第68話 最後の生還者
聖シュタインの街道に入ると、空気が変わった。
夏だというのに、風がひんやりとしている。道の両側に針葉樹が増え、空が狭くなった。山が近い。村の家の造りも、エアルとは違う。石が厚く、窓が小さい。北の国の、北の作りだ。
パラケルスス教授も同じ馬車に乗っていた。白いコートが車内で光る。
「エアルの宰相様は——エアルに来れば、魔法部隊を遠征やテロには使わないと約束してくれたんです」
リーナが言った。
「そもそも中立国ですからね、私は信用しますよ」
教授が穏やかに答えた。しかし、続けて言った。
「問題は——魔法部隊に、信じてもらえるかどうかですね」
リーナが目くばせをした。
マルタが鞄の中から、大事そうに紙の束を取り出した。一枚一枚が丁寧に重ねられ、細い紐で束ねてある。
それを見た瞬間、教授の目が変わった。
「これは——エルネスト・ソラリスの仕事ですね」
「分かるんですか?」
マルタが驚いて聞いた。
「それはもちろん」
教授が束を受け取り、紙の表面を指先でそっと撫でた。
「彼は私と同じ守護魔法使いです。彼のウィス・クストーディアには——独特の強さがある。他の誰の仕事とも間違えない」
文面を確認する。目が静かに動く。
「なるほど。この契約書にかかった守護魔法自体が——嘘のない証ということですか」
リーナとマルタが頷いた。
窓の外で、針葉樹の梢が風に揺れた。
「聖シュタインに入ったら——ずいぶん涼しくなりましたね」
リーナが言った。
「大分、北に来ました」
「間もなく帝都です」
マルタが静かに言った。窓の外を見ながら。その目に何が映っているのか、リーナには分からなかった。
◇
自由都市リミニ。
運河が街を縫うように流れていた。石造りのアーチ橋。白い建物。赤い屋根。どこを見ても富の気配が満ちている。港から積み荷を運ぶ人々の声、商人たちの掛け合い、子供が石畳を走る足音——全てが重なり、街は絶えず騒がしく動いていた。
しかしテロの後、その喧騒の底に何かが滲んでいた。広場の壁に、黒い焦げた跡があちこちに見える。薄れかけているが、消えてはいない。
フィリッポの商館は運河沿いにあった。白い外壁に、青い扉。
「遠路はるばるお疲れ様でした」
フィリッポが笑顔で出迎えた。四十代の男だ。服の仕立てが良い。目が常に動いている——チャンスを見逃さない商人の目だ。
「直々の召喚状をありがとうございました。おかげでスムーズに入国できました」
「それくらい当たり前ですよ」
フィリッポが手を振った。
「おかげ様で、ゴールデンフィールドの売上は順調に伸びています」
「たくさんお買い上げありがとうございます」
アルヴィンが鞄から陶器の瓶を取り出した。
「これは——ちょっとした手土産です」
フィリッポが瓶を手に取り、首をかしげた。
「ゴールデンフィールドなら売るほどあるが?」
「これは更に熟成を重ねた原酒をブレンドしたスペシャルです。たくさんは作れませんが——同じものはどこにもない」
「それはありがたい」
フィリッポの目が光った。
「国境で——灰色のコートの魔法使いが検問をしていました。先日の痛ましいテロの対策ですね」
アルヴィンが軽い調子で言った。
「ああ。レアンドロ・チェネーレです」
フィリッポの顔が少し曇った。
「ロレンツォ殿の飼っている魔法使いだ。あまり好きにはなれない男だが——魔法使いを見つける役には立っている」
「そうですか」
「あのテロは最悪だ。皇帝は狂っているとしか思えん」
フィリッポが声を落とした。
「アゴスティーノ殿の息子夫婦も亡くなられて——ふさぎ込んでおられる」
「それで……今回の訪問でアゴスティーノ殿にも手紙を出したのですが、返事がいただけなかったのです」
「色々励ましてはいるんだが……」フィリッポが眉をひそめた。「それはそうと、手紙では書けない相談事というのは?」
アルヴィンが顔を上げた。フィリッポの目をまっすぐに見た。
「新規事業の話です」
「また新しいことを始めるのか」フィリッポの目が輝いた。「それは乗らせていただきたいな」
