第63話 悲劇の連鎖
自由都市リミニ。大広場。
陽光が石畳に降り注いでいた。
広場の四方に、色とりどりのテントが立ち並んでいる。焼き菓子の甘い匂い。香辛料の濃い香り。反物、陶器、革製品——様々な商品が所狭しと並べられ、人々が行き交っている。
リミニの戦勝バザールだった。
聖シュタイン帝国が誕生祭で軍事パレードを催したなら、自由都市はバザールを開く。人が集まり、物が売れ、金が動く——それがリミニの祝い方だった。
広場の一角に、人形劇の舞台が設けられていた。糸で操られた布製の人形が、滑稽に動き回っている。山高帽に大きな口髭をつけた人形が、腕を振り上げて怒鳴った。
「自由都市に——我々の恐ろしさを見せてやれ!」
甲冑を着た騎士の人形がひざまずく。
「ははー。我らが必ずポルタヴェルデを取ります!」
ところが次の場面で、その騎士がひっくり返って、お腹を押さえてのたうち回っている。
子供たちが腹を抱えて笑い声を上げた。その背後で親たちも笑いながら見ている。
昼間から酒が振る舞われていた。テントの前で杯を傾ける男たち。品物を手に取って値踏みする親子連れ。どこかから届く楽器の音色。
しかし——。
広場の隅に、十人ほどの男女がいた。
笑顔がなかった。
商人風の服を着ている。目立たない、どこにでもいそうな服装だ。それでも——バザールを楽しんでいない。全員の目が一人の長身の男を見つめていた。
それは、カール皇帝の厳命により、聖シュタインから馬車を飛ばし、こっそりと国境を越えた魔法部隊たちだった。
長身の男が低い声で言った。
「いよいよだ」
全員が唾を飲み込んだ。
「これから広場の四方に散る。正午の鐘を合図に、広場の中心に向かって魔法をかける」
人形劇の笑い声が、遠くから聞こえてくる。
「その後は、逃げる市民に紛れて宿に戻れ。バラバラに国境を越える。体が冷えて動けなくなる前に立ち去るんだ」
全員が頷いた。
「良いか——これは、毒を盛られて殺された同胞の敵討ちだ。決してひるむなよ」
十人が、静かに散っていった。
ある者は布屋のテントの陰へ。ある者はカフェの席へ。ある者は広場に面した教会の柱の影へ。それぞれが何食わぬ顔で人波に溶け込み、見る間に姿が見えなくなった。
◇
街道の馬車が詰まっていた。
バザールに向かう人々と荷車が道をふさぎ、どこまでも車列が続いている。馬がいなないた。御者が舌打ちをした。それでも車列は、少しも動かなかった。
アゴスティーノが窓から身を乗り出した。
「何たることだ。これでは正午の登壇に間に合わない」
「まぁ、多少遅れても大丈夫でしょう」
従者が穏やかに言った。
「バザールは夜まで続きます。それにしても——大盛況ですな」
「そうだな」
アゴスティーノが窓を閉めた。機嫌を直したのか、少し表情が和らいでいる。
「マッテオたちも来るそうだ。孫娘のキアラを連れてくると言っていた」
「まぁ。それは楽しみですな」
従者の顔がほころんだ。
「壇上のお爺さまを、お孫さんに見せられますよ。今回の勝利の立役者はアゴスティーノ様ですから、あなたが挨拶をされるのは至極当然のことです」
アゴスティーノが白い顎髭を撫でた。満足そうな顔だった。
窓の外、青空にリミニの大時計の鐘楼が聳えている。もうすぐ正午の鐘が鳴る。
◇
ゴーン。
ゴーン。
ゴーン。
鐘の音が、大広場に染み渡った。
十人が顔を上げた。それぞれの場所で。テントの陰で。カフェの席で。教会の柱の影で。
誰にも気づかれず——静かに、手を広場に向けた。
最初は何も起きなかった。
人形劇の笑い声が続いている。酒杯がぶつかる音がする。子供が走り回っている。
やがて——誰かが言った。
「何だか暑いな」
隣の者が頷く。確かに暑い。この陽気だから暑いのか。しかしこれは——。
そして。
広場の外周で、一斉に炎が上がった。
テントが燃えた。悲鳴が響いた。炎から逃れようと、人々が広場の中心に向かって走り出した。服に火が燃え移っている。走りながら叫んでいる。
しかし——炎は広場の全周から上がっていた。
逃げ場がない。
