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第52話 敗走


 ヴォルフが野営地を歩いていると、騒動が起きていた。


 配給係に兵士たちが詰め寄っている。


「この間の馬からもう二日だ。このままじゃ飢え死んじまう」


「まだ少しはあるんだろ。食べ物を残して死んだら意味がないだろうが」


「命令がなければ配れないんだ。分かるだろう」


「分からないな。なんでお前だけ平気なんだ。自分だけ食べてるだろう」


「そんなことはない」


「いや、そうだ。皆死にかけてるのにピンピンしやがって——ふざけるな」


 兵士たちが配給係に殴りかかった。


「おい、やめろ!」


 ヴォルフが叫んだ。しかし——狂った目の男たちは止まらなかった。


 ◇


 報告を聞くコンラートの表情は沈んでた。


「配給係が重傷。最後の食料は略奪されたか」


「襲った兵士たちは罰を恐れて逃げました」


 コンラートは目を閉じた。


「ここまでだな」


 ゲオルクが悔しそうに拳を握った。


「ええ。出直しましょう」


 ◇


 うなだれて進む聖シュタイン軍。旗手も疲れ果て、旗が斜めに傾いている。


 ほとんど戦闘らしい戦闘もせずに——来た道を戻る。百二十ヴェークの道が、今度は帰路として目の前に横たわっていた。


 ヴォルフは馬に乗らず、手綱を引いて歩いていた。その馬が痩せこけている。


 マルタとディートリヒが並んで歩いている。もう——優しい目のロッテはいなかった。


 ◇


 野営地。誰も動けなかった。座り込んだまま、目が虚ろになっている。


 そこに——兵士が走ってきた。


「村人が食料を売ってくれました。もう帰るなら最後の蓄えを渡すと」


 コンラートとゲオルクの顔に、久しぶりに光が差した。


 ◇


 活気づく野営地。火が起こされ、煮炊きが始まった。温かいスープの匂いが立ちこめると、兵士たちの目に生気が戻っていく。


 焚火を囲んで、ディートリヒとマルタがスープを飲んでいた。


「ありがたい。体が温まる」


「本当……」


 マルタは椀を両手で包みながら、ぽつりと言った。


「炎の魔法って——使うと体が冷えるんです。だから体を温められないと、使い続けられない」


「魔法ってなかなか難しいもんだな」


「何かを犠牲にして成り立つのが——魔法です」


 焚火の炎を見つめるマルタの目に、暖かさと悲しさが同時に宿っていた。


 ◇


 夜。


 ヴォルフが飛び起きた。胸を押さえる。内臓が熱い。心臓が暴れている。足に力が入らない。


 下を向いた瞬間——激しく吐いた。


 周囲で、同じことが起きていた。あちこちで兵士がのたうち回っている。うめき声。嘔吐の音。暗闇の中で、地獄が広がっていた。


 ディートリヒも吐いていた。大きな体を折り曲げ、地面に手をついている。隣で真っ青になっているマルタの背をさすりながら。


「毒だ。吐かないと死ぬぞ」


「ごめんよ」


 ディートリヒがマルタの口に指を入れた。マルタが嗚咽しながら吐き始める。


 あの村人の食料。あの温かいスープ。全てに——毒が仕込まれていた。


 ◇


 コンラートとゲオルクもテントを飛び出し、道端で吐いた。顔を上げると——兵士たちの惨状が目に飛び込んできた。


「毒か。どこまでも——卑劣な」


 その時——闇の向こうから、鬨の声が上がった。


 これまで姿を見せなかった自由都市の傭兵たちが、四方から聖シュタイン軍に群がっていた。


 各地で乱戦が始まった。毒に冒され、抵抗もできないまま斬られる者。本来なら練度で圧倒するはずの帝国兵が、飢えと毒で弱り切り、もはや戦える状態ではなかった。


 ◇


 まだ吐き続けるマルタを庇って、ディートリヒが大剣を振るった。


 一人の傭兵が叩き潰された。しかし——ディートリヒの足がふらついている。二人が正面から切りかかる。大剣で薙ぎ払う。しかしその後ろから、別の傭兵たちが忍び寄っていた。


