。手回し計算機を膝の上に抱えたまま、大きく息をついた。
夏の密室。箱の中。
「暑い……」
それだけ言って、額をぬぐった。
◇
その日の夕方、バルトロメオは自由都市への帰途についた。
二つの重要な情報を届けるために。
南街道は投資に値する。そして——アルカディアの計算機は、自由都市にこそ導入すべきものだ。
馬車が砂埃を巻き上げながら街道を進んでいく。バルトロメオはずっと窓の外を見ていた。指が、ずっと膝を叩いていた。
しかしエアルを離れるころ、もう一つの報がロレンツォのもとに届きつつあった。
レアンドロ・チェネーレの死。
そして——ファブリツィオの捕縛。




