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第59話 黒塗りの手紙

 

 エアル王宮、財務卿の執務室。


 質素な部屋だった。貴重品の装飾も、調度も何もない。壁の一面が書棚に埋め尽くされているだけだ。何十年分もの帳簿が、背表紙を揃えて並んでいる。オットーという男が積み上げた、几帳面な仕事の記録。


 フェルディナントが金庫の前に立っていた。


 扉を開ける。中には、債権書類の束、チョップと呼ばれる印章が幾つか、そして権利証の類いが整理されて収められていた。全部取り出していくと——一番奥に、手紙の束が置かれていた。


「これだな」


 フェルディナントが手紙の束を取り上げた。


 封を開けて、中身を広げる。焦る気持ちを抑えながら、目を走らせた。


 手紙は、あちこちが黒く塗りつぶされていた。


 人名。地名。数字。指示の内容。重要な部分が、ことごとく黒い帯に覆われている。断片だけが残り、何について書かれた手紙なのかさえ分からなかった。


 他の人間には読めない不思議な手紙——オットーがそう言っていた。


 フェルディナントは手紙を読み続けた。しかし、その黒い帯が阻み続ける。


 ◇


 数日後の朝。


 アルヴィンとリーナが王宮の門をくぐった。


 リーナは正装だった。グラリキス街道の花見以来、アルヴィンの秘書として各地の要人と接してきた。今日の青みがかった外套は、アルカディアで学んだ時とも、酒場で働いた時の服とも違う。しかしその笑顔は、変わっていない。王宮の門をくぐりながら楽しそうに笑っている。


「王宮と言っても、あまりキラキラしてはいませんね」


「貧乏な小国だからな。そんな余裕はない」


 アルヴィンが声を潜めた。


 中庭を抜けていく。左右に目をやる。回廊に、人影はない。


「よし。誰もいないな」


 その背後から——ワン。


 茶色い塊が走ってきた。マックスだ。アルヴィンの腰に頭を押しつけ、大きな尾を振り回している。


「あら」


 回廊の向こうから、金色の髪が現れた。


 エリザベート王女だった。青いドレスの裾を翻しながら、マックスの後を追ってくる。


「ルートヴィヒのお友達のウィスキー屋さん」


「わぁ……」


 リーナが小さく声を上げた。キラキラした方、と言いかけて、思い出したように続けた。


「あの時の——飲み比べの」


「ああ、グラリキス街道のお花見でお会いしましたね」


 エリザベートが笑顔で頷いた。リーナが頭を下げる。


「リーナ・ヴァイス・フローラと申します」


「あら、リーナさんは魔法使いなのですね」


 王女の目が、リーナの胸元の刺繍に止まった。アルカディア魔法学院の証だ。


「本当に小さな魔法ですが」


「今日はルートヴィヒ様に呼ばれまして」


 アルヴィンが穏やかに割って入った。


「あの恐ろしい戦争以降、ずっとルートヴィヒがしかめっ面なの」


 王女が少し眉を曇らせた。


「今後もエアルが中立を保てるのか、瀬戸際ですから」


「一緒にお花見をした方たちが争うなんて、悲しいことですわ」


 王女が中庭の石畳を見て、それから顔を上げた。


「そうだ——コンラート殿の消息は、ご存じですか」


 アルヴィンとリーナが顔を見合わせた。


 一瞬だった。


「いえ、私たちは何も……」


 アルヴィンが答えた。穏やかな顔で、穏やかな声で。


 リーナは黙っていた。教えたい、という言葉を、飲み込んだ。蒸留所の研究室で、マルタに毛布をかけて、声が出ない彼女の隣に座り続けた日々が、一瞬だけ胸をよぎった。


「そう」


 王女は少し残念そうに言った。


「無事でいますように。また一緒にお酒が飲めるようになると良いですね」


 マックスが傍らで尾を振っていた。王女はそのまま、何事もなかったように中庭の奥へ歩いていった。


 二人は、その後ろ姿を見送った。


 聖シュタインのコンラートとヴォルフを荷役夫に化けさせて逃がしたのは——まさにこの二人だった。


 アルヴィンは思った。これが天然の恐ろしさか。


 ◇


 ナディールの書斎は、また少し整理が進んでいた。


 山積みだった書類が棚に収まり、床が見えるようになっている。机の上の手紙の束だけが、今日のための例外として広げられていた。ナディールとフェルディナントが、それを挟んで向かい合っていた。