中心に向かった人々がぶつかり合い、倒れ、踏まれた。人形劇の舞台が一瞬で燃え落ちた。酒樽が爆ぜた。炎が四方から迫ってくる。
あの軍事パレードで積み上げられた甲冑を溶かした魔法が——今、市民に向けられていた。
◇
アゴスティーノが馬車から身を乗り出した。
「何だ、火事か」
広場の方角から、煙が上がっていた。家々の陰からでも、炎がチロチロと見える。そして——鼻をつく、異様な匂いが漂ってきた。
アゴスティーノが馬車を降りた。
「お待ちください」
従者の声が後ろで聞こえたが、振り返らなかった。馬車の列の脇を走り出す。石畳を踏む足音が速くなる。路地を抜け、角を曲がり——広場に出た。
熱気が顔を叩いた。
思わず腕で顔を庇う。後を追ってきた従者も、顔を庇いながら立ち尽くした。
「これは……」
言葉が出なかった。心臓だけが物凄い音を立てる。
テントは燃え落ちていた。黒焦げになった死体が、広場のあちこちで重なり合っている。もう燃えるものはなく、小さな火があちこちに残っているだけだった。生き残った者たちが広場の端に逃れて震えている。泣き叫んでいる者。呆然と座り込んでいる者。
「マッテオはどこだ」
アゴスティーノが走り出した。
「グラツィアは——キアラは無事なのか」
煤と灰が空気に漂っている。足元が黒い灰で埋まっている。顔に、手に、灰が付着する。
広場を走り回った。倒れた者に声をかけた。死体の顔を確かめようとしたが——焼かれており、判別ができなかった。
何度も呼んだ。
「マッテオ。グラツィア。キアラ——」
誰も答えなかった。
やがて、アゴスティーノは両膝をついた。
灰の上に、膝をついた。
白い顎髭が、震えていた。
◇
ロレンツォの書斎。夜。
ランプが一つだけ灯っている。外は静かだった。しかし街のどこかから、まだすすり泣きの声が聞こえてくる気がした。
扉が静かに開き、マルティーノが入ってきた。
「夜分失礼いたします」
「どうした」
ロレンツォは書類から目を上げなかった。
「バザールで大規模なテロがありました。千人以上の死者と、それ以上の負傷者が出ています」
ロレンツォの手が止まった。
「爆発物か」
「いいえ。生存者の話では——突然、広場の周囲のあちこちから炎が上がったと」
しばらく沈黙があった。
ロレンツォが椅子の背にもたれ、指を組んだ。その目が、記憶の中の光景を辿っていた。
聖シュタインの軍事パレード。整然と積み上げられた甲冑が、みるみるうちに溶けていく。あの魔法部隊の、体の小さな魔法使いたちの顔。
「ただの放火ではないな」
静かに言った。
「これが聖シュタインの報復だとすれば——あの魔法部隊を使ったか」
「実行犯の捜索を進めております」
「捕まえろ。絶対に」
「はい。ただ——」
マルティーノがわずかに間を置いた。
「捕捉できたとしても、証拠を押さえにくいかもしれません。魔法を使ったのであれば、武器も何もない」
「レアンドロ・チェネーレを使え」
マルティーノが頭を下げる。
ロレンツォがそれを暗い顔で見ている。
「アゴスティーノは?死んだのか」
少し間があってから、聞いた。
「無事です。ただ——」
マルティーノが目を伏せた。
「息子夫婦と孫娘を、失ったとか」
ロレンツォが目を閉じた。
長い、静寂だった。
「そうか」
それだけだった。
マルティーノが一礼して、扉の方へ向かった。
「マルティーノ」
「はい」
ロレンツォはランプの炎を見ながら言った。
「バルトロメオが言っていた…。安上がりな戦争だと」
マルティーノは何も答えなかった。答えを求められていないことが、分かっていた。
扉が静かに閉まった。
ロレンツォは一人、ランプの炎を見ていた。
軍事は経済の下僕——。
長年、信じてきた言葉だ。金で戦争を動かし、金で戦争を止める。経済の力があれば、軍事など制御できる。
しかし——千人が死んだ。
アゴスティーノの息子夫婦と孫娘が死んだ。
それは帳簿の数字ではなかった。広場の灰の中に消え去った何か。経済の論理が届かない場所にある、暴力の連鎖。
ランプの炎が揺れた。
ロレンツォは、その光をいつまでも見ていた。




