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第7話 宰相の憂鬱

 エアル王国の王宮。白い石造りの荘厳な建物で、中央の大きな塔を囲むように東棟、西棟、南棟、北棟がそれぞれ異なる役割を持っている。


 北棟の古い一室。扉の銘板には『宰相執務室』と刻まれていた。


 中は乱雑だった。机の上、床の上、椅子の上。至る所に紙の山が積み上がっている。羊皮紙の契約書、報告書、請願書、列強国からの書簡。窓から差し込む朝日の中で埃が舞い、部屋の隅の質素な寝台で一人の男が目を覚ました。


 ナディール——酒場ではそう名乗っているが、本名はルートヴィヒ・フォン・エーレンベルク。この国の宰相だ。


 三十代前半。だが顔には疲労の色が濃く、目の下に隈がある。昨夜も遅くまで書類を読んでいて、いつ寝たか覚えていなかった。


「……今日も、朝が来るか」


 ゆっくりと起き上がり、部屋の隅の鏡で身なりを整えた。髪を梳かし、服を着替える。貴族の服だが襟が少し擦り切れている。新しい服を作る時間すらない。


 鏡に映る自分の顔は疲れていた。


「……いつまで持つかな」


 呟いてから、すぐに首を横に振った。弱音を吐いている場合じゃない。机の上にはまだ山ほどの書類が積まれているが、間もなく閣議の時間だ。


 部屋を出て北棟の廊下を歩く。東棟や南棟は華やかで、貴族たちが行き交い、宴会が開かれる場所だ。だが北棟は違う。ここは仕事をする場所。地味で、静かで、孤独な場所だった。


 歩きながら考える。村人たちは、自分のことを酒ばかり飲んでいる落ちぶれた貴族だと思っているだろう。いつも『金色の麦』でワインを飲んでいるのだから、笑われていてもおかしくない。だがそれで良いい。本当の自分を知られる必要はない。宰相として、この国で一番忙しく、この国で一番孤独な男として、毎日戦っている。それは誰も知らなくていい。


 ◇


 閣議室の重厚な木製の扉の前で、衛兵が姿勢を正した。


「宰相殿の、おなりー!」


 中に入ると、長いテーブルの周りに既に何人かが座っていた。ブラント軍務卿——五十代の厳格な顔つきの軍人出身の男で、背筋がぴんと伸びている。オットー財務卿——四十代の神経質そうな男で、眼鏡をかけ、帳簿を常に手放さない。他にも数人の閣僚たちがいるが、みなナディールと同じように疲れた顔をしていた。


 テーブルの上座から二番目、いつもの席に着く。一番上座は国王陛下の席だ。まだ空いている。


 しばらくして扉が再び開き、衛兵の声が響いた。


「国王陛下の、おなりー!」


 全員が立ち上がって頭を下げる。エドゥアルト国王が入ってきた。七十代。白い髭に白い髪。杖をついてゆっくりと歩き、上座に着いた。


「皆の者、座れ」


 書記官が立ち上がり、本日の議題を読み上げ始めた。


「聖シュタイン帝国からは、軍用道路の建設要求」


 ナディールは顔をしかめた。また、か。


「自由都市同盟リミニからは、利子の即時返済要求」


 財務卿が額に手を当てた。


「法王国セルヴィアからは、異端審問とカラカス地方の聖域化要求」


 軍務卿が舌打ちした。


「アルカディア公国からは、魔導資源の独占契約」


 閣僚たちがため息をついた。


 書記官が羊皮紙を置くと、沈黙が落ちた。誰も何も言わない。重苦しい空気だけが閣議室を満たしている。


「要するに」


 ナディールはテーブルに手をつき、大きくため息をついた。


「いつも通り、か」


「軍用道路ですが…」


 財務卿が眼鏡をずらしながら口を開いた。


「財政が破綻します。道路を作るには金貨一千万枚が必要です。我が国の年間税収は金貨三百万枚。到底、無理です」


「それは皆がよく分かっている。でも断れば?」


「聖シュタイン帝国は、戦争を仄めかすでしょう」


 軍務卿が拳をテーブルに叩いた。


「そもそも軍用道路ができれば、聖シュタイン帝国はどの国にも介入できるようになります。そうなれば我が国は属国と見なされ、列強のぶつかり合う戦場となりかねません」


 ナディールは天井を見上げた。


「それも分かっている。でも、代案は?」


 誰も答えない。沈黙が続く。


 議論は一時間続いたが、堂々巡りだった。解決策はない。財政が弱い。軍事力もない。外交カードもない。あるのは列強国の圧力だけだ。


 国王が立ち上がった。


「一同、ご苦労だった。それでは、本日はそういうことで」


 いつもの曖昧な締め。何も決めない。決められない。それがこの国の現状だった。


 ◇


 閣議室を出て一人で廊下を歩く。頭が痛い。


「……どうすれば。何か名案は」


 答えのない問いを呟きながら、中庭に出た。新鮮な空気と緑の芝生、花壇の花、噴水の音。少しだけ気持ちが落ち着く。ベンチに座って空を見上げた。青い空に雲が流れている。


「……疲れたな」


 その時——。


「わん!」


 大きな声。顔を上げると、茶色い毛並みの大きな犬が尻尾を振りながら突進してきた。マックスだ。その後ろから、金色の髪に青い瞳、小さな王冠をつけた若い女性が駆け寄ってくる。


