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第53話 逃亡者


 エアル王宮の閣議室には、重厚な木製のテーブルに、いつもの顔ぶれが揃っていた。しかし今日は、誰も書類を広げていなかった。


 ブラント軍務卿が立って報告している。いつものカイゼル髭、いつもの直立不動。だが声だけが、いつもより一段低かった。


「我が軍の監視要員の報告と、街道沿いの村人からの通報を総合的に判断いたしました」


 一呼吸。


「聖シュタイン帝国ヴァルトエック遠征部隊——騎士二百騎、総勢約千名は、実質的に、全滅しました」


 閣議室が、静まり返った。


 全滅。


 言葉がしばらく空気の中に浮かんでいた。


「全滅とは——」


「騎士二百騎と言えば、聖シュタイン全騎士団の四割だぞ」


「一体、何があったというのだ」


 閣僚たちが口々に声を上げた。ブラントは微動だにしない。


 ナディールが静かに聞いた。


「コンラート殿は?」


「消息不明です」


 また、沈黙が続いた。エドゥアルト王が白い髭に手を当て、難しい顔で目を閉じた。


「聖シュタインは——」


 ナディールが考えるように言った。声に感情がない。情報を整理している。


「報復に出るか。あるいは、街道整備を強硬に迫るか」


「自由都市もどう出るか分かりません」ブラントが答えた。「勝ちに乗ってヴァルトエックを直接押さえにかかる可能性もある」


「スパイだったオットーを逮捕した今は、エアルにも多方面から圧力をかけてくることが考えられる」


 ナディールは閣僚たちを見渡した。


「いずれにせよ——エアルは中立を貫く。各位、肝に銘じてほしい。聖シュタインに加担すれば自由都市の敵となり、自由都市に加担すれば聖シュタインの敵となる。どちらの顔も潰してはならない」


 誰も頷かなかった。しかし、誰も反論もしなかった。


 閣議が終わった。


 ◇


 廊下。退出するナディールの後を、足音が追ってきた。


 ブラントがナディールの一歩手前で立ち止まり、周囲に目をやる。人の気配がないことを確かめてから、小さな声で言った。


「三人ほど、保護しています」


 それだけだった。


 ナディールはわずかに足を止め、そして頷いた。


「そうか」


「街道中、リミニのスパイだらけです。ルートヴィヒ様は接触をお避けください」


「ああ」


 ナディールはまっすぐ前を向いたまま答えた。


「私の友人たちに任せよう」


 ◇


 カラカス地方。


 朝の光の中に、大きな男の後ろ姿が浮かび上がっていた。


 クラウス・ホーファー。日焼けした首の後ろが、久しぶりに会う男を出迎えるために振り向いた。手には鍬。足元には大麦の芽がすくすくと伸びている。


「久しぶりだな」


 アルヴィンが言った。


「面倒をかけるな」


「何を言うんです」


 クラウスが大きな手を振った。


「あなたのためなら何でもします。俺は一人暮らしですし、人目にもつかない。ちょうど良い」


 笑顔だった。それだけで分かる。あの農地返還から、この男の人生は変わった。借金の鎖から解き放たれ、自分の畑で、自分のために働いている。


 アルヴィンとリーナが馬小屋の扉を引いた。


 ◇


 薄暗い馬小屋の中に、人影があった。


 横たわっている女。座っている男が二人。隅に鎧甲冑が脱ぎ捨てられ、わらの上に置かれている。


「コンラート様」


 リーナが小屋に一歩踏み込んだ。


 顔を上げた男が、アルヴィンとリーナを見た。鉄剣聖コンラート・フォン・アイゼン——グラリキスの花見で宰相と肩を並べて歩いていた男が、今は馬小屋の藁の上に座っている。


「ああ。街道視察の時にお会いした…」


「宰相から連絡を受けて来た」


 アルヴィンが言った。


「リミニのスパイが多くて、宰相自身は動けない」


「そうでしょうね」


 コンラートが静かに答えた。疲れた目だったが、落ち着いていた。


「あくまでエアルは中立だ。表向きは、俺たちはここにいない」


 その言葉に、隣に座っていた若い騎士が顔を上げた。


「まだそんな綺麗ごとを」


 ヴォルフ・シュトラウスだ。まだ二十歳そこそこの顔に、怒りの色がある。


「そもそも、エアルが補給してくれれば——我々は負けなかった」


「負けた理由を人に押しつけるのが、騎士道かい」


 アルヴィンがさらりと返した。


 ヴォルフが立ち上がった。


「この——」


「それだよ」


 アルヴィンの声は変わらなかった。怒っていない。ただ、事実を述べる。


「リミニはシュタインを怒らせるために、わざと守備兵を挑発した。カール皇帝がそれに乗ってしまった。怒りにまかせてお前たちを助けに来た俺たちを脅してどうする。この青二才」


 ヴォルフが拳を握りしめた。しかし、言葉が出なかった。


「この人の言う通りだ」


 コンラートが静かにいさめた。


「私は一刻も早く、ハインリヒ皇太子の元に戻らなければならない」


「それはこちらも同じ。匿っているのがバレる前にシュタインへ送り届ける必要がある」


 その時——。


「この人、体が冷えきっている。氷みたい!」


 リーナの声が、場の空気を変えた。


 三人が振り向いた。リーナが横たわる女性の傍らにしゃがみ込み、その頬にそっと手を当てていた。


 マルタ・フォン・ヴィンター。


 虚ろな目で天井を見つめている。毛布が何枚も重ねてかかっているのに、唇が白い。


「毛布を掛けても温かくならないのです」


 コンラートが言った。声に疲労がある。何日もそのことを考え続けてきた声だ。


「食べ物も、口にしてくれない」


「戦場を離脱するときに、炎の魔法をたくさん使って、それで…」


 ヴォルフが補足した。さっきの怒りは消え去っていた。


「この娘も魔法使いか?」


 アルヴィンがリーナを見た。


「炎の魔法は——使うと体温を奪われます」


 リーナが低い声で言った。


「私と違って、この人の魔法は段違いに強い。でもこんな小さな体で、限界を超えて使い続けたら——」


 続きは言わなくても分かった。


「この娘はこちらで預かるしかないな」


 アルヴィンがクラウスを振り返った。


「いつリミニのスパイが来るか分からない。鎧はここの地面に埋めてくれ」


「分かりました」


 クラウスが頷いた。コンラートとヴォルフが複雑な顔を見合わせた。騎士の鎧を馬小屋の床に埋めなくてはならない。それが今の現実だった。


「ブラント軍務卿から、秘密の山岳ルートを預かっている」


 アルヴィンが懐から地図を取り出した。コンラートに手渡す。


 コンラートが広げた。目が動く。指で線を辿っていく。


「これは——すごい」


 呟いた。


「だが、ここまでどうやって辿り着く。リミニの監視網をくぐって…」


「実は——」


 アルヴィンがいたずらっぽい顔をした。


「ウィスキーの輸出が好調でね。荷役係が足りなくて困っているんだ」

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