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第72話 最悪の計算


 エアル国立銀行は、また増築されていた。


 元の建物の隣に、新しい石壁が立ち上がっていた。職人が組んだ足場の上で、若い石工が槌を振っている。窓枠の木材が積まれ、砂と石灰が混ぜられている。午後の光が新しい石の表面に白く跳ね返っていた。


 その内側の執務室は、相変わらず書類の山だった。


 フェルディナントが伝票類の束の前に座っていた。眼鏡の縁に指を当て、表の数字を目で追っている。山は両側から迫っていて、机の端に積み上げられた残りも、まだ相当な高さがあった。


「……また口座が増えました」


 入ってきたアルヴィンに向かって、フェルディナントが言った。


「毎日の帳簿が閉まるのは、早くても夜の十時です。職員も頑張っていますが——限界が近い」


「分かった分かった」


 アルヴィンが頷いた。


「それで、金属加工の職人は呼んでくれたかい」


「ええ。彼です」


 部屋の隅に、若者が一人座っていた。二十歳そこそこだろうか。ひどく細い指をしていた。手元に何かを分解したものが並んでいる。小さな歯車、細い螺子、薄い金属板。時計の部品のようだった。若者はそれをじっと見ながら、指先で一つひとつ触れていた。


「やあ」


 アルヴィンが声をかけた。


 若者が顔を上げた。目が少し大きかった。


「新しいものを作ってほしくてね」


「新しいもの、ですか」


 若者が背筋を伸ばした。


 アルヴィンが棚の方へ歩き、厚い紙を一枚持ってきた。藁から作った紙を何層か重ねてプレスしたものだ。製紙工場でできた、このエアルでしか手に入らない紙だった。


「このカードに、穴を開けるんだ」


「……穴?」


「ああ。紙に穴を開けて、その穴の位置で情報を分類する」


 アルヴィンが羊皮紙を引き寄せ、指で格子を描いた。縦横に線を引く仕草。


「例えばここが『リミニ関連』。ここが『銀行口座』——穴が開いていれば該当する。開いていなければ、しない」


 フェルディナントの手が、帳簿の上で止まった。


「……それを束にして、針を通せば」


「針が穴を通ったカードだけが、こちらに落ちる」


 間があった。


 フェルディナントの目が、少しずつ変わっていった。いつも帳簿の数字を追う目がもっと遠くを見ている。


「情報を——全部、読まなくていい」


「読まなくていい」


 フェルディナントが眼鏡を外した。珍しい仕草だった。指の先が、微かに震えている。


「これが、飛び道具ですか」


「そんなもんだ。時間を飛びこす」


 アルヴィンがさらりと答えた。それから若者に向き直った。


「正確に穴を開けられるか」


 若者が紙とアルヴィンの格子の図を交互に見た。


「……革細工の目打ちと、型板があれば」


「できそうか」


 若者が頷いた。細い指が、無意識に動き始めていた。


「作れます。ただ——量産するなら型を統一しないと」


「統一してくれ。一枚一枚の穴の位置が違ったら、機械が使えない」


 フェルディナントがまだ眼鏡を持ったまま、宙を見ていた。


 一日がかりで追いかけていた数字の山が、穴の開いた一枚の紙の前に霞んでいく。そんな顔だった。


 ◇


 自由都市リミニ。


 十人委員会の議場は石造りの大きな建物の中にあった。蹄鉄の形をしたテーブルの周りに、各委員が座っている。夏の始まりの光が高窓から差し込み、磨かれた床に角度のある影を落としていた。


 事務官が議題を読み上げた。


「次は——聖シュタインに対する政治工作の件です」


 アゴスティーノが立ち上がった。


 あの日から、この男の顔は変わっていた。目の奥に何かが燃えている。その炎は怒りとも悲しみとも区別がつかなかった。ただ消えることなく、じっと、そこにあった。


「セルヴィアを動かすことに成功した。聖シュタインのクロッツ伯爵家に、異端審問が入る」


「皇帝寄りの名家ですな」


 バルトロメオが帳簿から顔を上げずに言った。


「クロッツ伯爵が異端審問に素直に応じるとは——思えませんな」


 フィリッポが片眼鏡の奥で目を細めた。


「その通り」


 アゴスティーノが頷いた。


「伯爵家の領地と境を接するのは、マーゲン男爵家だ。両家は犬猿の仲で、以前から小さな争いが続いている。神の裁きに応じないことを口実に攻め込むよう、そそのかしている」


