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第56話 贖罪の告白

 

 オットーの屋敷。その寝室で夫人が旅立った。


 静かな死だった。苦しそうな顔一つせず、眠るように息を引き取った。


 オットーはしばらく動かなかった。組んだ手の上に、そっと自分の手を重ねた。


 やがて、ゆっくりと顔を上げた。


 ナディールとフェルディナントが、部屋の隅に立って見守っていた。


「——お話しします」


 オットーの声は低かった。震えてはいなかった。腹を括った声だった。


「長い話になりますが…、最後まで、聞いていただけますか」


 ナディールが頷いた。


 フェルディナントが羊皮紙と羽ペンを取り出した。この話は、記録しなければならない。


 ◇


 先王フリードリヒ様は、アルカディアに留学経験をお持ちでした。


 オットーが語り始めた。


 熱心に魔法と魔導物質の研究をされていた。どのようなものかは、私には理解が及びませんでした。秘密にしなければならない事情もあったのでしょう——我々には詳しいことは教えていただけなかった。


 そして——研究資金を自由都市リミニから借り入れた。


「フリードリヒ王は、研究が完成すればすぐに返せると楽観的でした」


 オットーは夫人の顔から目を離さずに言った。


「しかし、私は財務卿として不安でした。研究は本当に完成するのか。それは金を生むようなものなのか」


 窓の外、夕暮れの空が橙色に染まり始めていた。


「その貸し付けのリミニ側の窓口となっていたのが——ロレンツォです」


 名前を口にすると、少し顔が曇った。


「当時はまだ十人委員会の一人で、議長ではありませんでした。よくエアルを訪れていた」


 ◇


 私の妻が体調を崩したのは、その少し前のことでした。


 風邪かと思って医者に見せたところ、余命いくばくもないと言われた。


「あまりに突然のことで——目の前が、真っ暗になりました」


 オットーの手が、夫人の手の上でわずかに動いた。


「仕事ではずっと数字ばかり見てきました。しかし家に帰れば、小さな幸せがあった。それが無くなった人生を——想像できなかった」


 ある日、エアルを訪れていたロレンツォに、妻の話をした。


 するとロレンツォは言った。世の中には、時間を薄める魔法使いがいると。


「大貴族や大富豪の中には——莫大な対価を払ってでも、寿命を延ばす者がおります。ロレンツォはその仲介をしていた」


「もちろん、私に手の届くような金額ではありません」


 フェルディナントのペンが、静かに動いている。


「でも、いよいよ妻の具合が悪くなって——私は怖くてたまらなくなった」


 少し間があった。


「私の心の中で——悪魔が囁きました」


 フリードリヒ王は研究に夢中で、財政は任せきりだ。私が帳簿を操作しても気づかれない——と。


「ロレンツォに魔法の依頼をすると、彼は大そう同情して、金の出所は聞かずに魔法使いを呼んでくれた」


 オットーの目が、細くなった。


「妻は——死なずに眠り続けました」


 すー、と。今もそこに残っているような、静かな寝息の音。


「魔法使いは言いました。これで二年はもつ、と」


 ナディールは黙って聞いていた。


「しかし——それが転落の始まりでした」


 魔法の他にも、あらゆる薬を試した。しかし効果があるのは、あの魔法だけだった。


「今度は、二年後が怖くなりました。また魔法をかけてもらうには——蓄財しておくしかない。あらゆる機会を見つけて、横領を続けました」


 部屋が静まり返った。ペンの音だけが続いている。


「そして——ロレンツォは私に、知る限りの情報を提供するように迫りました」


「断れば横領を暴かれる。従うしかありません」


 オットーが初めて、ナディールを見た。


「ロレンツォは——フリードリヒ様の研究についても、私よりもずっと理解していたようです」


 ◇


 ナディールは、オットーの告白を聞きながら——父の書斎を思い出していた。


 あの半地下の部屋。細いスリット窓から差し込む光。机の上に積まれた羊皮紙の束。几帳面な文字。丁寧な、父の字。


 父は、魔導物質アルカーナムで——どんな脅しにも対抗できる国を築こうと、日々研究に打ち込んでいた。


 その純粋な気持ちに、嘘はなかった。


 秘密にしなければならなかったのも、確かだ。


 しかし——それが身内にこんな歪みを生んでしまった。


 もう少しだけ内政に力を振り分けられたなら、横領を未然に防げた。いや——部下である財務卿の苦境に寄り添うことができていたなら、この悲劇は起こらなかった。


 あれだけの偉大な研究を進めた父も、完璧ではなかった。


 ナディールは父の後ろ姿から——また一つ、大切なことを学んでいた。


 ◇


 同じ頃、蒸留所ではリーナが語っていた。


 一室のベッドに、マルタが横になっていた。コンラートらが脱出した後、彼女もクラウスの家から蒸留所へ移動していた。


 リーナが椅子を引き寄せて、傍らに座っている。スープの入った椀を膝の上に持って、静かに話しかけていた。


「私はエアルからアルカディアに留学して——パラケルスス教授のもとで魔法を勉強したんですよ」


 マルタは動かない。ただ、確かに聞いている。


「でも結局、身につけられたのは——染み抜きの魔法だけ」


 リーナが苦笑した。


「よりによって染み抜きですよ。世の中には色んな魔法があるのに」


「魔法学校では、ずっと肩身が狭かった。マルタみたいな——強い魔法を持つ生徒が、まぶしかった」


 マルタが何かを言おうとした。唇が動いた。しかし声が出てこない。


「いいんです。今は聞くだけで」


 リーナがそっとスープを差し出した。


「卒業しても残ったのは奨学金の借金だけで——昼も夜も酒場で働き続けでした。それがどうして、こんなところにいるんでしょうね」


 二人で、少しだけ笑った。


 そこへ——扉がノックされた。


「調子はどうだい」


 アルヴィンが顔を出した。


「スープは飲めるようになりましたけど、固体はまだ無理みたいで。喋ろうとはするけれど、声が出ないんです」


 リーナが眉をひそめる。


「よほどの修羅場だったんだろうなあ」


「気持ちの問題とは別に——魔法を使いすぎている。魔法の副作用を、体にため込んでいるんです」


「それを何とかしないと駄目か」


「ええ。ただ、方法が」


 リーナが少し考えてから、羊皮紙の束を取り出した。先日まで、アルカーナムの蒸留法の手がかりとして読み込んでいたものだ。


「アルカーナムの性質は——魔法の増大、副作用の打ち消し、使用すると消える、の三つでしょう」


「その上で、過度な魔法を使った者の副作用を解消する、とも書いてあります」


「なるほど。魔法の負債を解消するわけだ」


 アルヴィンが腕を組んだ。


「アルカーナムが貴重なのは分かっているけれど、何とかなりませんか?」


「確かに。今後の有効な利用法を考える上でも——試しておくべきだろう」 


 アルヴィンは確信を持って答えた。

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