 エリザベート王女。


「あら! ルートヴィヒ!」


 犬を連れて笑顔で近づいてきた。ナディールは慌てて立ち上がり、頭を下げた。


「王女殿下」


 王女は気にせずに近づいてきて、心配そうにナディールの顔を覗き込んだ。


「疲れたお顔。宰相殿がそんなに疲れていてはいけませんわ」


 そう言いながら、もうマックスの腹をくすぐり始めている。マックスは尻尾を振りまくり、腹を見せてごろんと転がった。舌を出してはあはあと息をしている。完全にリラックスした姿だ。


 ナディールはその様子を見ながら、数年前のことを思い出していた。


 ◇


 数年前——エリザベート王女の成人の儀式の日。


 王宮の謁見の間。豪華なシャンデリアの下、赤い絨毯が敷かれ、玉座にエドゥアルト国王、その横に成人したばかりの王女が並んでいた。各国から使節が次々と贈り物を献上していく。宝石、絵画、工芸品。


 聖シュタイン帝国の大使が進み出た時、空気が変わった。四十代の厳格な顔つきの男。高級な軍服に勲章が並んでいる。そしてその手には——太い鉄の鎖。


 鎖の先にいたのは、犬というよりも獣だった。巨大な黒い犬で、肩の高さが人の腰ほどもある。鋭い牙を剥き、低く唸っている。目は血走っていた。戦闘犬だ。


 周囲がざわめいた。貴族たちが後ずさり、衛兵たちが槍を構える。国王エドゥアルトも顔色を変えた。大使は深く礼をしたが、目は笑っていなかった。


「エリザベート王女の成人の儀式、おめでとうございます。ささやかではございますが、お祝いをお持ちしました」


 犬が前に出て低く唸る。エドゥアルト王がひるんだ。大使の計画通りだ。この犬でエアル王国の弱さを思い知らせるつもりだった。


 その時——。


 だっ、と人影が走った。


「まあ!」


 明るい声。エリザベート王女が玉座から飛び降り、ドレスの裾を翻して犬に駆け寄った。


「王女殿下! 危険です!」


 衛兵たちが叫んだが、間に合わなかった。エリザベートは——犬を抱きしめた。


 時が止まった。全員が凍りついている。国王も、大使も、衛兵も、貴族も。そして犬も。


 突然抱きしめられた犬は、混乱していた。戦闘犬として訓練され、人を威嚇し、恐れさせるのが仕事だ。だがこの人は怖がっていない。それどころか——。


「あなた、なんて可愛いの。大きくて、立派で、格好いい。毛もモフモフ」


 顔を埋めて、犬の頭を撫で始めた。


「……わん?」


 犬が小さく鳴いた。尻尾がわずかに揺れた。


「この子のお名前は?」


 エリザベートが大使を見た。無邪気な笑顔だ。


「い、いや……戦闘犬には名前は……」


「まあ。それでは私がつけますわ。大きいから、マックスにしましょう」


 犬の目を見つめた。


「マックス。今日からよろしくね」


 マックスは尻尾を大きく振って、嬉しそうに吠えた。もう唸ってもいないし、牙も剥いていない。


「大使様、素晴らしいプレゼントをありがとうございます」


 エリザベートが深々と礼をした。満面の笑みだ。大使は何も言えなかった。計画が完全に崩れた。王を威嚇するはずだった犬は、今や王女に完全に懐いている。


「……気に入っていただけたのなら、ありがたい。王女様の護衛役には、ぴったりかと」


 取り繕うのが精一杯だった。儀式の後の宴で、聖シュタイン帝国の大使は早々に帰っていった。


 宴の後、ナディールはエリザベートの部屋を訪れた。当時はまだ今より若く、皺は無かったが、表情は険しかった。


「王女殿下。結果は良かったものの——噛まれたらどうするんです! あれは戦闘犬ですよ! 訓練された獣なんです! もし怪我でもしたら——」


 エリザベートは不満そうな顔をした。


「でも、大使様がいきなり噛む犬を連れてくるわけがないじゃない。外交問題になるだけだし」


 ナディールは言葉に詰まった。


「それは……確かにそうですが。でも、それ後付けですよね」


「後付け?」


「王女様が怪我をしたら、衛兵たちの首も飛ぶんですよ。それに、もし万が一、王女様に何かあったら——」


 声が震えた。


「この国は、どうなるんです」


 エリザベートは黙って、それから小さな声で言った。


「……ごめんなさい。心配、かけました」


 ナディールはため息をついた。


「分かればいいんです。まあ、結果的には良い護衛犬を手に入れましたが」


 マックスが「わんっ」と尻尾を振った。

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