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第74話 カラカスの襲撃


 銀行の職員たちが久しぶりの深い眠りに落ちたころ、数人の男たちが密かにエアルの国境を越えていた。


 夜の街道に人影はなかった。草の匂いと、虫の声と、遠くで鳴く夜鳥の声。雲が薄く広がり、月の光が街道を白く照らしていた。


 先頭を歩く男は、目を閉じていた。


 灰色のコートが夜風に揺れる。レアンドロ・チェネーレの足取りには一切の危うさがなかった。石のひとつひとつを避け、窪みを踏まず、まるで昼間の街道を歩くように、淀みなく進んでいく。


 その後ろをファブリツィオが歩いた。数人の護衛が続く。


「こんなに堂々と歩いて——大丈夫なのか」


 ファブリツィオが低い声で言った。


 レアンドロが涼しい顔で答えた。


「問題ない。一ヴェーク先に警備が二名いるが、こちらに背を向けて歩いている」


 ファブリツィオが黙った。


 この男には——何もかもが見えている。目を閉じたまま、闇の向こうを見ている。リミニの国境でテロの実行犯たちを嗅ぎ分けたのも、この力だったのか。


 男たちは何の障害もなく夜道を進んでいった。


 ◇


 夏のカラカス地方は、遠くまで麦畑が続いていた。


 街道の両側に、黄金色に色づき始めた穂が揺れている。日差しは強く、乾いた風が麦の海を波立てていく。青い空に白い雲。どこまでも平和な農村の景色だった。


 帽子を目深に被り、顔を伏せたレアンドロが、その街道を歩いていた。ファブリツィオと護衛たちが、旅人を装って後に続く。


 レアンドロが不意に足を止めた。


 街道の脇の畑で、農夫たちが作業をしていた。鍬を振る者、水路を掘る者、穂についた虫を取る者。陽焼けした顔の男たちが、黙々と手を動かしている。


「どうした」


 ファブリツィオが前に出ずに、声だけを低く寄こした。


「魔法使いだ」


「どこに」


「あの農夫たちだ」レアンドロが帽子の鍔から視線を動かさずに言った。「強い魔法を感じる。一人や二人じゃない」


 ファブリツィオが目を細めた。鍬を振る男たちを見る。体格が良い。日焼けはしているが、手の動きが農作業に慣れていない。


「立ち止まると怪しまれる。行こう」


 一行は歩き続けた。農夫たちの視線が背中に触れた気がしたが、誰も振り返らなかった。


 ◇


 エアル王宮の閣議室に、閣僚たちが揃っていた。


 上座のエドゥアルト王が白い髭を撫でながら、静かに部屋を見渡している。ナディールがその隣で書類を広げた。


「国立銀行の現状はどうだ」


 フェルディナントが立ち上がった。


「はい。製紙工場から供給される安価な紙で、通帳と帳簿の問題は解決いたしました」眼鏡を押し上げ、背筋を伸ばして続ける。「業務の拡大に伴い、処理能力が課題となっておりましたが、この度導入した穴あけ判別機と手回し計算器で、こちらも解決いたしました」


 エドゥアルト王が小さく頷いた。


「よくやった」


 短い言葉だったが、フェルディナントは深く一礼した。


「一方で」ナディールが続けた。「少し大がかりな話が持ち上がっている。自由都市から要求のあった南部街道の整備について、こちらから逆に資金提供を申し入れたわけだが——」


 閣僚たちの間に、静かな緊張が走った。


「投資計画の採算性を確認したい、という申し入れがあった。建設コストを区間ごとに積み上げ、通行料の収入見込み、周辺地域への経済波及効果などを、両国の書記官で相互に検証しようというのだ」


 ざわめきが起きた。


「それはつまり——リミニの書記官がエアルに乗り込んでくるということですか」


 ブラントが低い声で確認した。


「そういうことになる」ナディールがフェルディナントを見た。「やっと銀行が落ち着いたところに矢継ぎ早ではあるが——できるか」


「大変な作業にはなりますが」フェルディナントが答えた。眼鏡の奥の目が、すでに計算を始めている。「穴あけ判別機と手回し計算器があれば、できます」


「十人委員会の中で最も数字に強いのはバルトロメオだ。彼が書記官を引き連れてやってくるだろう」


 ◇


 夜の蒸留所は、静まり返っていた。


 昼間の作業音も、職人たちの声も消えている。石造りの建物は月明かりを受けて白く浮かび、その輪郭がくっきりと夜空に浮かんでいた。出入り口の脇には松明が立てられ、橙色の炎が風に揺れている。


