第54話 眠りの部屋
地下牢。
石の壁に、ランプの灯りが揺れている。
フェルディナントが帳簿を抱えて、鉄格子の前に立っていた。中にオットー財務卿が座っている。眼鏡をかけた中年の男。いつも帳簿を手放さなかった手が、今は膝の上で組まれていた。
「オットー。あなたの部屋の帳簿も見ました。いくつか教えていただきたいことがあります」
オットーはうなだれていた。
しかし——突然、床を拳で叩いた。
「そんなことはどうでもいい」
声が裏返った。帳簿を握り続けてきた男の、初めて見る姿だった。
「妻が死んでしまう。私が行かなければ、妻が死んでしまうんだ」
「そんなことって、公金横領がそんなことですか」
「話はいつでもできるだろう」
オットーの目が赤い。
「頼む。少しだけでいい。ここから出してくれ。少しだけ——」
「そういうわけにも参りません」
フェルディナントが静かに言い切った時。
牢の外に、気配を感じた。
振り返ると——ナディールが壁に背を預けて立っていた。いつから聞いていたのか、分からない。目を合わせると、顎でわずかに外を示した。
フェルディナントが牢の外に出た。
「ずっと、この調子で」
「自由都市対策に、早く彼から情報を引き出す必要があるのだが」
ナディールが低い声で言った。
「彼の夫人を——調べてもらいましょうか」
フェルディナントが言った。ナディールは少し考えてから、頷いた。
◇
エアル国立銀行。
朝から扉が開くたびに客が入ってくる。窓口にはエルネストが立ち、その隣には助手が一人。ヴィトゥスという若い魔法使いだ。
一方でカッシオは扉の脇に腕を組んで立っていた。銀行の警備係は、平和な日が続くほど仕事がない。
「フェルディナントから呼び出しが来てるんだが——」
カッシオが声をかけようとして、止まった。
紙工場から試作品が届いていた。それも山ほど。藁と木灰から作った新しい紙が、棚にも床にも積み上がっている。エルネストはその一冊一冊に丁寧に守護魔法をかけていた。
「師匠は丁寧すぎるんですよ」
ヴィトゥスが通帳の束を手にしながら言った。
「大量生産なんだから、手際よくいかないと」
そう言うと——ポン、ポン、と判を押すような手つきで、次々に守護魔法をかけていく。
エルネストが無言で一冊手に取り、両端を持って力いっぱい引っ張った。
ビリ。
あっさりと破れた。
「強度不足です」
「うっ…」
ヴィトゥスが言葉に詰まった。エルネストは静かにその通帳を脇に置き、次の一冊に取りかかった。
そのやり取りをずっと眺めていたカッシオが、小さく呟いた。
「こりゃ駄目だ。ルカを誘おう」
一人で呟く、扉から出ていった。
◇
エアルの石畳を、三人が並んで歩いていた。
カッシオ、ルカ、そしてフェルディナントと懇意にしている役人だ。この役人とはもう一つ、妙な縁がある。以前、カッシオが悪魔憑きを演じた件で、彼も片棒を担いだのだ。
役人がルカをちらりと見た。
「お連れは、随分とお若いですね」
「これでも二十五歳でね」
カッシオが代わりに答えた。
「それは失礼しました」
「良いんです。慣れていますから」
ルカが微笑んだ。笑うと本当に少年に見える。でも目の奥に、二十五年分の時間が静かに溜まっていた。
三人は住宅街に入っていった。整然と並ぶ家々。石造りの門、小さな庭。
「ああ、ここですね」
役人が立ち止まった。
一軒の民家だった。門もある。庭もある。しかし建物も庭木も質素そのものだった。小国とはいえ、長年、財務卿という上位の職に就いてきた男の屋敷としては、あまりにも慎ましかった。
「オットーって、横領で捕まったんですよね」
カッシオが言った。
「ええ」
「一体、何に金を使ったんだろう」
ルカは答えなかった。ただ、扉を見つめていた。
◇
三人が家の中に入ると、小さな居間が広がっていた。
きちんと片付いている。埃一つない。テーブルの上に花瓶があり、枯れかけた野の花が活けてあった。誰かが丁寧に生きていた部屋だった。
「失礼します」
居間を抜け、廊下を進む。
奥の部屋の扉を開けた瞬間——三人の足が止まった。
部屋には一つのベッド。
その傍らに、椅子が一脚。
ベッドに、中年の女性が眠っていた。
◇
ルカがゆっくりと近づいた。
女性の顔の傍らにしゃがみ、耳を近づける。
すー、すーと穏やかな寝息が聞こえた。
「眠っています」
カッシオが部屋を見渡した。棚に薬瓶が並んでいる。棚に収まりきらず、床にも窓台にも置かれていた。ラベルに書かれた薬草の名前は、どれも聞いたことがないものばかりだ。
「高そうな薬が、いっぱいだ」
ルカは女性を見つめていた。
しばらく動かなかった。部屋の時間だけが、ゆっくりと流れている。
ふと——傍らの椅子に目が止まった。
座面が、すり減っている。
何年もの重みを受け止めてきた椅子だ。この椅子に座り続けた人間がいる。毎日、ここに来て、眠る人を見つめて、また次の紐も来たのだろう。
ルカは静かに、その椅子に腰を下ろした。
「これは——」
小さな声だった。
「僕のと、逆の魔法ですよ」
「老化魔法の逆?」
カッシオが聞いた。
「若返りの魔法かい?」
「そんな便利なものがあるのか」
役人が身を乗り出した。
「正確には違います」
ルカが女性から目を離さずに言った。
「若返らせているんじゃない。この人の持つ時間を——薄めているんです」
「薄める?」
「人は生まれた時から、決まった量の時間を持っている。老いていくのは、その時間が濃くなっていくようなものです」
ルカの声は静かだった。自分の魔法の裏側を語るように。
「これをかけた魔法使いは、その人の時間を引き受ける分だけ、自分の時間を凝縮させてしまう。だから——大金をもらっても、割に合わない」
「自分の寿命が縮まるんだろう。そりゃそうだ」
カッシオがうんざりした顔で答える。
「そうか!」
役人が手を打った。
「それで——横領しなければならなかったのか」
ルカは答えなかった。
ただ眠る女性の顔を見ていた。
「でも」
少しの間があった。
「もう何度も薄めてきたのでしょう。限界です。もうこれ以上は——」
ルカが目を閉じた。
「可哀想ですが…」
「この女性の寿命はもう尽きているのです」
部屋が静かになった。
窓の外で風が吹き、枯れかけた庭木がかすかに揺れた。
すー、すーと、穏やかな寝息だけが続いている。




