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第70話 量的緩和

 

 その後も、アルヴィンは十人委員会の家を一軒、また一軒と訪ね歩いた。


 それぞれの相手に合わせた手土産を持って。それぞれの委員が喜ぶ話の入口を選んで。そして全員に——あなただけの投資話を勧めた。


 誰もが食いついた。


 莫大な供託金を積んで十人委員会に入った彼らは、その後の運用成績によって地位が決まる。各々の委員は仲間であり、競争相手でもある。隣の委員に負けているかもしれないという焦りが、常に胸の底にある。だから「あなただけに」という言葉は、誰の心にも刺さった。


 馬車の中で、アルヴィンは窓の外を見ていた。


 運河が光っている。橋の上に人が歩いている。


「あの男は投資話の裏を見透かすだろう」


 呟いた。


「だが——会わないのも不自然だからな」


 馬車がロレンツォの屋敷の前で止まった。


 ◇


 ロレンツォの部屋は最上階にあった。


 格子窓の向こうに、リミニの街が広がっていた。運河と橋と白い建物。港に向かう船の帆。二百年かけて積み上げた富の全景が、一望できる部屋だった。


 アルヴィンは思わず窓に目を向けた。


「単身で乗り込んでくるとは——お前もつくづく大胆不敵な男だな」


 ロレンツォが言った。穏やかな声だった。片眼鏡の奥の目が、アルヴィンを静かに観察している。


「私は自由都市の皆さんとビジネスをしているだけです。お互いにウィンウィンだ」


「ここにはファブリツィオもいるんだぞ」


「レアンドロ・チェネーレにも会いましたよ」


 ロレンツォが少し意表をつかれたように、目を動かした。


「そうか」


 少し間を置いて、向き直った。


「要件は?」


「経済の話でもしようかと」


 ロレンツォが腕を組んだ。


 収奪は一度だけだと言った男。分類できない男。この男と経済の話をすると——何が起きるか。


 少し考えてから、口を開いた。


「経済なら、面白い老人がいる。会ってみないか?」


「老人?」


「十人委員会の——前議長だ」


 ◇


 街の少し外れに、洒落た屋敷があった。


 派手さはないが、品がある。庭の手入れが行き届いている。現役を退いた人間が、静かに丁寧に暮らしている家だった。


 ロレンツォとアルヴィンが馬車から降り、門をくぐった。


 応接間に通されてしばらくすると、老人が現れた。小柄だった。しかし歩き方に威厳があった。額が大きく、頭頂部の髪が薄い。小さな眼鏡の奥から、知的な目がのぞいている。


「ロレンツォ。久しいな」


 老人が言った。「忙しい現役が何の用だ」それからアルヴィンを見た。「こちらは?」


「アルヴィン・フェルトナーと申します。エアルで酒や紙の事業をしております」


 アルヴィンがゴールデンフィールドの瓶を差し出した。老人が受け取り、ラベルを見た。


「彼は経済の話がしたいというので、お連れしました」


「経済?」


「錬金術の話を聞きたいそうです」


 老人の顔が曇った。椅子に腰を下ろしながら、嫌そうな顔を向ける。


「古傷に触るようなことを」


 しかし、すぐに表情が変わった。何かを思い出したような目になった。


「まぁいい。世界を牛耳れたかもしれない、という話だ——聞きたいか?」


「錬金術?ぜひ」


 老人が話し始めた。


「昔、錬金術の魔法使いがおってな。ところが、これが全く役に立たない。こう——銅と金を並べると、銅は金になる。しかし金は銅になってしまう」


「はぁ…」アルヴィンが頷いた。「詐欺くらいにしか使えませんね」


 究極の等価交換だ。


「ところが——ある触媒を使うと、銅を金にするだけで、金は銅にならない。そこで、その触媒の研究をしている者を援助した。成功したら触媒を一割もらう約束で」


 アルカーナムだ。


 アルヴィンの背に、静かな緊張が走った。


 前議長は——先王フリードリヒのアルカーナム研究に、関わっていた。ではロレンツォは、ただの貸付の担当としてそこに入り込んだのか。


「それで大量の銅を買い入れたが——その研究者が亡くなって、わしは大損。十人委員会を追い出されたというわけさ」


 老人が言った。


 ロレンツォは何も言わずに聞いている。


「でも——それほど大量の金を作ったら、金の価値は下がりますよ」


 アルヴィンが静かに言った。


 老人がおやっ、という顔をした。


「そんなことは分かっている。しかし——その前に土地や宝石やあらゆる債権を買う。金が大量に出回れば、今度はその債権が上がるだろう」


「量的緩和……か」


 アルヴィンが思わず呟いた。


 前世では各国が紙幣を刷りまくって、相対的に金や実物資産の価値が上がり続けた。いつかは崩壊する経済の暴走。しかし誰もそれを止められない——この老人は、錬金術によって、全く同じことをやろうとしていたのだ。


