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第65話 救出作戦


 アルカディア公国。魔法評議会の議長室。


 窓の外に、石畳の坂道が見えた。学院の尖塔が空に刺さっている。いつもの穏やかな街の光景だった。


 アリアドネは机の前に座っていた。


 赤い髪が動かない。赤いコートの肩が、わずかに落ちている。報告書を手に持ったまま、もう長い間、同じ姿勢でいた。


「……聖シュタインはどこまでも魔法使いを」


 声が漏れた。


 唇が震えていた。怒りか、悲しみか、あるいはその両方か——顔に感情が浮かびあがっていた。


 机に報告書を置いた。立ち上がり、窓の外を見た。坂道を歩く学生たちが見える。魔法の本を抱えて、談笑しながら歩いている。


 しばらく、その光景を見ていた。


 やがて振り返り、羽ペンを取った。


 白紙の上に、力強く書き始めた。


 ◇


 エアル。


 陽が傾き始めた頃、「金色の麦」の前に人影が集まり始めた。ナディールが先に着いており、続いてアルヴィン、リーナ、エルネスト、フェルディナント、カッシオ、ルカ。そして——リーナに連れられた、もう一人。


 リーナがアルヴィンに耳打ちした。「ナディール様がマルタも呼ぶように言われて」


 アルヴィンが元気そうなマルタを見て顔をほころばせた。


 二階の部屋はいつも通りだった。丸テーブル。ランプ。揺れる灯り。シャドーキャビネットが揃う、この場所。


 アルヴィンがナディールの横に立ち、マルタを手で示した。


「彼女が——聖シュタインのマルタだ」


 マルタがわずかに頭を下げた。蒸留所でずっと寝ていた娘が、今夜はきちんと立っている。頬に血色が戻り、目に力がある。


「それで、こちらがエアルの宰相。ここではみんなナディールって呼んでいる」


「あなたがマルタか」


 ナディールが穏やかに言った。


「ずいぶんと辛い目に遭ったね。元気そうで、よかった」


「……みなさんのおかげです」


 マルタの声は静かだった。


「私のお手伝いをしてもらっています」


 リーナが続けた。テーブルに羊皮紙を広げながら。


「アルカーナムの蒸留は順調です。一緒に大型の蒸留器で量産する準備を始めています。——それが」


 少し間があって。


「誰かがお酒造りで汚してしまったせいで、洗うのが大変で…」


「ウィスキーは産業として大貢献しているんだぞ」


 アルヴィンが即座に言い返した。


「そうそう」


 ルカが相槌を打った。


「だからさっさと専用の蒸留器を作るべきだ。公私混同を防ぐためにも」


 ナディールがその掛け合いを聞きながら笑った。この部屋に集まる面々の顔を、一人一人ゆっくりと確かめるように見て、そして言った。


「コンラート殿とヴォルフ殿が、無事に帝都に戻ったそうだ」


 場の空気が変わった。


 マルタが顔を上げた。目が輝いた。


「本当ですか」


「ああ。ハインリヒ殿下からの書簡で確認が取れた」


 アルヴィンとリーナが手を打った。カッシオも思わず声を上げた。


 マルタが唇を噛んで、頷いた。何度も。


 ◇


 しかし——すぐにナディールは全員に向き直った。


「だが、今日はマルタに、また辛い話をしなくてはならない。我々にとっても——辛い話だ」


 部屋が静まり返った。


「自由都市で戦勝バザールが開かれたのだが、その会場で無差別テロがあった。死者は千人を下らない」


 誰も動かなかった。


 アルヴィンが、静かに言った。


「聖シュタインの報復か」


「十名ほどの魔法使いが密かに自由都市に侵入したと見られている」


「そんな……」


 カッシオが呟いた。椅子の背に深く沈み込むように、体が小さくなった。


 エルネストが眉間に皺を寄せた。大きな手が、テーブルの上で静かに組まれた。


 バン、と音がした。


 マルタがテーブルに腕を叩きつけていた。


 そのまま、うつむいた。肩が震えた。リーナがそっとその肩に手を当てた。マルタは声を出さなかった。肩が揺れ続けた。


「カール皇帝は怒りで我を忘れたな」


 アルヴィンが腕を組んだ。静かだが、言葉は鋭かった。


「そんなことをすれば、国民の支持も離れる。実行した魔法使いたちは?」


「全員、処刑されたそうだ」


 沈黙が、部屋を満たした。


 ランプの炎だけが、静かに揺れていた。


 ナディールがその沈黙を押し退けるように続けた。


「魔法評議会のアリアドネ議長が動いた。聖シュタインからアルカディアへの留学を禁止するそうだ」


 リーナがマルタの背をさすりながら聞いた。


「それでは——残った聖シュタインの魔法部隊はどうなるのでしょう」


「軍事パレードで行進していたのが約四十名。遠征と今回のテロで、もう半数近くが失われた。残った者たちも——次はどう使われるか、生きた心地もしないだろう」


 アルヴィンが続けた。


「短期間で仲間を次々と失って、彼らだって怖いはずだ」


 ナディールが全員を見渡した。


「そこで——だ。アリアドネ議長から私に提案があった。聖シュタインの魔法部隊をエアルで引き受けてもらえないか、と」


 マルタが顔を起こした。涙の跡のある顔が、ナディールを見た。


「カール皇帝が許すだろうか?」


 アルヴィンが言った。


「軍に志願した魔法使いたちを説得するのも、一筋縄ではいきませんね」


 エルネストが慎重な声で続けた。


「給料も安いしね」


 カッシオが正直に言った。誰かが苦笑した。


「そうだ」とカッシオは続けた。「エアルでの任務は警護と守備隊だけにして、テロや遠征には出さないと明言したらどうかな。それが約束できるなら——来てくれる人もいると思う」


