第71話 屯田兵契約
カラカス地方に、初夏の風が吹いていた。
麦の穂が出始めている。青々とした茎の先に、まだ小さな穂が顔を出していた。風が吹くたびに、一面がさわさわと揺れる。空は高く、雲は薄く、日差しは強くなり始めているが、まだ焼きつくような暑さではない。
真っすぐに続く街道を二台の大きな馬車が進んできた。
ヴィルヘルム・フォン・ブラント軍務卿とアルヴィンが、その到着を待っていた。
ブラントは背筋を伸ばし、カイゼル髭の下に真剣な顔をしていた。腕を後ろに組んでいる。軍人として人を迎える時の姿勢だ。横に立つアルヴィンは、それよりずいぶん気楽な様子で、両手を前に組んでいた。
馬車が止まった。
扉が開き、最初に降り立ったのはリーナだった。旅の埃がついた外套のまま、真っ先にアルヴィンの方を見た。
「ただいま戻りました」
少し疲れた顔だったが、目が明るかった。
「魔法使い二十人。無事にお連れしましたよ」
「おかえり」
アルヴィンが笑った。
リーナの後ろからマルタが降り、それに続いて、魔法部隊の面々が次々と馬車から降り始める。二十人。帝国の軍服ではなく、移動用の簡素な服装だ。背が高い者、小柄な者、若い者、年かさの者——それぞれが周囲を見回した。
広い麦畑。村の屋根。大陸最強の魔法部隊には似つかわしくない、のどかな景色だった。
マルタが彼らを並ばせ始めた。
二十人が一列に並ぶのを見ながら、ブラントが小声でアルヴィンに言った。
「これが史上最強の魔法部隊か……」
「そうです」
「本当に、この予定で良いのですな」
アルヴィンが少し目を細めた。いたずらを思いついた子どものような顔だった。
「ええ」
◇
急ごしらえの宿舎は、大きな農家の建屋を改造したものだった。
以前は穀物の倉庫として使われていた建物だ。石の壁は厚く、夏でも室内は涼しい。床板を張り直し、ベッドを並べ、採光のための窓を増やした。できたばかりの木の匂いがした。
二十人が室内に通された。それぞれがベッドを一瞥し、その上に畳んである作業着を見て、顔を見合わせた。
アルヴィンが部屋の前に立ち、一同に向かって口を開いた。
「遠路はるばるご苦労様でした。ここが当面、みなさんの宿舎となります。それぞれ自分のベッドを決めてください。食堂はあちら、毎日三回食事が出ます」
全員が頷いた。
「軍事教練は月曜日」
また頷く。
アルヴィンが少し間を置いた。
「そして——火曜から土曜は、農作業をしてもらいます」
ざわめきが広がる。
「農作業?」
誰かが言った。隣の者を見た。その者も首をかしげている。
「そんなのは聞いていないぞ」
別の声が上がった。低く、不満を含んでいた。
アルヴィンが穏やかに言った。
「皆さんに署名いただいた契約書ですが、第三条をごらんください」
あの契約書だった。帝都の食堂で、炎を弾いた守護魔法の契約書。一人が慌てて取り出し、広げた。他の者も続く。紙をめくる音が重なった。
静かになった。
「第三条——」
誰かが声に出して読み始め、途中で止まった。
「……農作業の補助、および製紙工場の運営補助に従事すること?」
「そうです」
アルヴィンが落ち着いて言った。
「これは屯田兵の契約となっています。有事の際以外は、農業や工業に従事していただきます」
「我々は史上最強の魔法部隊だぞ」
声に怒りが混じっていた。部屋の空気が張り詰めた。
ブラントが一歩前に出た。
こほん、と咳をしてから、全員を見渡した。
「マルタの報告では、魔法部隊は体力が無く、遠征についていけなかったそうだ」
静かな声だった。しかし、誰も反論しなかった。
「君たちが史上最強を名乗るには、体力が必要だ。毎朝二ヴェークのジョギングをしてから農作業にかかる」
一斉に不満の声が上がった。ブラントは意に介さなかった。
この男は確信していた。
もし遠征に出た魔法部隊に体力があれば、遠征から生きて帰れたかもしれない。毒が回りかけた体でも、もう少しだけ動けたかもしれない。テロの後、追っ手から逃れ、リミニを脱出出来たかもしれない。
体力をつけることは、彼らの命を守ることだ。
「逃げ足は軍人の基本だ」
それだけ言った。
ざわめきが収まった。