「それはその通りです。だが——金本位制の崩壊で、経済はガタガタになる」


「よく分かるな。そう、そう」


 老人が嬉しそうに前のめりになった。初めて自分の計画の本質を理解した人間に出会った顔だった。


「だが——私は世界一の金持ちになれたのだ」


 ロレンツォが、二人を静かに見ていた。


 片眼鏡が、窓の光を受けて小さく光った。


 ◇


 マルタの実家は、帝都の外れにある小さな家だった。


 石造りの門に、蔦が絡まっている。庭に花が植えられていた。マルタが幼い頃から変わらない花だ。


 扉を開けた瞬間、母が声を上げた。


 父は玄関に飛んできた。


 二人がマルタを抱きしめた。母が泣いた。父は泣かなかったが、肩が震えていた。


 リーナはその様子を少し離れたところから見ていた。


 夕飯を一緒に食べ、お茶を飲み、ゲブラーテナー・アプフェルが出てきた。リーナが一口食べると、甘さの中に少し酸味があった。焼き立てで、シナモンの香りがした。


「美味しい」


 率直に言うと、マルタの母が嬉しそうに笑った。


 父にエアルに行くと告げたのは、夜だった。


 父の顔が変わった。軍人の家系の、軍人の父だった。


 しかし——マルタが話した。アイゼンガルトで何があったか。エアルで何があったか。なぜ仲間を連れて行きたいのか。


 父はしばらく黙っていた。


 それから、立ち上がった。マルタの肩に手を置いた。


「行って来い」


 それだけだった。


 翌朝、二人を見送りに来た父は、最後まで笑顔だった。


 ◇


 謁見の間は、重い空気に包まれていた。


 高い天井。大理石の床に、高窓から細い光が差し込んでいた。カール皇帝が玉座に座っている。白い眉の下の目に、いつもの消えない炎が宿っている。


 マルタと二十人の魔法部隊が、広間の中央でひざまずいていた。


 後方でリーナとパラケルスス教授も頭を下げている。


 ハインリヒ皇太子が一歩前に出た。


「速やかにエアルへ進出し——自由都市の逆侵攻に備えよ」


 リーナとパラケルスス教授が、目くばせをした。


 謁見が終わった。


 カール皇帝が自室へ向かう廊下で、歩きながら言った。不機嫌をあらわにしたまま、声を荒げた。


「コンラートの救出を恩に着せて、魔法部隊を貸せとは——エアルめ、何様のつもりだ」


「エアルと共闘できれば、次の戦いには負けません。良いことです」


 ハインリヒが静かに言った。


「これは——もうろくしたエドゥアルトの差し金ではないな。ルートヴィヒか」


「その通りです」


「あの生意気な若造が」


 吐き捨てるように言って、皇帝が自室の扉の向こうに消えた。


「おやすみなさいませ」


 ハインリヒがその背中を静かに見送った。口元に、わずかに何かが浮かんだ。笑いともため息とも言えない、小さな表情だった。


 ◇


 大きな馬車が二台、街道を進んでいた。


 二十人の魔法部隊がエアルへ向かっていた。


 先頭の馬車の中で、リーナとマルタが並んで座っていた。マルタの膝の上に、小さな布袋があった。


「これ——どうぞ」


 マルタが袋を開いた。焼きリンゴの匂いがした。


「お母さんが持たせてくれました」


 二人で食べた。


 窓の外に、針葉樹が続く。やがて山が遠くなり、空が広くなり、麦畑が戻ってきた。エアルが近づいている。


 岐路に差しかかったとき、後ろを走っていた白い馬車が速度を落とした。扉が開き、パラケルスス教授が顔を出した。


「ここで——アルカディアへ向かいます」


 リーナが馬車から身を乗り出した。マルタも顔を出した。


「先生、ありがとうございました」


「マルタ、お元気で。またいつでもおいで」


 教授が手を振った。


 白い馬車がゆっくりと分かれ道へ折れていく。遠ざかっていく。小さくなっていく。


 二人が手を振り続けた。教授の白いコートが見えなくなるまで。


 ◇


 前議長の家を出て、石畳の小道を歩いた。


 ロレンツォが先に自分の馬車に乗り込んだ。御者に指示する声がした。扉が閉まる。


 アルヴィンが自分の馬車に向かいかけたとき——路地の影に人が立っていた。


 目が合った。


 ファブリツィオだった。


 平民の服を着ている。しかし立ち方が違う。そこに立っているだけで、空気が変わる。あの夜、エアルの路地で向き合った時と同じ男だ。


 あの時は、ファブリツィオが追う側だった。今は——アルヴィンがリミニにいる。


 どちらも動かなかった。


 先にアルヴィンが目を逸らした。指を二本、ひらりと振って、馬車に乗り込んだ。


 車輪が動き出した。


 ◇


 帰りの悪路は、来た時よりさらに揺れた。


 夕暮れが近づいていた。空の端がオレンジに染まり始め、影が長くなっていた。


 アルヴィンは馬車に揺られながら、物思いにふけっていた。


 前議長の話が頭から離れない。


 研究者が亡くなって——大損した。


 前議長にとって、フリードリヒの死は「不運の連鎖の一つ」でしかなかった。毒殺という発想は、そこに微塵もなかった。


 しかし——あの部屋にいたロレンツォは。


 前議長の計画が頓挫したのは、ロレンツォがフリードリヒを消したからだ。しかし前議長は知らない。ロレンツォは今日も、その隣で静かに座っていた。


 アルヴィンは窓の外を見た。暮れかけた街道が流れていく。


「フリードリヒ王を殺した理由は——アルカーナム奪取だけでなく、経済の崩壊を防ぐため、でもあったのか」


 呟いた。


 一つの行動で、複数のことを達成する。それがロレンツォという男のやり方だ。


 毒蜘蛛にも——毒蜘蛛の道理がある。


 しかし。


 アルヴィンは目を閉じた。


 しかし——ナディールの父は、死んだ。

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