第51話 戦場のリアル
街道が終わった。
その先は——悪路だ。
石が転がり、轍が深く刻まれ、泥が馬の蹄を呑み込む。荷馬車が凹凸に嵌まり、従者たちが何人も集まって押し上げる。馬が脚を取られ、いななく。
魔法使いたちは馬の背で激しく揺られ、青い顔をしていた。マルタもロッテの首にしがみつきながら、たてがみを撫でて気を紛らわせている。
ディートリヒがロッテの手綱を引きながら呟いた。
「ゆっくりで良いぞ。足を痛めてくれるなよ」
人も馬も、思うように進めなかった。
◇
斥候が駆け戻ってきた。
「七ヴェーク先に敵集団です」
ゲオルクが身を乗り出した。
「数は」
「約三百。煙が多数上がっています。騎馬はほとんどいません」
コンラートが目を細めた。
「叩くには良い数だが——逃げるだろうな。道は?」
「この先は比較的平坦です」
「初戦だ。景気づけにやってみましょう」
ゲオルクが言った。コンラートが頷く。
「騎士は乗馬して集合!」
伝令が走っていく。それを聞いて、ヴォルフが勇んで前方へ駆けた。
ディートリヒがマルタをそっと馬から下ろした。
「ごめんよ。出撃だ」
ロッテに跨がろうとするディートリヒに、マルタが声をかけた。
「ディートリヒさん。ご武運を」
「ああ、すぐに戻るさ」
集結した騎士たちに、コンラートが短く告げた。
「この先七ヴェークに敵が三百。ほとんどが歩兵だ。騎馬だけなら一時間。これを急襲して壊滅させる。速度が武器だ。遅れるな」
一斉に走り出す騎馬隊。蹄の音が大地を揺らす。送り出す従者や弓兵が歓声を上げた。
マルタは騎馬隊の土煙を見送りながら——ふと、視線を横にずらした。少し離れた丘の上から、青い煙が上がっている。
狼煙だろうか。首を傾げた。
◇
騎馬隊が去った後、残された一行はゆっくりと前進を再開した。
突然——大岩の上から、火矢が降ってきた。
矢には油の入った革袋が括りつけられていた。一本が従者の胸に刺さった瞬間、油が弾け、炎が走った。従者は燃えながら転がっていく。
マルタが唖然とした。目の前で——人が燃えている。
「敵襲、敵襲ーっ!」
兵士の叫び声で我に返った。岩の上には数十人の男たちが火矢を番えている。次々と矢が降り注ぎ、地面に刺さった矢からも油が飛び散って燃え広がる。荷馬車の幌に火が移った。
弓兵が散発的に応射するが、高所から撃ち下ろす敵の方が速い。
年配の魔法使いが叫んだ。
「一斉に攻撃するぞ!」
マルタたちが頷いた。十名全員が腕を伸ばし、岩の上を狙う。
しばらくは何も起きなかった。岩の上で火矢を番え続ける男たち。しかし——突然、矢に括りつけた油の袋が内側から弾けるように燃え始めた。
「熱い!」
「うわぁぁ!」
岩の上から悲鳴が上がる。のたうち回り、岩から落下する男たち。
「よし、やったぞ!」
年配の魔法使いが腕を上げた。マルタたちが歓声を上げる。初めての——勝利。
しかし。
敵が落下しながら放った矢の一本が——年配の魔法使いの頭を貫いた。
腕を上げたまま、体が傾き、崩れ落ちた。
マルタが目を見開いた。さっきまで声を出していた人が——もう動かない。
槍兵が岩から落ちた敵を仕留めていく。戦いは終わった。勝利だ。
ただ——荷馬車はあらかた火に包まれ、もはや消火のしようもなかった。食料が、テントが、資材の全てが燃えていた。
◇
七ヴェーク先。
騎士団が駆けに駆けてたどり着いた場所には——誰もいなかった。
真っ先に駆けてきたヴォルフが馬上から辺りを見渡した。
「誰もいない——」
「ほとんどが歩兵のはずだ。足跡を探せ」