「守備隊じゃなかったのか」
まだ諦めきれない声があった。
「守備隊だよ」
アルヴィンが言った。
「間もなく麦の穂が出る。赤カビ病の予防、倒伏の警戒。全力で麦を守るぞ」
全員が黙った。
合図をすると、扉の向こうから農夫たちがぞろぞろと入ってきた。鍬を持った者、縄を抱えた者、麦わら帽子をかぶった者。皆、陽に焼けた顔をしている。
「彼らが君たちに農作業教えてくれる先生です」
農夫たちが頷いた。
魔法部隊の面々は、農夫と農具と麦わら帽子を、信じられないものを見る目で眺めた。
少し離れたところで、マルタが微笑んでいた。彼女だけがこの計画を最初から知っていた。
◇
エアル王都。
「金色の麦」の二階は、昼間でも少し薄暗い。出窓から入る光が、丸テーブルの上に斜めに落ちていた。初夏の風が布の隙間から入り、ランプの炎を小さく揺らした。
ナディール、アルヴィン、リーナ、フェルディナント、エルネスト、カッシオ、ルカ——シャドーキャビネットの面々がそれぞれの席についていた。そして今日は、もう一人。
軍務卿ヴィルヘルム・フォン・ブラントが、扉の前で室内を見回していた。
立派なカイゼル髭が、少しだけ動いた。
「……フェルディナントが、どうしてここに」
眼鏡の財務担当官が背筋を伸ばした。顔色が悪い。夜遅くまで帳簿と格闘している疲れが、肌に出ていた。
「ここが——エアルのシャドーキャビネットです」
「影の内閣だ」
ナディールが言った。
「私を支える、もう一つの内閣。軍事的な緊張が高まっている今、ブラント軍務卿にも加わってもらおうと思ってな」
ブラントが部屋をもう一度見た。守護魔法使い、老化魔法使い、銀行警備員、財務担当官、雑貨屋の実業家、そして宰相。
この国の宰相は、王宮ではなく酒場の二階で国を動かしていたのか。
「……了解しました」
椅子に座った。その隣でエルネストが小さく頭を下げた。大きな手が、軽く会釈する仕草をした。
「エルネスト・ソラリスと申します。守護魔法が専門で」
「ルカ・メッツァーニです」
外見十五歳の男が澄まし顔で名乗った。ブラントがわずかに目を止めたが、何も言わなかった。
「カッシオと申します。銀行の警備を」
「腹痛の魔法が使えます」
ブラントが少し考えてから頷いた。
全員の挨拶が終わると、ナディールが口を開いた。
「では始めよう」
テーブルの上に地図が広げられた。
◇
「魔法部隊の皆さんはカラカスで農業の手伝いをしていただいています」
リーナが言い、それからマルタを見た。
「みんな、重労働で疲れるけれど——ご飯が美味しいって」
マルタが笑顔で答えた。
笑い声が起きた。ブラントも、今度も少し笑う。
「聖シュタインのハインリヒ皇太子は、自由都市の逆侵攻に備えて魔法顧問団を派遣する、という名目でカール皇帝を説得しました」
ナディールが続けた。
「アルヴィンの作戦通りだな」
「うまくいって良かった」
アルヴィンが地図に目を落としながら言った。
「自由都市の方は、従来のやり方に戻った。直接対決ではなく、聖シュタインの敵対勢力に経済的な援助を加速している」
「そうなると少数民族や地方貴族の反乱が——避けられないな」
ナディールが静かに言った。
マルタの顔が、一瞬だけ陰った。
「そこで、ブラント軍務卿にやっていただきたいことが二つある」
アルヴィンが顔を上げた。
「帝国の内部が燃えている間——リミニの目は全部そっちを向く」
地図の上で指が動いた。帝国の位置から、リミニへ。
「その間に、こっちはリミニを見る」
ブラントが地図を覗き込んだ。
「俺がリミニとのパイプを作ってある。フィリッポとの交易、バルトロメオとの経済顧問、様々な関係を使って、スパイを送り込んでほしい」
「何と!」
ブラントの眉が動いた。
「ロレンツォたちが今、見ているのはシュタインだ。足元は——見えていない」
フェルディナントが眼鏡を押し上げた。その目が少し輝いていた。商人を使ったスパイ工作という発想を、たちまち帳簿の言語に変換し始めている。
「もう一つ」
アルヴィンが続けた。
「傭兵を雇い始めてほしい。資金は用意する」
「この不安定な情勢ですから、兵士を増やすに越したことはありませんが」
