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第77話 種まきと代償

 

 聖シュタイン帝国。帝都の王宮。


 玉座の間は広い。天井が高く、石の壁に鷹の紋章が彫られている。絨毯の赤が長く伸び、その奥に玉座があった。カール皇帝が腰かけていた。七十の老皇帝は、しかし目に老いを感じさせない。炎のような目をしている。


 報告は短かった。


「セルヴィア公国がクロッツ伯爵家に異端審問を命じました。しかし伯爵はこれを拒絶。使者を追い返しました」


 閣僚の一人が続けた。


「その帰途で、使者が落馬の事故に遭われ——お亡くなりになりました」


 玉座の間に静寂が落ちた。


「マーゲン男爵家がこれをクロッツの謀略と主張しております。両家の間で小競り合いが始まっています」


 カール皇帝が椅子の肘掛けを指で叩いた。


「クロッツの弱腰のせいだ。最初から使者を叩き斬ってしまえば良いのだ」


「問題はそこではありません」


 ハインリヒ皇太子が一歩前に出た。


「クロッツもマーゲンも、陛下の臣下です。どちらに加勢することも出来ない。そしてどちらが勝っても、帝国の国力を削がれる」


「ならばどうする」


 カール皇帝が吐き捨てた。


「私がセルヴィアに使者の弔いの使者を送り、異端審問の根拠を問い合わせます」


 ハインリヒは続けた。


「コンラート、マーゲン男爵の元へ行き、自粛を促してくれ。帝国の臣下同士が争うことは、陛下もご不本意だと伝えてほしい」


 コンラートが拳を組んで頭を下げた。


「はっ」


「まどろっこしい」


 皇帝が鼻を鳴らした。


「強い者が勝てば良いだけのことだ」


 ハインリヒは何も言わなかった。


 言えなかった、という方が正しい。


 頭の中では、別のことを考えていた。


 クロッツ伯爵家は皇帝の側近だ。それが異端審問を受けた。セルヴィアが介入してくるよう仕向けた者がいる。マーゲン男爵が攻め込むよう焚きつけた者がいる。そして使者が——帰途に、事故で死んだ。


 タイミングが良すぎる。


 ハインリヒには確信があった。糸を引いているのはリミニだ。どちらが勝っても聖シュタインの国力が削がれる。


 その読みは正しかった。十人委員会のアゴスティーノの工作が、今、帝国の地に根を張り始めている。


 しかし、ハインリヒは自分の考えを胸にしまうしかなかった。


 それを言えば、皇帝は即座に報復を命じる。軍を動かす。状況は変わっていない。またあの戦場が繰り返される。


 ハインリヒは唇を引き結んだ。


 クロッツとマーゲンが一つの火種だとすれば、地方豪族、少数民族、帝国の支配を良しとしない者たちに次々と火をつけていくことは難しくない。金さえあれば。


 そして、自由都市リミニには、金がある。


 ◇


 自由都市リミニ。議場の高窓から、夏の日が照りつけていた。


 十人委員会の蹄鉄形のテーブルに、普段とは違う空気が満ちていた。バルトロメオが立ち上がり、大きな羊皮紙を広げた。数字がびっしりと書き込まれている。指が無意識に動いている。


「エアルの南部街道を整備する場合の費用と経済効果について、両国の書記官で詳細に検証いたしました。建設費は金貨で八百七十万枚にのぼりますが——その経済効果は、投下した資本の約二倍です」


 ざわめきが起きた。


「こちらから出資という話だから躊躇していたが、それならやらない理由がはないな」


「利権さえきちんと押さえておけば——これほどの投資案件はそうそうない」


 テーブルの端に座るアゴスティーノが資料に目を走らせていた。孫娘を失ったあの日から、この男は変わった。目の奥が笑わない。今も、数字の話をしながら前のめりになっているが、どこかが空虚だった。


「南街道が整備されれば、エアルとの商圏が一気に広がります。食料、繊維、蒸留酒——輸送コストが下がれば、全ての取引量が増える」


 フィリッポが付け加えた。


 ロレンツォだけが、聞いていなかった。


 視線はテーブルの上の羊皮紙に落ちていたが、目が動いていなかった。


 エアルの宰相ルートヴィヒはオットーがスパイであることを見破り、ファブリツィオを手中に収めた。先王フリードリヒの暗殺を知っている。魔導物質を復活させている。そして今や、聖シュタインの魔法部隊二十人がカラカスに入っている。


