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第66話 出発の夜


 会議が終わった後、全員が一階に下りた。


 「金色の麦」の夜は、いつでも温かかった。食べ物の匂い。カップの音。大きなテーブルに食事が並び、シャドーキャビネットの面々が思い思いの席に着いた。


 ナディール、アルヴィン、リーナの三人は少し後で「外の空気を吸いたい」と言って席を立った。扉の向こうに出ていく背中を、残った面々が見送った。


 テーブルに残ったのは——フェルディナント、ルカ、カッシオ、エルネスト。そしてマルタ。


 マルタにとっては、ほとんどが初対面だった。


 少しの沈黙があった。


 フェルディナントが不器用に口を開いた。


「あの——魔法部隊というのは、一人でどれほどの戦力になるのでしょうか」


 マルタが事務的な質問に少し面食らいながら答えた。


「人と場面によりますが……接近戦でなければ、かなりの威力があります。炎魔法なら、一人で広い範囲に——」


 フェルディナントがすかさず帳簿に何かを書き始めた。マルタが首をかしげた。


「何を書いているんですか」


「守備の計画です。エアルの守備隊に入ることを考えておく必要がありますので」


 マルタが少し黙り込んだ。


「……私はもう、この魔法を人に向けたくないんです」


 フェルディナントが顔を上げた。帳簿から目を離して、初めてマルタをまっすぐに見た。


「そうですか」


 一拍の間があった。


「では蝋燭程度と記録しておきます」


 マルタが少し笑った。


「炎魔法か——すごいですね」


 カッシオが言った。羨ましそうでもなく、ただ素直に言った。


「僕はお腹を痛くする魔法しか使えないので」


 マルタが目を丸くした。


「……お腹を、痛くする?」


「ええ」


 カッシオは全く悪びれなかった。


「それでも聖シュタイン帝国からも内定はいただいていたんです。でも——騎士団の後方支援で、敵の具合を悪くしている間に騎士がとどめを刺す、という話でして。それを想像しただけで、ぞっとしてしまって」


 マルタの肩が、わずかに止まった。


「でも銀行の守衛には向いているんです。変なお客さんが怒鳴り込んできた時とか——実際に効くので」


 マルタが少しの間考えてから、ぷっと吹き出した。


 ちょうど店員がやってきて、マルタのグラスにワインを注ごうとした。


「駄目駄目、未成年」


 ルカがさっと手を伸ばして阻止した。少年にしか見えない手だった。


 マルタがルカを見た。


「ルカさんも——未成年ですよね」


「こう見えても二十五歳ですよ」


 ルカがあっさりと言った。


「老化魔法を使った副作用で、若く見えるだけです。中身は二十五歳ですが、世間体がありますのでお酒は飲みません。本当の未成年のマルタさんも飲んではいけません」


「老化魔法……」


「時間を進める魔法です。樽のウィスキーを熟成させるのに使っています。お酒の専用蒸留器が欲しいとアルヴィン様がおっしゃっていたのは、僕の仕事部屋を分けたいからだと思います」


 マルタが黙ってルカの顔を見た。外見は十五歳の少年だ。しかしその目の奥には、二十五年分の時間が静かに沈んでいる。


「それは——副作用なんですか」


「そうです。まぁ、でも」


 ルカが自分の手をちらりと見た。小さな、子供の手だ。


「止まった時間は、また動き始めます。これは自分が証明しています」


 マルタは何も言わなかった。


 エルネストが大きな手でカップを差し出した。温かい飲み物が入っていた。


「これを飲むと良いですよ」


 マルタが受け取った。両手でカップを包むように持って、少し俯いた。


 エルネストがゆっくりと聞いた。


「聖シュタインへ帰るのが——怖いですか」


 マルタが少し考えた。


「少し、怖いです」


「そうか」


 エルネストが頷いた。


「守護魔法というのは——守りたい気持ちがある限り、破れないんです」


 静かな声だった。仕事の話ではなく、自分が信じていることを話す声だった。


「でも、誰を守りたいのかが曖昧だと、弱くなる」


 マルタがカップを持ったまま、エルネストを見た。


「あなたはどうして聖シュタインへ行くんですか」


 マルタは少しの間だけ黙った。


「……仲間を守るためだと、思います。きっと怯えている仲間たちを」


 エルネストが静かに笑った。


「それは強い」


 守護魔法使いの言葉だ。他の誰がそれを言うよりも、その言葉は裏付けがあった。


 マルタが温かいカップを少し強く握った。


 ◇


 外は、静かな夜だった。


 石畳が月明かりを受けて薄く光っている。遠くに王都の灯りがある。


 ナディール、アルヴィン、リーナの三人は並んで立って、空を見上げていた。


「アルヴィンさんとアルカディアへ行ったとき、パラケルスス教授に言われたんです」


 リーナが口を開いた。


「アルヴィンさんには——魔法の残り香があると」


 ナディールが振り返った。


「残り香?」


「大きな魔法が使われた跡のようなもの、でしょうか。それが召喚魔法によるものだと、今は思っています」


「そうだ」


 ナディールが空を向いたまま言った。


「父は死期を悟り、蓄えたアルカーナムを全て使って召喚魔法を発動した。木こりが証言した——蒸留所の屋根を突き抜けた光が、それだ。フリードリヒの魔法がヴェルダを別の空間に飛ばし、ヴェルダが——橋渡しをした」


「その光は、アルカディアでも確認されていました」


 リーナが続けた。


「そして——数ヶ月前に、エアルに落ちた静かな光も」


「それは初耳だな」


 アルヴィンが言った。


「教授から聞いた時は何のことだか分からなかったのですが…」


 リーナが少し下を向いた。


「あの光がアルヴィンさんの転生した瞬間だったのだと——今は確信しています。別の世界から、この世界に来た光」


「そこが分からない」


 アルヴィンが腕を組んだ。


「なぜ詐欺師が選ばれた。俺でなければならない理由が、どこにある」


 誰も答えなかった。


 夜風が石畳を渡っていった。


 リーナが少し経ってから口を開いた。


「蒸留所では——私も魔法の残り香を感じました」


 静かな声だった。


「魔法は、使った人の気持ちを帯びるんです。そこに何かが宿る。あの蒸留所の残り香は——すごく、強い気持ちでした」


 少し間を置いた。空を見上げながら。


「焦りと、願いと——あと、少しだけ」


 ポツリと、


「信頼、みたいなもの」


 ナディールが動かなかった。アルヴィンも黙っていた。


「私には何となく——フリードリヒ王が求めたものが分かる気がします。エアルを救うために、ナディール様を支える、強くて信頼できる友人。それはアルヴィンさんそのものじゃないですか」


 三人は何も言わなかった。


 否定もしなかった。肯定もしなかった。


 ただ——三人で、同じ星空を見上げていた。


 遠くに灯りがある。王都の、エアルの、この小さな国の灯りだ。


 その灯りを見ながら、三人はしばらくそこに立っていた。

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