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第64話 追跡者


 朝の霧がまだ漂っている。


 自由都市リミニの国境。石造りの関所の前に、旅人が一列に並んでいた。農夫、行商人、荷車を引く老人。誰もが身を縮め、足踏みしながら自分の番を待っている。


 関所の扉の前に、兵士が二人並んでいた。その脇に——灰色のコートを着た男が一人、静かに立っていた。


 目を閉じていた。


 ただ立っているだけに見えた。しかし、その閉じた目の下の顔は、何かを探し続けている顔だった。胸の刺繍は魔法使いのもの。指が小さく、一定のリズムで動いている。


 列が少しずつ進む。


 目を閉じた男が、ゆっくりと歩き始めた。兵士が後ろに続く。列の脇を静かに進み、一人の前で——止まった。


 毛皮の帽子を深くかぶった商人だった。荷物は少なく、目が泳いでいる。


 男が指を一本、商人に向けた。


 それだけだった。


 「こ、これは一体——」


 商人が声を上げる前に、兵士たちが両脇を掴んでいた。引きずられていく男の足が、石畳を叩く。もがき、叫び、それでも抗えなかった。


 残った旅人たちが息を呑んで見ていた。誰も何も言わなかった。


 ◇


 街中でも、同じ光景が繰り広げられていた。


 灰色のコートの男が兵士を連れて大通りを進む。目を閉じたまま、迷いなく歩く。杖もなく、誰かに支えられるでもなく。人波を掻き分けながら、確かな足取りで前に進んでいく。


 魔法の匂いをかぎ分けているのだ。


 分かれ道まで来ると、男がわずかに顔をめぐらせた。鼻先が左上を向いた瞬間、兵士の一人が叫んだ。


「走ったぞ!」


 人込みの中を、女が逃げていた。荷物を抱えて、振り返りながら、石畳を蹴って走る。追いかける兵士の足音が響く。女は路地に飛び込み、角を曲がり、それでも距離は縮まっていく。


 石畳に足をとられた。


 つまずいた体が崩れ、腕を突いて倒れる。起き上がろうとした瞬間、兵士が肩に手をかけた。


 女は空を仰ぎ見て、目を閉じた。


 ◇


 石造りの地下牢。


 壁からしみ出す水が床に溜まっていた。窓は鉄格子だけで、採光のための小窓が一つあるだけだ。差し込む光は薄く、隅の方はほとんど見えない。


 男女十名が押し込められていた。


 服は汚れ、顔に傷がある。素足の者もいた。しかし——その体つき、その眼差しは、どこか普通の囚人とは違った。体格は貧相だが目の奥に、何かが宿っている。


 聖シュタイン帝国の魔法部隊だった。


 カール皇帝の命令でリミニに潜入し、バザールでテロを実行した十名。各々が別ルートで国境を越える手はずだった。しかし二百年かけて張り巡らされたリミニのスパイ網がそれを阻んだ。一人また一人と捕まり、今、ここに集められていた。


 扉の向こうで足音がした。


 重く、ゆったりとした足音だった。慌てていない。彼らを恐れていない。


 扉が開いた。


 廊下の光を背に、一人の男が入ってきた。先に兵士が二人。その後ろに、穏やかな表情の老人。


 片眼鏡。丁寧な仕立ての服。感情の見えない目。


 魔法部隊の一人が、息を呑んだ。


 あの顔を知っている。カール皇帝の生誕祭で見た、あの男だ。


「……十人委員会の議長か」


 誰かが呟いた。それが牢の中に静かに広がった。


 ロレンツォ・ディ・ヴァザーリは、格子の向こうの男女をゆっくりと見渡した。湿った冷たい空気の中で、素足の彼らが震えている。あの軍事パレードで鉄の鎧を溶かしてみせた者たちが、今、泥の床に座っていた。


「お前たちの魔法で、千人を超える市民が死んだ。負傷者はその倍だ」


 静かな声だった。怒鳴らなかった。それがかえって、牢の中に重く響いた。


「親を失った子供がいる。子を失った親がいる。妻や夫を失った者たちは——その何倍もいる」


 誰も答えなかった。


 ロレンツォが続けた。


「自由都市の全市民が、お前たちに怒りの目を向けている」


 間があった。


「あれほどの攻撃魔法——もったいない話だが。処刑せざるを得ない」


 その一言が、牢の中に落ちた。


 男女が体を硬直させた。分かっていた。覚悟していたことだ。しかし実際に言葉として聞くと、膝に力が入らなくなる。


「カール皇帝も馬鹿な使い方をしたものだ」


 ロレンツォが言った。感情はなかった。ただ、事実として述べているような声だった。


「悪い主に仕えたことを恨め」


 その時。


 一人が立ち上がった。


 国境で捕まった男だった。荒い呼吸。目に赤いものが宿っている。両手が上がった——魔法使いの構えだ。


「議長ロレンツォ」


 声が掠れていた。


「お前だけは道連れにしてやる」


 腕を振り上げた。炎が凝縮し、球を成した。火球が放たれた。真っすぐに、ロレンツォの胸元を目指して——。


 しかし。


 衝突する直前に、四散した。


 炎が霧のように散って消えた。ロレンツォは一歩も動いていなかった。片眼鏡の奥の目が、男を静かに見ていた。


 男が息を呑んだ。


「何故……」


「守護魔法とはそういうものだ」


 ロレンツォは部屋を振り返ることなく、扉に向かって歩き始めた。


 入れ違いに——槍を携えた兵士たちが牢に殺到した。

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