コンラートが指示を出した。騎士たちが馬を降り、地面を見る。ディートリヒが足跡を目で追った。
焚火の跡がいくつもある。しかし——足跡が異様に少ない。
「足跡が少なすぎる」
ゲオルクが顔を上げた。
「一時間そこそこで影も形もないとなると——偽装ですね。少数が焚火を多数焚いて、大軍に見せかけた」
コンラートが唇を噛みしめた。
「罠か」
あの青い煙。騎馬隊が分離したことを知らせる合図だったのだ。騎馬隊を引き離してから——残された本隊を叩く。
「後続が心配だ。戻るぞ」
騎士団は今来た道を引き返した。
◇
戻ると——一行は無事だった。弓兵、槍兵、従者、魔法使いたちが手を振っている。
「無事だったか」
コンラートが安堵の息を吐いた。しかし——ゲオルクが目くばせした。何かがおかしい。二人が馬を走らせて合流する。
「敵襲は?」
「ありました。大岩の上に待ち伏せが数十名。魔法使いの攻撃で撃退できました」
「犠牲は」
「兵士が十名ほど。それに——魔法使いが一名」
コンラートが静かに目を閉じた。魔法部隊は、初の実戦で指揮官を失ったのだ。
「それより問題は——ほとんどの荷車を焼かれました」
「なんだって」
ゲオルクが振り向いた。荷車の列は無く、辛うじて黒焦げの一両があるだけだ。
「敵の目的は——食料か」
コンラートは黙って、焼け焦げた荷車を見つめた。
◇
アイゼンガルト。
百二十ヴェークの道を踏破し、聖シュタインの騎馬隊はついに飛び地に到着した。
「着いたーっ」
ヴォルフが馬上で大きく伸びをした。しかし——誰も笑わなかった。皆の顔色がさえない。食料の備蓄は底を突きかけていた。
コンラートが兵士たちに指示を出した。
「食料の調達をしてこい。略奪は厳に禁ずる。きちんと対価を払え」
兵士たちが町へ向かっていった。
テントの中で報告を待つコンラート。しばらくして——兵士が戻ってきた。
「食料が買えない?」
「ええ、村人は友好的なのですが——数日前に、商人たちがあらゆる食料を相場の二倍で買い取ったとか」
ゲオルクの顔が強張った。
「大きな荷車を引き連れて、買い漁ったそうです。この辺りの住民は、自分たちが食べる最低限以外、全て金に換えてしまっています」
「街道沿いにスパイ網が張り巡らされている——というわけですな。食料の焼き討ち、買い占め。意図的な作戦でしょう」
「これが——リミニの手口か」
コンラートの声が低かった。剣では斬れない敵。金という武器。
◇
荷車が焼けたために、ほとんどのテントも失われていた。
兵士たちは野営をするしかない。焚火の周りで、疲れた足を癒している。配給係が歩き回り、食料を配る。
小さな堅パンを受け取ったヴォルフが悪態をついた。
「これっぽっちか」
焚火の近くで、ディートリヒとマルタが座っていた。コップの水に堅パンを浸し、柔らかくなるのを待っている。
「これからどうなるんでしょう」
マルタが呟いた。
「当然、補給がある。それまでの辛抱だな」
ディートリヒが答えた。静かな声だった。マルタは堅パンを見つめながら、ぽつりと話し始めた。
「私の家は軍人の家系で——父もそうでした。でも、子供は私と妹しかいなくて」
焚火の炎が、マルタの横顔を照らしている。
「アルカディアで攻撃魔法を身につけた時は——嬉しくて」
ディートリヒが優しい目でマルタを見た。
「お父上は喜んだろう」
「ええ。私を——家の誇りだと」
頷くディートリヒ。
「でも——魔法で敵は倒しましたけど、隊長は矢の一本で死んでしまった」
声が小さくなった。さっきまで指揮を執っていた人が、一瞬で消えた。魔法も、訓練も、覚悟も——矢の一本で消え去ってしまう。