 あの男が、南街道の投資話を持ち掛けてくる。


 なぜか。


「聖シュタインが街道整備に出資したという裏は取れたのか」


 ロレンツォが思い出したように言った。


「まだ確認が取れていません」


 アゴスティーノが静かに言った。


「あちこちで紛争が起きているので、出資が遅れているのでは」


「それこそチャンスです」


 フィリッポが立ち上がった。


「聖シュタインが先に出資してしまえば、エアルも断れなくなる。動くなら今です」


「我々には資金があります。これを活かすなら今でしょう」


 バルトロメオが畳みかけた。


「それと——」


 バルトロメオが別の羊皮紙を取り出した。


「この計画に、もう金貨十万枚の出資を追加でお願いしたい。エアルが導入したアルカディア製の計算機を購入します。あの箱一つで、我が国の処理能力が飛躍的に伸びる。うまくいけば構造を研究して量産もできます」


「十万枚で済むなら安いものだ」


「では裁決を」


 誰かが言った。


「議長——」


 ロレンツォが顔を上げた。


「……賛成の方は、挙手を」


 機械的な声だった。


 手が上がった。バルトロメオ。アゴスティーノ。フィリッポ。他の委員たちも、躊躇なく手を上げていく。誰もロレンツォの顔色を窺わなかった。いつもなら、議長の目を確認してから手を上げる者がいたが、今日は違った。全員が前を向いて、迷いなく手を上げた。


「——可決」


 ロレンツォが言った。


 片眼鏡を外した。いつもなら布で拭く。今日は、そのまま指を止めた。机の上に、静かに置いた。


 議場が散けていく。椅子を引く音、書類をまとめる音、低い雑談の声。いつもより明るい声だった。


 ロレンツォだけが動かなかった。


 磨かれたテーブルの表面に、片眼鏡が乗っている。それをじっと見ていた。


 それ程うまい話があるものか。


 あの分類不能の男が、そんな甘い相手であるはずがない。


 そう叫びたい衝動を、六十年かけて磨いた自制で、押さえていた。


 ◇


 廊下に出ると、バルトロメオがフィリッポの隣に並んだ。


 足を緩めながら、声を落とした。


「何やら——ご機嫌ですな」


「ええ、まぁ」


 フィリッポが照れくさそうに前を見た。


「金鉱脈の件でしょう」


 フィリッポが立ち止まった。バルトロメオを見た。


「あなたも、ですか」


「内密にとは言われていましたが」バルトロメオが肩をすくめた。「あなたはアルヴィン氏と仲が良い。当然噛んでいると思いまして」


 フィリッポが少し笑った。


「先月の配当が倍になった。あなたは」


「私もです」フィリッポが声を潜めた。「これで配当が元本を超えました。儲けた分は再投資しようと思っています」


 二人で、廊下の奥に目をやった。


 議場の扉が、まだ開いていた。その向こうで、ロレンツォが一人、議長席に座ったままだった。遠くて顔は見えない。ただ、動いていなかった。


 バルトロメオとフィリッポは声を潜めたまま、互いに目を合わせた。


 笑い合った。


 ◇


 夜。


 リミニの古い港町の一画に、アゴスティーノの屋敷があった。


 三階建ての石造りだ。かつては家族の笑い声がした建物だ。今は静かだった。使用人だけが動いていた。


 アゴスティーノが執務室の大きな椅子に座った。どっかりと、重く座った。


 会議が終わった後も、指示を出し続けた。帝国の地方への工作員への指令。セルヴィア経由の情報確認。傭兵部隊への送金。世界各地で、同時に火を焚き続けている。それが自由都市を守ることだと信じてきた。


 疲れがあった。


 体だけでなく、どこか別の場所が疲れていた。


 一人になると、卓上のランプだけが揺れていた。


 テーブルの上に、アルヴィンから届いた書面があった。折り畳まれている。


 封を開けた。


 金の鉱脈開発への出資の報告書だった。配当が二倍になっていた。数ヶ月で投資分を回収したことになる。


「あの男が——約束を守ったか」


 アゴスティーノが書面を置いた。


 脇に、瓶があった。ゴールデンフィールドの、スペシャルだった。一人になった時のために、と言われた瓶だ。


 栓を抜いた。グラスに注ぐと、琥珀色の液体が揺れた。


 口に含む。


 麦の、奥深い香りが広がった。


 その香りが、記憶を引いた。


 家族で海に行った夏のことだ。テーブルの上にパンが並んでいた。マッテオが大きな声で笑っていた。グラツィアが隣に座っていた。キアラが小さな手でパンを掴んで、「美味しい」と言いながら食べていた。


 アゴスティーノはグラスを机に置いた。


 配当の書面を、もう一度手に取った。数字を見た。数字は確かにそこにある。金が増えた。増え続けている。


 軍事支援にはまだまだ資金がいる。十人委員会の地位を失うことは出来ない。


 アゴスティーノは書面の下に別の帳簿を引き出した。リミニが各委員に任されている国の運用金の管理帳だ。ページをめくった。指が止まった。


 数字を、もう一度確かめた。


 それから——決めた。


 自分に任された運用金を、この投資に投入する。


 ランプの炎が、一人の部屋でゆれていた。


 海の香りも、あの時のぬくもりも、もうそこにはなかった。

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