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第73話 銀行の飛び道具


 ロレンツォはじっと待っていた。


 屋敷の奥まった部屋。蝋燭の灯りだけが揺れている。窓のない石壁に、いくつもの守護魔法がかかっていた。外部への音漏れを遮断し、覗き見を防ぎ、記憶を曇らせる。この部屋で交わした言葉が外に出ることはない。


 男が扉から入ってきた。


 灰色のコートを纏い、目を閉じている。しかし足取りに迷いはなかった。部屋の広さを、家具の配置を、蝋燭の位置を——全て最初から知っているかのように、まっすぐに椅子まで歩いてきた。


 腰を下ろすと、閉じた目のまま言った。


「議長、ずいぶんとたくさん守護魔法をかけていらっしゃいますね」


「見えるのか」


「ええ」レアンドロ・チェネーレが答えた。「守護魔法の他に、心を隠すような魔法も使われている」


 ロレンツォは少し考えてから言った。


「目は見えずとも——全てが見えるわけだ」


「探知の魔法を使うとしばらく目が使えません」男の口元が、わずかに上がった。「だが、何の問題もありません。全てが見えるのだから」


 ロレンツォが指を組んだ。


「魔導物質というのを聞いたことがあるか」


「魔導物質……」レアンドロが繰り返した。「アルカディアで聞いたことがあります。魔法を増強させるという」


「ああ。エアル王国で精製に成功したようだ」


 間があった。


「魔法使いなら誰でも欲しくなりますね」レアンドロがゆっくりと言った。一呼吸置いて、「アリアドネが目の色を変えるでしょう」


「それを——探知することができるか」


「さあ」男が少し首を傾けた。「やったことはありませんが、恐らく感じ取れるとは思います」


「カラカス地方だ。大体の場所は分かっている。それを奪ってきてほしい」


 沈黙。


「エアルに潜入とは」レアンドロが静かに言った。「危険な仕事ですね」


「遍歴の騎士たちを護衛につけよう」


「成功したら——何をいただけますか」


「何でも望むものを」


 レアンドロの口元が吊り上がった。ペロリと舌を出して、閉じた目のままロレンツォを見た。


「承りました」


 ◇


 エアル国立銀行の執務室に、二つの器械が運び込まれた日のことを、フェルディナントは忘れないだろう。


 一つは穴あけ機だった。藁の紙を何層も重ねてプレスした厚紙に型板をあて、レバーを引き下ろすと、正確に丸い穴が開く。もう一つは、側面に零から九までの数字が刻まれたリングが横一列にずらりと並んだ器械で、右端に手回しのハンドルがついていた。どちらも若い職人の手によるものだった。


 フェルディナントが職員たちを部屋の中央に集めた。


 全員、目の下に隈を作っていた。連日の残業が積み重なった顔だ。帳簿の山から顔を上げ、首をすくめながら集まってくる。


「今後、通帳を作ったら——個人情報に沿って、このカードに穴を空けていく」


 フェルディナントが一枚の厚紙を持ち上げた。縦横に格子状の点が印刷してある。


「これが穴のルール表だ。一般口座ならここ、定期口座ならこっち。個人ならここ、店や団体ならここ」型板を厚紙に当て、レバーを引く。カチン、という小気味よい音とともに、穴が開いた。「こうして各自の情報に合わせたカードを作っておく」


 職員たちが顔を見合わせた。


「それで——たとえば今日、出し入れがあった個人の一般口座を調べたいとする。ここ、と、ここに細い棒を通して」フェルディナントがカードの束に二本の棒を差し込み、軽く振った。「振ると、それ以外のカードは落ちる」


 バラバラ、と乾いた音を立てて、厚紙が床に落ちていった。


 誰かが息を呑んだ。


「ここに残ったカードだけを集計すれば良い。その時に使うのがこちらの計算器だ」


 フェルディナントがリングの並んだ器械を指した。カードに書いてある数字をリングにセットし、ハンドルを回す。次の数字をセットして、また回す。リングが順に動き、桁が繰り上がり、合計が現れていく。


「どういう仕組みなんですか」


 一番若い職員が声を上げた。フェルディナントが小さなカバーを外すと、細かな歯車がびっしりと並んでいた。ハンドルを回すたびに、歯車が連動して回転していく。


「そうか——これで桁が繰り上がるんだ」


 別の職員が呟いた。目が輝いていた。帳簿の数字を毎日追い続けてきた者の目だ。仕組みを理解した瞬間の顔。


「分かったら、今日の計算をどんどん進めるぞ」


 一斉に頷く。職員たちがカードに棒を通し始めた。バラバラ、と落ちる音。数字をセットしてハンドルを回す音。部屋が、初めて聞く音で満ちていった。


 夢中になった。誰も口を利かなかった。ただ手だけが動き続けた。


 やがて一人がハンドルを止め、器械の表示を読み上げた。


「……三億八千七百七十四万六千五百二十……」


 手元の紙と見比べる。隣の者も覗き込む。


「合っている」


 誰かが言った。それから、歓声が上がった。


 フェルディナントが振り返ると——窓の外がまだ明るかった。初夏の西日が、薄く斜めに差し込んでいる。


「嘘みたいだ」


「毎日、十時までかかっていたのに」


「今日は早く眠れる」


「やったーっ」


 叫びながら帰り支度を始める者がいた。笑い声が起きた。慌ただしく立ち上がる音、椅子を引く音、荷物をまとめる音。数ヶ月ぶりに聞く、仕事終わりの活気だった。


 フェルディナントは動かなかった。


 二つの器械を見つめていた。穴あけ機の型板。歯車の並んだ計算器。どちらも素朴な作りで、見た目に奇妙なところはない。ただの紙と、ただの金属だ。


 それなのに。


「……確かに飛び道具だ」


 誰もいなくなった部屋で、眼鏡を外し、静かに呟いた。


「あの人は——一体、何者なんだ」 

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