ブラントが少し顔を引き締めた。
「一体、そんな金がどこから?」
「それはまだ言えない」
さらりと答えた。
「ただ、傭兵たちも魔法部隊と同じ屯田兵だ。貴重な労働力は無駄にしない。カラカス地方に配置する」
ブラントは少しの間、黙っていた。
この男と付き合ってきた時間のことを思った。自分自身が「何としても直接対決は避けねばならん」と言っていた頃のエアルから、随分遠くまで来た。金庫が空の国だったが、今では金貨百万枚を返済することが出来た。蒸留酒が外交の道具になっている。製紙工場が動いている。
資金の出所を聞かなかったのは——聞いても理解できないことを、この男との付き合いで学んでいたからだ。
「分かりました」
カイゼル髭の下で、口元が引き締まった。
「早速取り掛かります」
◇
会議が終わった後、全員が一階に降りた。
昼間の「金色の麦」は、夜とは違う顔をしていた。窓から初夏の光が差し込み、埃が光の中に浮かんでいる。常連たちがぽつぽつとテーブルを占めていた。グラスの音、くぐもった会話、食べ物の温かい匂い。
ブラントは用があると言って先に帰った。リーナたちも蒸留所に戻っていった。
一階の隅のテーブルに、ナディールとアルヴィンだけが残った。
ゴールデンフィールドを二つ、カウンターから運んできた。琥珀色の液体が、窓からの光を受けて揺れた。
「リミニで——十人委員会の前議長に会ったよ」
アルヴィンがグラスを置きながら言った。
「ロレンツォの前の議長か」
「ああ。前議長は——フリードリヒ王の研究に出資していた張本人だ」
ナディールが黙った。
「当時のロレンツォは、その貸し出しの担当者に過ぎなかった。前議長が先に始め、ロレンツォは後から入り込んだ」
「それは——知らなかった」
少し間があった。窓の向こうで、風が麦畑を揺らした。穂先が一斉にそよぐ音が、かすかに聞こえた。
「黒塗りの手紙に、こうあった」
アルヴィンが静かに続けた。
「フリードリヒとの交渉は決裂した。死んだら最優先で魔導物質をおさえろ。議長には渡すな——と」
ナディールが、グラスに手を伸ばしかけて、止めた。
「あの議長とは、前議長のことだったんだ。前議長はアルカーナムが完成したら、その一割をもらう約束をしていた。ロレンツォは父上が亡くなった後、その前に先回りして押さえようとした」
ナディールが、ゆっくりとグラスを持ち上げた。しかし飲まなかった。ただ持ったまま、テーブルの上の一点を見ていた。
「しかし——アルカーナムは全て、召喚魔法に使われた」
静かな声だった。
「ああ」
アルヴィンが頷いた。
「結局、前議長は失脚して今は隠居生活を送っている。ロレンツォもアルカーナムを手に入れることは出来なかった。ただ——前議長を蹴落として、議長の座を手に入れることが出来た」
ナディールがようやくグラスを口に運んだ。一口飲んで、また置いた。
「ロレンツォは——またアルカーナムを奪おうとするな」
「その可能性は高い。イサッコに埋蔵地を取り上げさせようとして失敗した。セルヴィアを使った聖地化も失敗した。最後は——直接取りに来るか」
「警備を増やす必要があるな」
「そのための、屯田兵制度だ」
二人はしばらく黙って飲んだ。
初夏の光が、少しずつ傾いていた。
アルヴィンには、ナディールに話していないことがあった。
前議長の言っていた錬金術の計画。金本位制を意図的に崩壊させ、その前に実物資産を買い占める——前世の言葉で言えば量的緩和、ハイパーインフレの誘導だ。計画そのものの論理は筋が通っていた。
そしてロレンツォがフリードリヒ王を殺したのは、アルカーナムを奪うためだけではなかった。前議長の計画を潰し、リミニの通貨覇権を守るためでもあった。一つの命で、複数のことを達成した男。
しかしそれをナディールに話すつもりはなかった。
父の死を消化しようとしているナディールを、これ以上複雑な話で混乱させたくなかった。ロレンツォの殺人に道理があるからといって、許されるわけではない。毒蜘蛛には毒蜘蛛の道理がある。しかし、それは今日話すことではない。
アルヴィンは黙ってグラスを傾けた。