 マルタがようやく顔を上げた時——傭兵たちが一斉に切りかかっていた。ディートリヒの大きな体に、鎧の隙間から剣を突き刺していく。背中に。脇腹に。膝の裏に。


 口から血を吐きながら——ディートリヒは最後の力で一人を殴りつぶした。


 そして——崩れ落ちた。


 大きな体が、ゆっくりと地面に倒れた。


「ディートリヒ——さん」


 マルタの声が、震えた。


 動かなかった。あの大きな背中が。ロッテのたてがみを撫でていた手が。「大丈夫」と言ってくれた声が。もう——どこにもなかった。


 傭兵が二人、マルタに近づいてきた。


「軍隊に若い女か」


「どうしたお嬢ちゃん、仲良くしようや」


 にやにやと顔を近づける。マルタは——両手を伸ばした。それぞれの顔に、手を当てた。


 次の瞬間。


 傭兵たちの顔が黒く焼け焦げた。悲鳴を上げて転げ回る。マルタ自身も——焼けた肉が手に張り付く感触に、叫び声を上げながら手を引き剥がした。


 人の顔を——焼いた。手のひらに、その感触が残っている。


「ディートリヒさん——」


 マルタは動かない大きな体にすがりついた。肩が震えている。声が出ない。


 ヴォルフが痩せた馬を二頭引いて走ってきた。マルタを見つけると、手を引っ張った。


「来い、逃げるぞ」


 しかし——前方で激しい切り合いが始まっていた。


 テントの前で、コンラートとゲオルクが群がる傭兵と戦っていた。飢えと毒に蝕まれ、嘔吐物にまみれていても——鉄剣聖は敵を圧倒していた。次々に現れる傭兵を、ゲオルクとの連携で倒していく。


 しかし。その背後から——別の傭兵の一団が迫っていた。


「危ない、コンラート隊長——!」


 ヴォルフが叫んだ。マルタが目を見開いた。背後から忍び寄る傭兵たち。ディートリヒに仕掛けたのと——同じ戦術。


 マルタが腕を差し出した。


 大きな火球が夜闇を裂き、傭兵たちを弾き飛ばした。炎が闇を照らし、倒れた傭兵たちの影が地面に伸びた。


 コンラートが振り向いた。


「助かった!」


 短く言って、前方の傭兵を斬り伏せていく。


 マルタがぶるぶると震えながら座り込んだ。顔が真っ青になっている。体温を奪われすぎている。炎の魔法の代償。冷たい。何もかもが冷たい。


 ヴォルフが駆け寄った。


「おい、大丈夫か」


 覗き込む。マルタが震えていて声を出せないのが分かると、抱え上げて馬に乗せた。


 ゲオルクが戦いながら、ヴォルフの連れている二頭の馬を見た。


「隊長——ここは私が。あの馬で逃げてください」


「馬鹿な」


「ここで死んでも意味はない。ハインリヒ皇太子に——リミニの戦い方を伝えるのです」


「しかし——」


「鉄剣聖コンラートを失っては、軍がもちません。早く」


 ヴォルフが近寄り、一頭の手綱をコンラートに渡した。


「急ぎましょう」


 コンラートは——ゲオルクを見た。


 ゲオルクが頷いた。静かな目だった。覚悟を決めた軍人の目。


「ゲオルク——必ず、この仇は打つ」


 それだけ言って——馬に跨った。


 コンラートとヴォルフが馬を駆けた。闇の中を、二頭の馬が走る。背後では夜闇の中で乱戦が続いていた。


 騎馬二百騎。総勢千名に届く聖シュタイン帝国の正規派遣部隊は——この一夜にして壊滅した。


 ヴォルフの背に、マルタの嗚咽が伝わってきた。


 しかし今は——慰めることもできない。


 ここから離れなければ。一歩でも遠くへ。一秒でも——早く。

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