 三人の兵士が交代で外を見回っていた。


 林の暗がりに、人影があった。


「魔導物質は間違いなく、あの中だ」レアンドロが木の幹に背を預けたまま、目を閉じて言った。「外に三人。中に三人」


 ファブリツィオが蒸留所を見据えた。松明の位置、見張りの歩くパターン、窓の配置。全てを静かに頭の中に収めていく。


「あの守衛たちに気づかれずに入り込むのは——無理だな」


 後ろに控えた男たちを振り返った。


「よし。レアンドロの合図で、外の三人を一斉に制圧する。お前たちは裏側。お前は左手の兵士につけ」


 男たちが黙って頷き、闇の中に溶けていった。ファブリツィオは正面の見張りに向け、吹き矢の筒を構えた。


 レアンドロが周囲の気配を探った。近くに人の気配はない。農民の家の灯りが遠く、風の向きが良い。


 静かに、指を口にあてた。


 ピィィー——と鋭い口笛が夜気を切った。


 ファブリツィオが息を止め、吹き矢を放った。細い針が弧を描き、正面の兵士の首筋に吸い込まれた。男が音もなく崩れ落ちる。左手でも、裏手でも、同じことが起きていた。


 ファブリツィオが走り出した。石畳を素足のように滑り、蒸留所の壁に張り付き、窓枠に手をかけると、一息に乗り越えた。護衛たちが後に続く。


 レアンドロは目をつむったまま、悠々と歩き出した。


 ◇


 蒸留所の内部は薄暗かった。


 レアンドロが扉を開けると、廊下にはファブリツィオに倒された三人の兵士が折り重なっていた。床に崩れた体の横を、レアンドロが音もなく歩いていく。閉じた目のまま廊下を進み、次の扉を押し開けた。


 大量の樽が並んでいた。


 天井まで積み上げられた木の樽。熟成の進んだ蒸留酒の香りが漂っている。レアンドロが立ち止まり、樽を一瞥した。


「酒にも魔法がかかっているのか」


 誰に言うでもなく、呟いた。


 廊下の先に、蒸留室があった。


 扉を開けた瞬間、熱気が顔を撫でた。昼間の余熱が残っている。巨大な銅の蒸留窯が、部屋の中央に鎮座している。見上げると、天井まで届く高さだ。磨かれた銅の表面が、夜の薄明かりを反射して鈍く輝いていた。その側面には、大きな翼を広げた鳥のようなものが描かれている。


 レアンドロが視線を上げた。


「ここには強力な守護魔法がかかっている。間違いないな」


 更に奥に進んだ。廊下の突き当たりに、小さな扉があった。実験室だ。ドアノブに手をかける。


 鍵がかかっていた。


「ファブリツィオ」


 低く名前を呼んだ。


 遍歴の騎士が進み出た。扉を一瞥してから、肩から体当たりをかける。重い音。扉がわずかにたわんだ。護衛の男たちも加わる。二度、三度——木が軋む音が廊下に響く。最後にファブリツィオが足を上げ、蹴り上げると、扉が向こう側に倒れた。


