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第61話 二人の生還者


 雨が降っていた。


 山道にあるのは僅かな星明り。足元の石が濡れて黒く光っている。木の枝が夜風に揺れるたび、水滴が容赦なく肩に落ちてきた。どこまでも続く木立の闇。遠くで梟が鳴く声だけが、静寂を破っていた。


 二人の男が、その道を歩いていた。


 粗末な服。泥で汚れた長靴。背中を丸めた歩き方。どこからどう見ても、山越えの行商人か、出稼ぎ帰りの農夫だ。


 ブラントの言いつけを守り、昼間は物陰に潜んでいた。月の明るい夜も動かなかった。動けるのは曇った夜だけ——そうやって静かに静かに、獣道を選び、街道を避け、峠を越えてきた。


 しかしようやく——国境を越えていた。


 もう人目を気にする必要はない。


 疲れていた。足の裏が熱を持ち、太腿は震えていた。それでも——二人の歩みは、自然と速くなっていた。濡れた枝が顔をはたく。これしきの痛みなど、どうということはない。


 突然、木々が途切れた。


 視界が、開いた。


 霧雨の向こうに、なだらかな平地が広がっていた。遠くに村の灯りが瞬いている。見慣れた、故郷の風景だった。


 ◇


 聖シュタイン帝都。皇太子の執務室。


 ハインリヒ皇太子は一人だった。


 机に広げた大きな地図の前に立ち、腕を組んで考え込んでいた。アイゼンガルト周辺の地形。エアルの街道。山脈の稜線。指が無意識に羊皮紙の上を動く。どう動かしても、答えは出なかった。


 扉を叩く音がした。


「失礼いたします」


 兵士が入ってきた。


「鉄剣聖コンラート殿、騎士ヴォルフ殿が帰還されました」


 ハインリヒが振り返った。


 兵士の後ろに、二人の男が立っていた。荷役夫の服装だった。汚れ、やつれ、顎に無精髭が伸びている。だが——その立ち姿は、紛れもなかった。


「コンラート」


 ハインリヒが歩み寄った。


 二人が膝をついた。


「お預かりした軍団を失いました。言葉もございません」


 コンラートの声は静かだった。落ち着いていた。感情を押し込めた、軍人の声だ。だからこそ——その重さが、言葉より深く伝わってきた。


「どのような処罰も、受ける覚悟です」


「よくぞ生きて戻った」


 ハインリヒはコンラートを立ち上がらせ、両手でその肩を掴んだ。言葉を探したが、見つからなかった。ただ、何度も肩を叩いた。


 ヴォルフは膝をついたまま、その光景を見ていた。


 出陣の前、コンラートが声をかけてくれた言葉を思い出す。


 ——逃げ回ってでも、生きて帰れよ。


 生きて帰れたのは、その言葉をかけた人と、かけられた自分の二人だけだった。


 ◇


 翌日。謁見の間。


 天井の高い石造りの部屋だった。高窓から差し込む光が、大理石の床に細長い影を落としている。どこまでも静かで、どこまでも重い空間だった。


 カール皇帝が玉座に座っていた。白い眉の下の目に、消えない炎が宿っている。その脇にハインリヒが直立していた。


 正装のコンラートとヴォルフが、広間の中央でひざまずいていた。


「鉄剣聖コンラート、アイゼンガルト戦役の経過を報告せよ」


 コンラートが立ち上がった。


「はっ。私はお預かりした騎兵二百騎、随行する弓兵、槍兵、従者、そして魔法部隊十名——総勢約千名を率い、アイゼンガルトに進出いたしました」


 声に感情がなかった。事実だけを並べる、軍人の報告だった。


「しかし——その途上で待ち伏せ攻撃を受けました。荷車のほとんどを焼かれ、食料の現地調達を試みましたが、周辺の食料は全て事前に買い占められていた。敵の傭兵は常に逃げ回り、戦果を挙げられない日々が続きました」


 広間は静まり返っていた。


「アイゼンガルト周辺には多数のスパイが潜んでおり、我々の行動は逐一報告されていた。やがて食料が尽き、撤退を開始したところ——村人から食料の提供がありました」


 コンラートが一拍、間を置いた。


「それが罠でした。食料には毒が盛られていた」


 カール皇帝の口元が、かすかに震えた。


「全員が毒に苦しむところを、傭兵たちの夜襲にさらされました。飢えと毒で、副官ゲオルクを含むほとんどの者が倒れました。戦場からの離脱に成功したのは——我々二名と、魔法使いのマルタ・フォン・ヴィンターの三名のみです」


 コンラートが頭を下げた。


「以上が、報告でございます」


「毒だと」


 カール皇帝の声が低く響いた。玉座の肘掛けを握る手に、力が込もった。


「リミニめ——どこまでも卑劣な」


「貴公は、どのように戻って参った」


 ハインリヒが静かに口を開いた。


「エアルに助けられました」


 コンラートが顔を上げた。


「宰相エーレンベルクの手の者が我々を匿い、山越えの脱出ルートを教えてくれました」


「その魔法使いは」


「衰弱がひどく、まだエアルに匿われています」


 ヴォルフが顔を上げた。


「何卒、救出をお願いいたします」


 声に力があった。報告でもなく、礼節でもなく——ただの懇願だった。


「マルタはまだ生きております。どうか——」


「我が国にそんな余裕があるのか」


 カール皇帝が問い返した。


 静かな問いだった。しかし静かであるほど、その冷たさが際立った。


「魔法を使い切った病人を助けるために部隊を出す余裕があるのだろうか」


 ヴォルフが唇を噛んだ。


 コンラートの眉がわずかにひそめられた。しかし言葉は出なかった。騎士道を重んじる男が、皇帝への忠節という鎖に縛られて、黙っていた。


「陛下」


 ハインリヒが進み出た。


「中立のエアルが危険を冒して援助したおかげで、コンラートが生還できたのです。今後はエアルとのパイプを太くし、リミニに備える必要があります」


「あんな小国に何ができる」


 カール皇帝が玉座から立ち上がった。老いた体が、怒りで一回り大きく見えた。


「まずこの屈辱を晴らす。目には目を——卑劣な敵には、我々が卑劣な手を取るのもやむを得ない」


 怒りに燃える目だった。誕生祭の夜、穏やかな炎のそばで笑っていたあの老皇帝は、もうどこにもいなかった。


 ハインリヒは眉間に皺を寄せながら、その言葉を聞いていた。

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