「それが良いな」


 ナディールが頷いた。


「カール皇帝への対策はハインリヒ皇太子に早馬で密使を送って詰めておこう。殿下はこちらとのパイプを重視されている」


 ナディールが羊皮紙に何かを書き始めながら続けた。


「アリアドネ議長からの手紙では、魔法部隊の説得にはアルカディアのパラケルスス教授が現地に赴くとある。こちらからは誰が行くべきか」


「パラケルスス教授が行くのなら——私が行きます」


 リーナが言った。はっきりとした声だった。


「アルカディアで教えを受けた師匠です。それに、帝国の魔法使いたちへの言葉を、私なりに考えてみたいと思っています」


「それが良いでしょう」


 エルネストが頷いた。守護魔法使いの目が、静かにリーナを見ていた。


「ああ。だが」


 アルヴィンが言った。


「俺はついていけない」


 テーブルの上で指を組む。阿久津の目になっていた。


「リミニに行く」


「このタイミングでか」


 ナディールが静かに問い返した。


「いつこの国が戦乱に巻き込まれるか分からない。動くなら早い方がいい。グラリキスの花見で十人委員会にはパイプを作ってある——ここでいよいよ仕掛ける」


 少し間を置いて、口の端が上がった。


「うまくいけば、金がうなるほど入ってくるぞ」


「一人で行くんですか」


 リーナが眉を寄せた。


「危険です。ファブリツィオは入国禁止になっていますが、こちらからリミニへ行けば話は別です」


「僕がついて行こうか」


 カッシオが手を上げた。


「リミニはテロの後だ。魔法使いの入国には敏感になっている」


 アルヴィンが首を横に振った。


「大丈夫。一人で行く」


 その目には迷いがなかった。先の先を読んでいる目だった。一人であろうが、丸腰であろうが、頭脳と話術だけで切り抜けてきた男の、静かな自信が滲んでいた。


「それよりリーナの護衛を頼む。帝国までの一人旅は心配だ」


 マルタが立ち上がった。


「私が一緒に行きます」


 真っすぐな声だった。


「仲間たちをここに連れてこないと。手遅れになる前に——」


 ナディールがマルタを見た。


「それはありがたい。マルタが行ってくれれば、説得力が違う」


「確かに」


 アルヴィンも頷いた。


「コンラートたちの帰還が報じられた後だ。リミニのスパイも西側の国境に集中しているだろう。帝国方面の街道は動きやすいはずだ」


「ようやく里帰りができますね」


 リーナが微笑んだ。


 マルタが一度だけ目を伏せた。そして顔を上げて、静かに言った。


「私は——聖シュタインの仲間を連れて、ここに戻ります。必ず」


 彼女の決意を誰も疑わなかった。


「そうなると、カッシオの護衛は要らなくなったな」


 ルカが言った。マルタの攻撃魔法を超える護衛は無い。


 カッシオが肩を落とした。露骨にがっかりした顔だった。


「……そんな」


 誰かが笑った。場が少し、和らいだ。


 それまで黙っていたフェルディナントが、ためらいがちに手を上げた。


「実は——問題があります」


 全員がフェルディナントを見た。


「銀行は、海外からの大口融資もあり、例の九十三日条項で金貨百万枚を返済した後も順調です。口座は増え続けていますが、製紙工場も動き出して、ヴィトゥスが手伝ってくれるので通帳不足も解消しました」


「それのどこが問題なんだい」


「……計算が、間に合いません」


 アルヴィンが顔を覆った。


「そう来たか」


「窓口を閉めてから計算を始めるのですが、夜遅くまでかかるようになっていて。計算が合わないとやり直しです。このままでは——」


 アルヴィンが少しの間、黙って考えていた。天井を見上げ、また下ろし、指でテーブルを一度だけ叩いた。


「仕方がないな。飛び道具を使うか」


「銀行に——大砲を、ですか」


 フェルディナントが目を丸くした。


 笑いが起きた。アルヴィンも笑った。


「まぁ、そんなもんだよ。お手数だが——腕の良い金属加工の職人を何人か探しておいてくれ」


「よく意味が分かりませんが——アルヴィン様のおっしゃることなら」


 フェルディナントが眼鏡を押さえた。この男が「よく分からないが」と言う時は、大抵後になって震えることになる——それを全員が知っている。

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