 室内は静まり返っていた。


 壁の棚に、蝋の塊がいくつも並んでいた。鶏の卵ほどの大きさで、中に何かが封じ込められているように、内側から仄かに光っている。


「これだ」


 レアンドロが近づいた。一つを手に取り、指先で表面を確かめる。


 ファブリツィオが覗き込んだ。「蝋に封印されている」一呼吸置いて、「開けてみるか」


 レアンドロが頷いた。


 ファブリツィオの剣が一瞬だけ光を弾いた。蝋の端が、音もなく切り落とされた。レアンドロが塊を傾ける。蝋の中から、小さな粒が手のひらに転がり出た。


 その瞬間——


 部屋が白くなった。


 まばゆい光が四方に広がり、壁を、床を、天井を染めた。窓の隙間から光の筋が外へ漏れ出す。蒸留所全体が、内側から灯されたように輝いた。


 レアンドロが目を見開いた。


 手のひらの上で、アルカーナムが静かに輝いている。


「——凄い」


 声が出た。「凄いぞ。全部が見える。全部が、見える」


 見えた。


 本当に、世界を全部見ることが出来る。


 一ヴェーク先の街道の石畳。林の奥で眠る鳥の羽。遠い村の煙突から立ち上る朝の煙。川の底を流れる砂粒。雲の裏側の湿り気。星と星の間の空白——全ての暗がりに光が差し込んでいく。これが彼が生涯かけて磨いてきた探知の魔法の、本来の姿だった。境界がなかった。どこまでも広がり、どこまでも見えた。


「どんなに遠くも——どんなに暗くても——」「アルカディアが見える。アリアドネが何をしているかも一目瞭然だ」


 声が細くなった。


 情報が、流れ込んでくる。


 一つ。十。百。千。止まらない。アルカーナムは触媒だ。全ての魔法反応を倍増させる。レアンドロの探知の魔法は今、世界の隅から隅まで伸びていた。遠い国の市場の喧騒。海の上の嵐の轟き。山の頂で吠える風。人の体温。石の冷たさ。土の匂い。


 一万。十万。百万。


 脳の中を、見たことのない風景が洪水のように流れていく。知らない顔、知らない声、知らない空の色——それが切れ目なく、途切れることなく、怒涛のように押し寄せてくる。処理できない。追いつかない。一つの光景を把握する前に、次の千の光景が流れ込んでくる。


 レアンドロは立っていた。


 立ったまま、何かを見ていた。しかし何を見ているのか、もう彼自身には分からなかった。全てが見えて、何も見えなかった。あまりにも多くの光の中では、光の意味が失われる。


 手のひらが、震えた。


「……ァ」


 喉から、音にならない声が出た。


 膝が折れた。


 ファブリツィオが腕で顔を覆いながら、その様子を見ていた。レアンドロの体が、ゆっくりと前に傾く。手のひらからアルカーナムが落ち、床を転がった。体が崩れ落ちる音がした。


「おい」


 駆け寄って肩を揺さぶる。返答はなかった。仰向けになったレアンドロの目が、天井に向けて開いていた。しかし何も映していなかった。


 死を何度も見てきた男が、悟った。


 その目には魂がなかった。


 ◇


 蒸留所の窓から漏れた光に気づいた者がいた。


 遠くで声が上がる。「何だ、あの光は」「蒸留所が光っているぞ」


 ファブリツィオが立ち上がった。


「ぐずぐずしていると人が増える。急ぐぞ」


「こいつは——」護衛の一人がレアンドロを指さした。


「死んでいる。放っておけ」


 ファブリツィオは棚のアルカーナムを手に取ると懐に収めた。来た廊下を逆に走る。窓を乗り越え、外に出た。


「衛兵が倒されているぞ」


 誰かが叫んだ。松明が揺れる。人影が増えていく。


「賊が逃げていくぞー」


 声を背に受けながら、ファブリツィオは走った。


 前方に人影。


 剣の柄に手をかけた瞬間——あたりが明るくなった。


 火の玉が飛んできた。


 ファブリツィオが反射的に剣を抜いた。正面から受け止める。猛烈な熱が顔を焼いた。火の玉は剣に弾かれて地面に叩きつけられ、草に燃え移りながら燃え続けた。


 しかし衝撃は凄まじかった。剣がはじき飛ぶ。金属が土に突き刺さる音がした。ファブリツィオ自身も後ろに吹き飛ばされ、地面に叩きつけられた。


 足首に激痛が走った。


 起き上がろうとして、足に力が入らなかった。見下ろすと——足首が、あるべき方向を向いていなかった。


「停まれ」


 人影が前に出た。若い女性だった。細い腕に、しかし確かな炎の気配がある。「止まらなければ、次は焼き殺しますよ」


 マルタ・フォン・ヴィンターが、まっすぐにファブリツィオを見ていた。


 ファブリツィオは天を仰いだ。


 夏の夜空に、星が散っていた。

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