ディートリヒがマルタの背を、ぽん、と叩いた。大きな手だった。
「大丈夫。俺の後ろに隠れて魔法をかけていればいい。お前みたいな小さいのは、敵も気づかないさ」
マルタが笑った。
「そうですね」
焚火が爆ぜた。小さな火の粉が夜空に舞い上がり、消えていった。
◇
騎士たちは四方八方に散って偵察を繰り返した。しかし、敵はなかなか姿を見せなかった。
ひっそりと息をひそめて——眺めていたのだ。聖シュタインの精鋭たちが飢えに苦しむのを。
訪れる村、訪れる街、全ての食料は買い占められていた。更に——来るはずの補給が、一向に現れなかった。
「これだけ補給が来ないということは——」
「また襲撃を受けているな」
「スパイだらけですな。補給部隊だけを襲撃し、我々が行けば逃げる」
ゲオルクが空を見上げた。遠くの丘に、青い煙が上がっている。
「時々見かけるあの青い煙——おそらくあれが合図です」
コンラートは黙り込んだ。
見えない敵。金で動く網。剣を抜く相手がどこにもいない戦争。
◇
雨が降り始めた。
野営地で全員がうなだれている。もう二日、何も食べていなかった。冷たい雨が体温を容赦なく奪っていく。ロッテが肩を震わせていた。
伝令が走り回り、騎士たちが集められた。ヴォルフもディートリヒも、重い足を引きずって集まった。
ゲオルクが説明した。それを聞いた騎士たちが、一斉に騒ぎ始めた。
「村人から奪えば良い」
「綺麗ごとはもうたくさんだ」
コンラートが声を上げた。
「住民を敵に回せば、この飛び地は易々とリミニのものになるぞ。我々は何のために来た。アイゼンガルトを差し出すためか」
静まり返った。
「他に方法があるなら——言え」
誰も答えなかった。
ゲオルクが用意したくじを差し出した。騎士たちが一人ずつ引いていく。紐の先に色が塗られている。外れた者は胸を撫で下ろし——当たった者は拳を握りしめた。怒る者。泣き始める者。
ディートリヒがくじを引いた。
紐の先の色を見て——その顔が、歪んだ。
◇
繋がれている馬のところへ、ディートリヒが歩いていった。
ロッテが顔を上げた。いつもの穏やかな目で、主人を見ている。
「ごめんな」
ディートリヒがたてがみを撫でた。ロッテが首を傾げるように、ディートリヒの手に鼻先を寄せた。
「でもお前にやる食料も——無いんだ」
たてがみを撫でる手が、止まった。
「本当に——ごめん」
ゆっくりと大剣を抜いた。
目をつむった。
振り下ろした。
◇
あちこちで火が焚かれ、馬肉が焼かれ、また煮込まれている。飢えた兵士たちが鍋に群がった。手を差し出し、墨で印をつけてもらうと椀が渡される。
ディートリヒがマルタの方を指さして言った。
「あの魔法使いの分も頼む」
雨はやんだが、びしょ濡れのマルタは木の下で震えていた。ディートリヒが二つの椀を持って歩いてきた。
「食べなさい」
椀を差し出す。温かい湯気が立ち上っている。マルタが顔を上げた。
「補給が来たんですか?」
「馬をつぶした」
マルタの顔が凍った。
「そんな——ロッテを?」
「食べてやってくれ。それでなければ浮かばれない」
ディートリヒはそう言って、座り込み、食べ始めた。黙って。一口ずつ。
マルタは椀を見つめていた。あの温かい背中。たてがみの手触り。穏やかな目。
「生きて——ご両親のところに帰らなきゃ」
ディートリヒの声が聞こえた。
マルタが渋々、椀を持った。震える手で、一口、汁を飲んだ。
温かかった。
体の奥に、生命力が戻ってくる。胃が、体が、生きようとしている。
泣きながら——マルタは食べ始めた。




