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第67話 国境

 

 馬車が揺れるたびに、初夏の風が窓から流れ込んできた。


 エアルとの国境を越え、北へ向かう街道は、午前の光を受けて石畳がきらきらと光っている。両側に麦畑が広がり、風が吹くたびに穂先が波のように揺れた。遠くの丘に牛が見える。のどかで、静かで——戦争とは遠い景色だった。


 リーナはマルタの横顔を、ちらりと見た。


 窓の外を向いているマルタの表情が、少し硬い。口元が真一文字になっている。眉間にわずかに皺が寄っている。楽しいとも、怖いとも、どちらとも言えない顔だった。


「私、聖シュタインへ行くのは初めて」


 リーナは努めて明るい声で言った。


「マルタは故郷に戻って食べたいものはある?」


 マルタが少し驚いたように振り返った。意表を突かれた顔だ。




「そ、そうですね……焼きリンゴでしょうか。子供の頃に好きだったお菓子で、なんというか、懐かしいというか」


「あぁ、ゲブラー何とかっていう」


「ゲブラーテナー・アプフェルです」


「それそれ」リーナが頷いた。「私が食べてみたいのは雪解けクッキー」


「それはシュネーシュメルツェですね」


「ふと思ったんだけど」リーナがぽつりと言った。「外国人のふりって難しいわね。こういう細かいことを知らないと、すぐばれてしまう」


 マルタが少しだけ笑った。


「まぁ——女性なら知らないとおかしいですから」


 そのまま二人は黙って、初夏の麦畑を眺めていた。


 ◇


 国境に近づいたころ、街道の端に白い馬車が止まっていた。


 その傍らで、白いコートの男が手を振っている。長身で、背筋が伸びている。胸の刺繍が、午前の光を受けて白く輝いていた。


「先生!」


 リーナが声を上げた。馬車が止まる前に扉を開けていた。飛び降りて、駆け出す。


 マルタも慌てて後を追った。


 パラケルスス教授は、二人が近づいてくるのを目を細めながら見ていた。それからゆっくりと、二人をフルネームで呼んだ。


「リーナ・ヴァイス・フローラ。マルタ・フォン・ヴィンター」


 名前を呼ばれ、マルタが足を止める。


「リーナ。あなたにはいつも助けられますね」


 教授が穏やかに言った。それからマルタに向けて、目を和らげた。


「マルタ、よくぞ無事で。手紙を受け取った時に——どれほど嬉しかったことか」


 マルタの目が揺れた。


「私も——先生の手紙で、救われました」


 声が小さかった。


「私たちのことを覚えていてくれる人が、心配してくれる人がいると……」


 言葉が途切れた。続きは不要だった。


「先生が一緒に来ていただけるなんて、心強いです」リーナが言った。


「皆、私たちが送り出した卒業生たちです」


 教授が穏やかに答えた。


「役に立てるなら——どこへでも行きますよ」


 街道の向こうで、麦が風に揺れていた。


 ◇


 同じ頃。


 別の街道を、もう一台の馬車が逆方向に向かって走っていた。


 エアルからリミニへ。南西へ向かう道だ。


 アルヴィンは座席に深く腰かけ、窓の外を見ていた。よそ行きの立派な服を着ている。襟元が普段より高く、袖のカフスに銀の留め具がついている。蒸留所で土まみれになっている時とは別人のような格好だが、目だけは変わらない。全てを値踏みする、阿久津の目だ。


 道が悪かった。


 車輪が轍に落ちるたびに、体が大きく揺れた。先ほどは車輪が深い轍から抜けられなくなり、御者が藁を敷いて脱出するのに半刻かかった。一度は馬が前足を滑らせかけた。


 コンラートたちは大軍を率いて、ここを踏破したのか。


 アルヴィンは窓の外の悪路を眺めながら、静かに考えた。あの時の遠征隊が何故壊滅したか——この道を見ただけで分かる。補給線が機能するような道ではない。そしてグラリキス街道の倍の難工事になることも、馬車に乗っているだけで体に伝わってきた。


 ようやく、国境の関所が見えてきた。


 頑丈な石造りの建物だった。以前から厳しい検問があったはずだが、今日は格別だった。車止めの丸太が何本も組み上げられ、槍を持った兵士が四人、馬車の前に立ちはだかっている。


「馬車から降りろ」


 声が硬かった。バザールのテロ以来、この国境はこの厳しい空気に満ちている。


 アルヴィンはおやおやという顔をして、ひらりと馬車から飛び降りた。


「通行証を出せ」


 アルヴィンは無言で、懐から折りたたんだ紙を渡した。


 兵士二人がその紙を受け取り、広げた。読み始めた。


 一人が小さく声を上げた。


「うわ」


 もう一人も覗き込んだ。二人でこそこそと話す。


「フィリッポ殿の署名だ。十人委員会直々の召喚状だぞ」


「初めて見た……」


 一人が気を取り直して、アルヴィンを見た。


「ご入国の目的は?」


「当然、商談だ」


「荷台にお積みになっているのは?」


「手土産の酒だよ」


 アルヴィンが少しうるさそうな顔をした。それから懐に手を入れ、もう一枚の紙を押しつけた。


「必要なら別の召喚状もある」


 兵士二人が開いた。


 また顔を見合わせた。今度の署名はバルトロメオ。またしても十人委員会の一人だ。


「け、結構です。どうぞ馬車に——」


「少しお待ちください」


 厳しい声が割り込んだ。


 足音が近づいてきた。兵士ではない、別の歩き方だった。重さがなく、しかし迷いもない。目を閉じたまま歩く人間の、慎重だが確かな足取り。


 灰色のコートの男だった。目を閉じている。胸の刺繍は魔法使いのものだ。テロを実行した聖シュタインの魔法部隊を嗅ぎ分け、次々と捕まえたあの男。


 男はアルヴィンの前まで来て、止まった。


 閉じた目のまま、顔をわずかに動かした。何かを探っている。鼻先が微妙に動く。


「……魔法使いではない」


 ぽつりと言った。


「しかし——魔法の残り香がある」


 少し間があった。


「なぜでしょうな」


「残り香?」


 アルヴィンが涼しい顔で言った。


「さぁね。秘書が魔法使いだから——そのせいかな」


「レアンドロ様、どうしましょう」


 兵士の一人が困った声で聞いた。


 レアンドロと呼ばれた男は少しの間、黙っていた。それから、目を閉じたまま、静かに頭を下げた。


「失礼いたしました。どうぞ、お通りください」


 アルヴィンが馬車に乗り込んだ。


 車輪が動き出した。


 レアンドロはその馬車が遠ざかっていくのを、閉じた目のまま見送った。それから、ひとりごとのように呟いた。


「今は、ね」

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