第55話 山岳ルート
カラカス地方、農家の一室。
暖炉に火が入っていた。
赤い炎が部屋を温めている。それでも——ベッドに横たわる少女の頬は白かった。
リーナがマルタの傍らに座り、水差しを口元に運んでいた。
「もう大丈夫」
静かな声で言う。
「戦争は終わりました。あなたを傷つける人は、どこにもいないわ」
マルタの目は開いていた。ただ——何かを見ているわけではなかった。焦点が合っていない。口元が小刻みに震えているが、声が出ない。
リーナは水差しを置き、考えた。
魔法には副作用がある。自分の限界を超えて使い続けると——体は冷えていく。では、それを元に戻すには。染み抜きの魔法も心の染みを抜きとることまでは出来ない。
扉が開いた。
アルヴィンが入ってきた。コンラートとヴォルフが続く。
「そろそろ出発の時間だ」
コンラートとヴォルフがベッドを覗き込んだ。コンラートの目に、苦しい感情が滲む。
「お前だけ残していくのは心残りだが——山越えの危険なルートだ。その体では」
ヴォルフがマルタの目を見た。
「一緒に帰りたいか?」
その時だけ。
マルタの目に、恐怖の色が浮かんだ。
戦場の夜。毒。炎。ディートリヒが倒れていく背中。傭兵の顔に手を当てた瞬間の——あの感触。
マルタはゆっくりと首を横に振った。
ヴォルフが頷いた。目が赤い。
「いつか——必ず迎えに来る」
誰も何も言わなかった。暖炉の炎が、静かに燃えていた。
コンラートが最後にマルタを見た。
何も言わずに、踵を返した。
◇
ナディールとフェルディナントが、報告を聞き終えた。
「そういうことか」
ナディールがため息をついた。
地下牢に向かって階段を降り始める。
牢の中では、オットーがうずくまっていた。
膝を抱えて、床に目を落としている。いつも抱えていた帳簿はない。眼鏡も曲がっている。この男がこれほど小さく見えたことは、なかった。
ナディールが格子の前に立った。
「オットー」
顔が上がらない。
「夫人のことは——同情する」
オットーの肩が、かすかに動いた。
「しかし、国庫を開けてご婦人の延命を続けることは出来ない」
ナディールは続けた。
「私にできるのは——お前に、夫人の最後を看取らせてやるくらいだ」
オットーがゆっくりと顔を上げた。
老いた目が、ナディールを見上げる。
「ほ——本当ですか」
ナディールが頷いた。
オットーが両手で顔を覆った。肩が震えている。声も出ない。ただ——震えていた。
◇
カラカス地方。
大きな荷車が何両も連なって、街道に並んでいた。
ゴールデンフィールドの樽が積まれている。琥珀色の液体を詰めた樽が、一両に何十本も。大陸中の商人たちが、この酒を待っている。
荷役夫の服を着た男が二人、荷車の隣に立っていた。
「荷役夫に化けるなど」
ヴォルフが低い声で言った。悔しそうに自分の服を見ている。
「無駄なプライドと余計な欲が、一番カモにされる」
アルヴィンが言った。
「いちいち、お説ごもっとも」
「若いわりには呑み込みが早い」
アルヴィンが少し口の端を上げた。ヴォルフは黙った。
「しかし」
コンラートが前方を見ながら言った。
「逃げてきたグラリキス街道を、逆戻りとは」
「国境はリミニのスパイが血眼になってあんたを探している。まさか自由都市向けの貨物の荷役をしているとは思わないだろう」
「あの山岳ルートの近くに差しかかったら、夜に抜ければいい」
「世話になった」
コンラートが言った。
「宰相殿と、ブラント軍務卿に——この御恩は忘れないとお伝えください」
「ああ」
アルヴィンが頷いた。
「その軍務卿から、伝言がある」
少し間を置いた。
「月が明るい晩は動くな——だと」
コンラートが頷いた。軍人の言葉を、軍人の耳が受け取った。
「分かった」
荷車が出発の準備を終えた。コンラートとヴォルフが他の荷役夫たちに混じり、それぞれの位置についた。
「よーし、リミニに向けて出発」
アルヴィンが号令をかけた。
荷車の列が動き始めた。車輪が石畳を踏む音が連なって、やがて街道に続いていく。
アルヴィンは荷車が見えなくなるまで見送った。
「幸運を」
誰にも聞こえない声で、呟いた。
◇
オットーの家。
夕暮れの光が、小さな寝室に差し込んでいた。
オットーがあの椅子に座っている。
何年も、何年も、ここで夫人を見守ってきた椅子。座面がすり減り、脚が少し傾いている。それでもこの場所に置かれ続けた椅子。
ベッドに眠る女性の顔に、橙色の光が当たっていた。穏やかな顔だった。苦しそうではなかった。ただ——眠り続けている。
すー。
すー。
寝息が聞こえる。
オットーは動かない。ただ夫人の顔を見ている。
十余年。この部屋に通い続けた。仕事が終わると、まずここに来た。何も話さなくていい。ただここに座って、この寝息を聞いていれば、自分がまだ正気でいられた。
寝息が——。
すー。
す。
だんだんと、小さくなっていく。
オットーが夫人の手を取った。両手で包む。冷たかった。でも握り返すように、指がかすかに動いた気がした。
す。
……。
音が、消えた。
オットーは動かなかった。
しばらくそのままでいた。長い間、動かなかった。
やがて——ゆっくりと、夫人の手をベッドに戻した。組んだ手の上に、そっと乗せる。
立ち上がった。
後ろに、ナディールが立っていた。
オットーが深く頭を下げた。
「ありがとうございました」
声が、震えていた。
「妻が病に倒れてから——十余年」
しばらく下を向いていた。
「思えば——辛い人生でした」
ナディールは黙って聞いていた。
オットーが顔を上げた。老いた目が、ナディールをまっすぐに見た。
「自由都市の者は——金で買えないものはないと言う」
ナディールが静かに言った。後半の言葉を一度飲み込み、それから続けた。
「果たして——金で、幸せが買えるのか」
部屋に静寂が落ちた。
窓の外、夕陽がカラカスの麦畑を橙色に染めていた。
オットーが口を開いた。
「私は——ルートヴィヒ様に、お話ししなければならないことがあります」
声が低かった。
「先王陛下は——」
ナディールの目が、わずかに動いた。
「先王フリードリヒ様は——」
部屋の空気が、変わった。
オットーの告白が始まろうとしていた。