「部屋が片付いたな」


 アルヴィンが言った。


「ああ」


 ナディールが頷いた。リーナの方を向いて続ける。


「女性に見られても恥ずかしくない程度にはな。よく来てくれた」


 リーナが会釈した。


「中庭で、王女様にお会いしました」


「そうか」


 フェルディナントが机の上の手紙を示した。


「お出でいただいたのは、他でもありません」


 一呼吸置いてから言った。


「オットー元財務卿は自由都市リミニのスパイとして、十余年にわたり我が国の秘密を売り続けていた。これは——ロレンツォからオットーに送られた指示書です」


「重要書類のため、金色の麦に持っていくことは出来ませんでした」


 アルヴィンとリーナが、手紙の束を覗き込む。


 黒塗りだらけだった。文章の要所要所が黒い帯で覆われ、何についての手紙なのかさえ分からない。オットーだけに読める仕掛け——仮に見られても問題はなく、証拠にもならない。良くできた通信手段だと、アルヴィンは思った。


 手紙を透かしてみる。角度を変えてみる。指で縁をなぞってみる。黒塗りの下の文字は、どうやっても読めない。


 リーナが、じっと見つめていた。


 しばらく経って、静かに口を開いた。


「これは——守護魔法ではありませんね」


 ロレンツォの手下だったイサッコが、詐欺まがいの契約書にエルネストの守護魔法をかけさせた。あの時、リーナは染み抜きを試みたが守護魔法には阻まれた。魔法対魔法。強さが勝負を決める。


「上から、そっと被せてあるだけです。守護魔法のような壁じゃありません」


 声が落ち着いていた。考えながら、確認しながら、話している。


「それに、エルネストさんのような強力な守護魔法は——そうそういない」


 ナディールが問いかけた。


「染みを——抜けそうかい」


 リーナが一枚の手紙を手に取った。


「やってみます」


 三人が見守った。


 紙面の黒塗り部分が、最初は微動だにしなかった。次の瞬間、抵抗するように細かく震えた。リーナの手のひらに熱が集まっていく。それから——黒い染みが、ゆっくりと動き出した。


 紙の上から、リーナの腕へ。


 染みが移っていく。手首から前腕へ、白い肌の上を這い上がるように。


 リーナがふっと息を吐いた。


「出来ました」


 にっこり笑う。腕は黒くなったが、顔は晴れやかだった。


「さすがだ」


 アルヴィンが手紙を手に取った。


「これでロレンツォの関与が証明できるぞ」


 フェルディナントが手紙を読み上げた。


「——これまで停滞していた【グラリキス街道の工事】が進展した理由が知りたい。【資金調達方法と工事日程】の詳細を送れ。 【L.V.】」


「オプション販売で資金手当てをして、街道整備をした時のものか」


 ナディールが言った。声に苦さがあった。


「しっかり探りを入れていたわけだ」


「書かなくても良いイニシャル入りだ」


 アルヴィンが手紙の最後を指した。


「L.V.——ロレンツォ・ディ・ヴァザーリ」


 リーナはすでに次の手紙に取り掛かっていた。また黒い染みが、腕へと移っていく。


 フェルディナントが読み上げた。


「——【国立銀行】に海外の貴族【を装って】金貨百万枚の融資をする。出資元を【隠蔽】せよ。 【L.V.】」


「取り付け騒ぎを狙ったやつだな」


 アルヴィンが手紙の束と、リーナの腕を交互に見た。


「アルカーナムがあるから副作用を消せるとはいえ——これは大仕事だ」


「やらせてください」


 リーナが顔を上げた。


「私の魔法が役に立つ、数少ない機会です」


 その静かな目が決意を示していた。


「部屋を用意します」


 フェルディナントが頭を下げた。


「よろしくお願いします」


「頼んだぞ」


 ナディールがリーナを見た。


「これでオットーの証言を裏付けられる」


「王宮通いも、貴重な体験です」


 リーナが微笑んだ。

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