 全員の頭に静かな計算が走った。


「どちらが勝っても、国力を削ぐことができるな」


 ロレンツォが冷たい声で言った。


 アゴスティーノが満足そうに頷く。それからもう一つ、と続けた。


「面白い情報がある。聖シュタインの魔法部隊の二十人が、エアルに送られた」


 ロレンツォの目が、わずかに動いた。


「私も聞きました」


 フィリッポが引き取った。


「軍事顧問という話ですが——実際のところは、狂ったカール皇帝から魔法部隊を引き離すためだとか」


 笑い声が起きた。数人が顔を見合わせた。


 ロレンツォだけが、笑わなかった。


 一人、遠くを見ていた。


 ◇


 自室に戻ると、マルティーノが蝋燭に火を入れていた。


 夕暮れの光が大きな窓から差し込んでいた。自由都市リミニが一望できる。運河、橋、港。二百年かけて積み上げてきた富が、夕日の中で橙色に染まっていた。


 ロレンツォは椅子には座らなかった。窓の前に立ち、街を見下ろした。


「エアルの蒸留所は復活しているはずだ」


 低い声だった。独り言のような声だった。


「魔導物質の精製が進んでいるとして——そこに聖シュタインの魔法部隊が入ったということは」


 指が片眼鏡の縁に触れた。


「いくらになる」


 パレードで見た光景が蘇った。皇帝誕生祭の日。歩兵、騎士団、そして魔法部隊が通り過ぎた後——鎧がゆっくりと溶け落ちていくのを、ロレンツォは見ていた。金属が液体になる様を。


 あの魔法部隊が、アルカーナムを持ったなら。


 自由都市の白い建物が溶ける。港の船が燃える。運河の水が蒸発する。二百年分の富が灰になる——そういう光景が、頭の中から離れなくなっていた。


 計算して出た答えが、今回ばかりは体に響いた。額に、薄く汗が浮いていた。


「あの男は——常に次の手を動かしている」


 アルヴィンの顔が浮かんだ。あの涼しい目。「収奪は一度だけです」と言った時の、揺れない声。


 ロレンツォは静かに首を振った。


「あの男が、攻撃魔法に大量の魔導物質を使うというのか」


 自分で問いかけて、自分で止めた。


 その問いに意味はない。最悪に備えるのが、商売の鉄則だ。


「マルティーノ」


「はい。お呼びでしょうか」


 穏やかな声が返ってきた。三十年、変わらない声だ。


「レアンドロ・チェネーレを呼びなさい」


「——承知いたしました」


 マルティーノが一礼して、部屋を出た。扉が静かに閉まった。


 ロレンツォは一人になった。


 窓の外で、夕日がリミニの街を最後の光で包んでいた。運河が金色に光っている。美しい街だった。二百年前の先人が、石一つ積み上げるところから作ってきた街だ。


 片眼鏡を外し、静かに拭いた。


 ◇


 カラカス地方。


 雨上がりの麦畑に、朝の光が差していた。


 土が黒く湿っている。昨夜の雨が地面に残り、麦の葉についた水滴が光を弾いていた。空気が澄んでいて、遠くの山まで見えた。


 農民たちが魔法部隊に指示を出していた。


「こんなに湿気が高い日が続くと病気になる。そこに溝を掘って、水はけをよくするんだ」


「は、はい」


 作業着を着た魔法使いが、額の汗をぬぐいながら鍬を構えた。コートではなく、くたびれた麻の服を着ている。泥が跳ねていた。


「もっと深く——そうだ、そこだ」


 農民が頷いた。


 別の区画では、出始めた穂についたアブラムシを一匹ずつ探し、引きはがしていた。指先でつまんで、地面に落とす。また探す。また落とす。


 初夏の麦畑で、大陸最強の魔法部隊が、額に汗して作業に明け暮れていた。


 青い空の下で、穂先が風に揺れていた。

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