「まだ秘密にしている事業です。フィリッポ様だけにご相談するので——ご内密に願います」
「もちろんだ」
フィリッポが頷く。目がもう輝いている。これまでウィスキーの利権で積み上げてきた信頼の重みが、今この瞬間に生きていた。
◇
城門をくぐった瞬間、石畳の音が変わった。
重く、響く音だ。分厚い石が何層も重なった城の内側の道だった。馬車が止まる。扉を開けると、冷たい空気が顔を打った。エアルには無い冷たさだ。夏でも、この北の国の空気は芯が冷えている。
「マルタ——」
ヴォルフが走り寄ってきた。
マルタが手を振った。
「よかった」ヴォルフが言った。別れた時のマルタは声も出ない状態だった。それが元気な姿で再開することが出来た。
ヴォルフがリーナに気づいた。
「マルタをありがとうございました」
何度も、何度も頭を下げた。癖のある若い騎士が、こんなに丁寧に頭を下げる姿を見るのは初めてだった。
「私は何もしていません」リーナが慌てた。「マルタが自分で回復したんです——」
マルタはその様子を少し離れたところから見ていた。
視線が、自然と奥の広場に向いた。
あの遠征の朝、魔法使いの十人が並んでいた場所だ。多くの騎士と従者を前に、コンラートが演説した。誰かが笑っていた。誰かがヤジを飛ばしていた。馬の嘶きが聞こえた。あの中にはロッテの鳴き声もあったかもしれない。
今は、誰もいない。
石畳に陽光が注いでいる。
マルタはしばらく、その空っぽの広場を眺めていた。
あの熱狂は何だったのか。魔法使い十人の中で、ここに戻れたのは自分だけだった。
リーナが気づいて、隣に寄り添った。
◇
地図の間は、王宮の奥まったところにあった。机に大陸の地図が広げられ、羊皮紙の束が棚を埋めていた。窓の外に中庭が見える。
リーナとマルタとパラケルスス教授の三人が待っていると、ヴォルフが扉を開けた。コンラートが入ってきた。
「よくぞ無事に戻った」
コンラートがまず言った。それからリーナに向き直った。
「脱出では大変なお世話になりました。マルタまで送り届けていただけるとは」
「マルタさんを送り届けに来たわけではないのです」
リーナが真っすぐに言った。
「私は、聖シュタインの魔法部隊をエアルに連れていくために来ました」
ヴォルフが驚いた顔をした。
「どういうことだ?」
「聖シュタインのテロに魔法部隊を使ったことに——我がアルカディアは、大変心を痛めているのです」
パラケルスス教授が静かに言った。
コンラートが肩を落とした。
「リミニに対するテロは我々の力不足です。カール皇帝をお諫めできなかった」
「そうでしょう。カール皇帝を止めることは出来ません。そこで——アリアドネ議長が提案されました。魔法部隊をエアルに引き取っていただいた方が良いだろうと」
「このままでは、また魔法使いたちがテロや暗殺に使われかねません」
リーナが続けた。
「カール皇帝から、彼らを引き離したいのです」
「分かるが、話は、そう簡単では——」
ヴォルフが言いかけた時、扉が開いた。
拳を胸に合わせ、二人の騎士が頭を下げた。
「遠路、ご苦労」
ハインリヒ皇太子だった。
コンラートが紹介した。遠征から戻ったマルタ。脱出を助けたリーナ。アルカディアの使いのパラケルスス教授。
「マルタ——苦労をかけた」
ハインリヒが静かに言った。
「私が皇帝を止められなかったせいだ」
マルタに向かって、頭を下げた。
マルタも言葉なく、頭を下げた。
「エーレンベルク殿からの連絡は受けている」
ハインリヒが続けた。
「ただ——これは政治的な話だ。当然、父は反対する」
「どのように説得されますか?」
コンラートが聞いた。
「表向きは——自由都市の逆侵攻に備えて、エアルの守備隊に魔法顧問を派遣する、という形にする」
「では、エアルと同盟を組むということですか」
「同盟ではない」
ハインリヒが静かに言い切った。
「我が国の一方的な押し付けという扱いにする」
間があった。
「あとは——魔法使い自身への説得だ。彼らの心で恐怖と誇りが戦っている。よろしく頼む」
マルタとリーナが頷いた。
パラケルスス教授がその二人を、温かい目で見ていた。




