第69話 エアル宰相の約束
自由都市リミニ。バルトロメオの執務室は、帳簿と羊皮紙の束で埋まっていた。
棚の隅から隅まで数字が並ぶ部屋だ。インクの匂いがする。窓の外に運河が見えるが、バルトロメオはほとんど外を見ない男だった。
アルヴィンが鞄から分厚い本を取り出し、机の上に置いた。
「これは——新しい製紙工場の紙を使った本です」
バルトロメオが手に取った。ページをめくる。目が動く。
「羊皮紙に比べるとずいぶん薄い。一冊の情報量が凄いな」
「バルトロメオ殿には過分な顧問料をいただいているので——きっと気に入ると思いました」
「内容は?」
「以前にも話した現金収支の話を更に進めて——投資判断の方法をまとめています」
「投資した後の現金収支か」
「ええ。そこから正味現在価値を計算します。まずはご一読ください。まだ数日滞在しておりますので、その後でご説明させていただきます」
バルトロメオの指が無意識に動き始めた。数字の話になると止まらない男の癖だ。
「また眠れなくなりそうだ」
「それはそうと」アルヴィンが声のトーンを落とした。「今日お伺いしたのは——内密なご相談をしたいからなのです」
「というと」
「新しい投資案件があります」
バルトロメオが顔を上げた。阿久津の目が、静かに相手を見ていた。
◇
魔法部隊の宿舎は、城の北側の翼棟にあった。
屋内に入ると人の気配が半分になっていることが分かった。壁のかがり火が半分しか灯されていない。いくつもの部屋の扉が開いたままになっている。
食堂の扉を開けると、二十人が集まっていた。
三人が入った瞬間、歓声が上がった。
「マルタ、よく帰った」
「心配したぞ」
「コンラート様を助けたんだって——魔法部隊の誇りだ」
マルタは立ち止まった。
「誇り……」
小さく呟いた。それから、顔を上げた。
「聞いてください。私の話を聞いてください」
叫ぶような声だった。部屋が静まり返った。
「アイゼンガルトでの戦争には——誇りなんかありませんでした。食料に毒を入れられて、みんな吐きながら敵に殺された。コンラート様もゲオルク様を置き去りにして逃げた。私も魔法を使い続けて、廃人寸前になった」
誰も口を開かない。
「それを——エアルの皆さんが助けてくれました。そして今、皆さんを保護するために、エアルへ引き取ると提案してくれています」
マルタが全員を見渡した。
「みんな、私とエアルへ行きましょう」
しばらく沈黙が続いた。
「それは——祖国を裏切るということでは」
誰かが言った。
「これでも軍人だ。そんなことが出来るか」
「リミニでテロをやらされた十人は——全員処刑されてしまいました」
マルタの声が、静かになった。
「一般の人々を焼き殺すのが軍人の仕事ですか?それなら私は——軍人なんか嫌です」
また沈黙が落ちた。
「皆さん、私も魔法使いです」
今度はリーナが話し始めた。
部屋の全員がリーナを見た。
「エアルからアルカディアへ留学しましたが——小さな染み抜きの魔法しかできません」
笑い声が起きた。数人が苦笑した。
「染み抜き?」
「皆さんの魔法に比べれば——小さな、小さな魔法です」リーナが続けた。「それでもエアルでは、仕事の場を与えてもらっています。私の周りには不器用な守護魔法使い、お腹を痛くする魔法使い、老化させる魔法使い——変な魔法使いばかりです。でも、みんな生き生きと働いています」
誰かが頷いた。
「魔法使いは道具ではありません。遠い戦場へ送られ、異国でのテロに使い捨てにされて良いものではないんです。今のカール皇帝は怒りに我を忘れている。ハインリヒ皇太子は止めることができない。だから——今は、避難して欲しいのです」
リーナが真っすぐに言った。
「エアルは、決して皆さんを遠征やテロには使いません」
「綺麗ごとを」
「そんなことが信用できるか」
「これを見てください」
リーナが目くばせをすると、マルタが鞄から紙の束を取り出した。一枚一枚に名前が書いてある。
「エアルの宰相閣下が用意してくれた契約書です。決してテロはさせないと——そして一枚一枚に、皆さんの名前が書いてあります」
一人が契約書を受け取った。
「これは……」
指先が震えた。
「魔法がかかっている」
「強力な守護魔法がかかっています」
パラケルスス教授が落ち着いた声で言った。
「この契約書を作ったエアルの宰相が心を変えない限り——この契約書は破れません。これは宰相の約束の形なのです」
部屋が静かになった。
一人が契約書に向けて手を翳した。小さな炎が指先に灯り、契約書に触れた。炎が揺れた。
しかし紙は燃えなかった。
炎は紙の表面で踊り、消えた。
食堂に、長い沈黙が落ちた。
やがて——誰かが立ち上がった。契約書を手に取った。テーブルにペンを探した。
一人が署名した。
それを見て、もう一人が立ち上がった。
また一人。また一人。
次々と署名していく仲間の背中を、マルタは見ていた。目が潤んでいた。
◇
アゴスティーノの屋敷を訪れた時、アルヴィンはしばらく外から眺めていた。
大きな屋敷だった。扉が開いたままで、人が絶えず出入りしている。荷物を運ぶ者。書類を抱えた者。大声で話しながら廊下を歩く者。
あの男が変わったのは間違いない。しかしどう変わったのか——外から見ても分からなかった。それは怒りなのか。虚脱なのか。あるいは、何か別のものなのか。
面会を申し出ると、一つの部屋に通された。
廊下から声が聞こえてくる。足音がする。複数の人間が、何か大きな計画を進めている気配があった。
暫くして、扉が開いた。
アゴスティーノが入ってきた。白い顎髭。以前と変わらない大柄な体。しかし——目の色が変わっている。グラリキスの花見で見た老人の目ではなかった。何かが燃えているような、それでいて何かが燃え尽きたような目だった。額に薄く汗をかいている。
「フェルトナーさん、待たせたな。バタバタしていて」
「お元気そうで何よりです。この度は——お悔やみ申し上げます」
アゴスティーノが頷いた。
「忙しくしていないと、やり切れんのだ」
短い言葉だった。しかしその中に、全てが詰まっていた。
「孫たちの供養に——帝国のありとあらゆる敵対勢力を援助している。少数民族、宗教団体——帝国の嫌がることなら全部だ。エアルの南部街道にも金を出そうと言っているんだが、議長が難癖をつけていてな」
「ゴールデンフィールドの——特別な一本をお持ちしました」
アルヴィンが瓶を差し出した。
「一人になった時に、ご賞味ください」
アゴスティーノが受け取った。ラベルを見た。手が少し止まった。
「……ああ。いただこう」
「わざわざリミニまで来たのは——商談だな?」
「ええ。アゴスティーノ殿だけにご相談があります。この投資計画が成功すれば——莫大なリターンが見込めます」
「聞こう。敵対勢力への資金援助は成果が見えにくい。運用成績を上げなければ十人委員会に残れないからな」
老人が前のめりになった。
阿久津の目が、静かに動いた。




