第62話 街道を巡る攻防
エアル王宮、宰相執務室。
ナディールが羊皮紙の手紙を手に、足早に入ってきた。
「リミニが南部に通商道路を整備しろと要求してきた」
帳簿を前に何やら計算していたアルヴィンとフェルディナントが顔を上げた。
「聖シュタインとやることは一緒だな」
アルヴィンが肩をすくめた。
「まぁ、良いんじゃないか」
「何をのんきなことを言っている」
ナディールが壁の地図の前に立ち、指でグラリキス街道の線をなぞった。
「今度の敗戦で、聖シュタインはグラリキス街道の整備をもっと強硬に迫ってくる。二つの街道を同時に整備する資金など、どこにもない」
「それだよ」
アルヴィンが立ち上がり、ナディールの隣に並んだ。しばらく地図を眺めて、それから言った。
「両方に嘘をつく」
ナディールが振り返った。
「リミニには——聖シュタインがしびれを切らして、グラリキス街道の開発資金を提供してきたと言う。帝国から資金を受け取った上でそれを南部街道に使えば、どんなことになるか分かるだろう——そう伝える」
「聖シュタインにも同じようにですか?」
フェルディナントが羽ペンを走らせながら聞いた。
「同じだ。リミニから南部街道の開発資金が出ていると言えばいい」
「なるほど」
フェルディナントが口角を上げる。
「どちらも、簡単には確認できない。説得力があります」
「情報戦だな」
ナディールが静かに言った。
「これまでは閣議の内容がリミニに筒抜けだったが——今は違う」
窓の外、王都の屋根が夕日を受けて橙色に染まっていた。オットーを排除したことでその空白がこちらの武器になっていることを、ナディールは改めて噛みしめていた。
◇
自由都市リミニ。十人委員会。
高い天井のフレスコ画が、南からの陽光を受けて鮮やかに浮き上がっていた。歴代議長の肖像が並ぶ石壁。馬の蹄鉄型のテーブルを囲む十の席。二百年の時間が積み上げた権威が、この部屋のあらゆる場所に染み込んでいた。
アゴスティーノが羊皮紙を手に立っていた。
「エアルから返事が来た」
白い顎髭を震わせながら、委員たちを見渡す。
「何と——聖シュタインがグラリキス街道整備に資金提供を申し出ているとのことだ」
フィリッポが身を乗り出した。
「あの敗戦の後ですから。考えられないことではありませんね」
「そういうことだ。——帝国から資金を受け取った上でそれを南部街道開発につぎ込んだら攻め込まれかねない、というのも頷ける話だ」
アゴスティーノが羊皮紙を置いた。
「それで——南部街道にも、資金提供をしてほしいと提案があった」
しばらく沈黙が落ちた。
ロレンツォは黙って議論を聞いていた。腕を組み、椅子の背にもたれたまま、片眼鏡が窓の光を受けて静かに輝いている。
「いっそ、聖シュタインにエアルへ攻め込ませて、裏からエアルを援助するというのは」
端の席の委員が言った。
「それは無理だ」
アゴスティーノが首を振った。
「エアルが落ちれば、聖シュタインの全軍が迫ってくる。我々に帝国の正規軍と戦う力はない」
「援助といっても、これは総力戦になります」
バルトロメオが指を宙に走らせた。計算をしている時の癖だ。
「一体いくらかかるのか底が知れない。それなら街道開発に出資した方がまだましです。完成すれば商業的な利益も大きい」
「グラリキス街道は軍事道路だが」
別の委員が続けた。
「南部街道は通商路と言えば——エアルの言い訳にもなりますな」
ロレンツォの指が、ゆっくりと片眼鏡を外した。
懐から布を取り出し、拭き始めた。ゆっくりと。いつもより——長く。
エアルに圧力をかける話が、いつの間にか出資を迫られる話になっている。テーブルを囲む委員たちはそれに気づいていない。しかしロレンツォには、はっきりと見えた。
あの男の顔が浮かんだ。グラリキスの花の下で、涼しい顔をして自分と向き合っていた男。笑っているような、笑っていないような目。
「聖シュタインが出資したというのは——本当なのか」
ロレンツォの発言に委員たちの議論が止まった。
「確かに。確認が必要ですな」
フィリッポが頷いた。
「ただ、最近の帝国は警戒が厳しくなっており、スパイたちが動けていません」
ロレンツォは唇を噛んだ。
これまでなら確認できた。エアルの財務卿オットーを通じて、閣議の内容を手に入れることができた。しかし今は——その手段が、ない。
「スパイたちの報告を待つ間に…」
バルトロメオが言った。
「私の方で、街道へ投資した場合の効果を計算しておきます」
委員会が終わり、それぞれが席を立ち始めた。談笑しながら退出していく。
アゴスティーノがロレンツォに歩み寄った。珍しく、柔らかい顔をしていた。
「今度の戦勝バザールですが——議長に、開会のご挨拶をお願いできますか」
ロレンツォが思い出したように顔を上げた。
「あのバザールか。いや、君に任せよう」
「承知しました」
アゴスティーノが嬉しそうに頷いた。
「お任せください」
大股で歩いていく背中を、ロレンツォはしばらく眺めていた。
片眼鏡を、もう一度、静かに拭いた。




