第58話 戦争の後
自由都市リミニ。
十人委員会の会議室は、馬の蹄鉄型のテーブルが中心にしつらえられていた。高い天井から吊るされた燭台が、石造りの壁を黄色く照らしている。二百年かけて積み上げた富と権威が、この部屋のあらゆる場所に染み込んでいた。
今日は報告者がいる。
テーブルの端に立つ男は、礼節というものを学んだことがなかった。傭兵の首領ガスパーレ。首に古い刀傷、指の節が分厚く盛り上がっている。正規兵の格好はしているが、その目は軍人のものではない。値踏みをする目だ。雇い主も、依頼も、全てを値段で見る目。
「あんたらのくれた毒は良く効いた」
口の端が少し上がっていた。
「千人の正規軍を——豚のように殺すことが出来た」
委員たちの反応は二つに割れた。
アゴスティーノが満足そうに頷いた。軍事強硬派の老人は、この日をずっと待っていた。その隣でバルトロメオの指がテーブルを叩いた。帳簿と利益率しか見えない男にとって、この報告は数字の達成を意味する。
ロレンツォだけが——つまらなそうに聞いていた。
「鉄剣聖コンラートは、逃げたのか?」
「副官は殺った」
ガスパーレが肩をすくめた。
「コンラートは異常だ。十三人もが切り殺された。金次第では何人犠牲を出しても打ち取ったが——」
「それで良い」
アゴスティーノが手を上げた。
「首を掲げてもカール皇帝を暴発させるだけだ。下がってくれ」
「ありがたいお言葉いたみいります。またよろしくお願いしますよ」
ガスパーレは金の匂いがする笑みを残して、扉の向こうに消えた。
◇
扉が閉まると、閣議が再開される。
「軍事は経済の下僕——証明されましたな」
バルトロメオが指を組んだ。数字を計算している顔だ。
「さて、この勝利をどう生かすか」
「ポルタヴェルデに駐留軍を置く必要はありませんね」
フィリッポが言った。ロレンツォの顔をちらりと見る。
「グラリキス街道が未完成である以上、帝国の大軍はあの地に辿り着けない」
「駐留軍など金の無駄です」
アゴスティーノが地図の上に指を置いた。骨張った指先が、エアル王国の南端を示す。
「それより——エアルに、別の方向へ街道を作らせよう」
委員たちの目が地図に集まった。
「南部のこのあたりに街道が出来れば」
バルトロメオが立ち上がって続けた。計算が追いついている。
「我々の商業網が確保される。そして——エアルがグラリキス街道を完成させる財源を削れる。一石二鳥だ」
「圧力をかけましょう」
賛意の声があちこちから上がった。
ロレンツォは黙って聞いていた。
片眼鏡の奥で、あの男の顔が浮かんだ。藍色の上着。真っ直ぐな目。花見の席で聞いたアルヴィンの言葉が、今もどこかに刺さっている。
——収奪は一度だけです。一度奪うのと、何度も分け合うのと、どちらが儲かるか。
あの宰相とあの男が組んでいる。そんな要求を吞むはずがない。分類できない男がどんな反撃に出るか——それが分からない。しかしここでそれを言っても、弱気と侮られるだけだ。
「エアルの財政が破綻すれば、貸付金の回収問題になる」
ロレンツォが口を開いた。言えることだけを言う。
「その時はその時です」
バルトロメオが涼しい顔で返した。
「借金のかたに取り上げるものはいくらもある。元々そのための貸付でしょう」
論理としては正しい。反論できない。
ロレンツォの懸念を置き去りに、会議は進んでいく。
「議長、裁決を」
促され、ロレンツォは静かに言った。
「賛成の方は、挙手をお願いします」
手が上がっていく。バルトロメオ、アゴスティーノ、そして一人また一人。フィリッポだけが躊躇っていた。ロレンツォの顔をうかがい、結果は変わらないと気づいて——おそるおそる手を上げた。
自分以外の、全員が。
「エアルへの南部街道開発要求案は——可決された」
ロレンツォが片眼鏡を外した。ゆっくりと、丁寧に拭く。拭き終わっても、またレンズに息を吹きかけて、拭き続けた。
ロレンツォが反対する議案が通ったのは、初めてだった。
委員たちが席を立ち、談笑しながら部屋を出ていく。勝利の余韻が廊下に流れていく。アゴスティーノの大きな笑い声が遠ざかっていく。
部屋に、一人残った。
静かな会議室に、燭台の火だけが揺れていた。テーブルの上の地図。その上に置かれたままの片眼鏡。
毒蜘蛛は、誰も見られず静かに座っていた。
◇
聖シュタイン帝国の帝都。
宮廷の大広間に、大きな地図が広げられていた。山脈、街道、国境線。全ての線が、今日は意味を持って見えた。
「コンラート部隊は、補給線を絶たれ——」
報告する兵士の声は、淡々としていた。帝国の軍人は感情を出さない訓練を受けている。しかし、この内容を口にしながら平静を保つことの難しさが、ほんのわずか声の底に滲んでいた。
「撤退の途上で襲撃を受け、壊滅致しました」
カール皇帝が、杖を床に叩きつけた。
石の床に杖の転がる鋭い音が響いた。老皇帝の顔が赤く染まっている。七十年生きてきた男の怒りが、あの音の中に全て込められていた。
「無様な!」
「精鋭を引き連れて、何たることだ」
「ただちに第二期遠征の準備にかかれ」
その横で、ハインリヒ皇太子は黙って地図を見ていた。
「コンラートは?」
静かな声だった。父親とは対照的に。
「生きているのか」
「コンラート殿の安否は、確認されておりません」
ハインリヒは一瞬だけ目を閉じた。
「父上」
皇太子が顔を上げた。感情のない、冷静な目だった。
「騎兵の四割を失ったのです。怒りに任せて同じ愚を繰り返してはいけません」
「同じ愚だと」
「山脈は大軍を拒みます。エアルの街道が未完成であることに変わりはない」
ハインリヒは父を見た。
「騎馬の速度が活かせず、体力のない魔法使いは遠征に不向きです。次の作戦は——コンラートの報告を聞いた後です」
強い言葉だった。皇太子が父帝に対してここまで明確に異を唱えるのは、珍しいことだった。
カール皇帝が口元を歪めた。老いた目が息子を測るように見た。
「……良いだろう」
呟くような一言だった。
全員が退出した部屋に、地図だけが広がっていた。




