第60話 学院からの手紙
王宮に用意された小さな部屋で、リーナは一人で作業を続けた。
窓から差し込む光の角度が変わっても、手を止めなかった。一枚ずつ、丁寧に。手紙の黒塗りが腕へ移るたびに、少しずつ体が重くなっていく。
しかし手は止まらなかった。
腕が真っ黒になっていた。額に汗が光る。
それでも一心に、続けた。
◇
数日後。
ナディールの書斎に、四人が再び集まった。
リーナを見て、アルヴィンが眉をひそめた。
首筋まで——染みが見えていた。衿元から袖口にかけて、黒い汚れがはみ出している。
「やりすぎだ」
アルヴィンが言った。
「早くアルカーナムを使わないと」
「体調は大丈夫なのか」
ナディールが問いかけた。
「大丈夫です。少しムカムカするくらいで」
リーナが答えた。平静を装っているが、顔の色が不健康に白い。
「しかしお陰で——証拠がそろいました」
フェルディナントが書類を手に取った。
「閣議を含めた政治情報の提供要求。誇張した情報によるかく乱の指示。時に横領を暴露するという脅し」
一呼吸。
「そして——一番古い層から出てきた、フリードリヒ王の研究成果を要求する一連の指示と、これです」
フェルディナントが最後の一枚を読み上げた。
「——【フリードリヒ】との交渉は決裂した。【死んだら】最優先で【魔導物質】をおさえろ。【議長】には渡すな。 【L.V.】」
部屋が、静かになった。
ナディールの顔が歪んだ。
父と最後の面談が行われた後に送られた手紙。ロレンツォがオットーに送った、冷たい指示。父は研究を守った。そのために——。
「これは…」
アルヴィンが口を開いた。
「これは俺たちの切り札だ」
手紙の束を見る。リーナの腕に移った染みを見る。
「どう使うか——じっくり考えよう」
◇
蒸留所に戻ってきたリーナは、さすがに疲れきっていた。
研究室では、カッシオとルカがアルカーナムの蒸留を続けていた。蒸留器の前に立つ二人の横で、マルタも作業を手伝っている。顔に生き生きとした血の気が戻っている。
「お帰り」
カッシオが顔を上げて——そのまま固まった。
「わ。首まで真っ黒じゃん」
リーナの衿元と袖から、黒い染みがはみ出していた。ロレンツォの手紙から黒塗りを除去し続けた、等価交換の代償だ。
「ひどい」
マルタが青くなった。
「こんなの、体に悪いよ」
ルカが心配そうに言った。
「私がやらせて欲しいって頼んだの」
リーナが笑った。疲れた顔で、微笑む。
「大丈夫。アルカーナムを使って良いって言われているから」
慎重に、アルカーナムを取り出した。小さな粒を一つだけ、腕の上に乗せる。
黒い染みが——すうっと消えていった。
マルタが胸をなでおろした。
「そういえばリーナに、手紙が来ていたよ」
ルカが羊皮紙の手紙を差し出した。アルカディア産の羊皮紙だった。折り畳まれた上に、赤い蝋の封がしてある。
リーナが受け取った。封の文様を見て、目が少し変わった。
「パラケルスス教授からですね」
蝋の封を、丁寧に開ける。広げて、読み上げた。
——リーナ・ヴァイス・フローラ。悲しむべき戦争が起こりましたが、あなたは無事に活躍されていることと思います。
魔法評議会のアリアドネ議長以下、たくさんの人が、戦闘で行方不明になった魔法使いの身を案じています。
ヴィルヘルム・グロス。エーリッヒ・バウム。クラウス・ザイデル…
マルタ・フォン・ヴィンター。
皆、わが校の卒業生です。もし何かご存じであれば、連絡をお願いします。——
リーナが顔を上げた。
マルタが、震えていた。
手紙の中にあった、自分の名前。
「パラケルスス教授……あの、白いコートの」
静かな声だった。
「パラケルスス教授はいつも、私たちをフルネームで呼びます」
リーナが言った。
「全員のことを、覚えている」
マルタが目を伏せた。
「帝国では……魔法使いも、ただの武器だった」
しばらく黙っていた。
「先生は」
顔を上げた。
「覚えていてくれたんですね」
リーナが頷いた。
「返事は——あなたが書く?」
マルタが頷いた。
リーナが差し出したのは、羊皮紙ではなかった。
白くて、少し粗くて、まだ新しい匂いがする。エアルの製紙工場が作った、藁から生まれた紙だ。
マルタがその紙を受け取った。ペンを手に取って、文机の前に座る。
インクをつけて、書いた。
私は——、ここに居ます。




