第50話 出陣式
聖シュタイン帝国の王宮。
玉座の間に、カール皇帝の声が響いた。
「鉄剣聖コンラート・フォン・アイゼン」
齢七十の老皇帝の目に、炎がちらついている。穏やかな宴席で見せた顔はどこにもなかった。
「我が騎士団二百騎と魔法部隊十名を率いて、アイゼンガルトに進出せよ」
コンラートは片膝をつき、頭を垂れた。
「ははっ」
「我が兵に手をかけた自由都市に——聖シュタインの恐ろしさを思い知らせてやれ」
皇帝の声は静かだった。しかし——静かであるほどに、怒りは深い。
◇
廊下。出発の準備を急ぐコンラートに、ハインリヒ皇太子が声をかけた。
「街道が完成していない中で無理を言う。あの悪路に騎兵とは——」
「街道ができるまで何年も待つわけには参りません。軍人は命じられれば従うまで。お気遣いなく」
コンラートの声は淡々としていた。しかしハインリヒは知っている。この男が淡々としている時ほど、内側で何かを噛みしめている。
「国境で死者が出ている。放置すれば帝国の威信が揺らぐ。よろしく頼む」
「お任せください」
コンラートが会釈して去っていく。その背中を、ハインリヒは黙って見送った。
◇
城門前の広場。
続々と騎士たちが集結していた。甲冑の金属が朝日を弾き、馬のいななきが空気を震わせる。副官のゲオルク・ヘッセが駆け寄ってきた。三十代後半、堅実な顔つきの男だ。
「招集した騎士たちが到着しました」
「よし。ゲオルク、行こう」
二人は騎士たちの間を進んだ。コンラートは一人一人に声をかけていく。名前を呼び、肩を叩き、目を合わせる。どの騎士も、鉄剣聖に声をかけられると背筋が伸びた。
ひと際大きな騎士がいた。
周囲の騎士より頭一つ抜けている。肩幅は城門の半分ほどもあり、纏う甲冑も特注だった。
「来てくれたかディートリヒ。頼りにしているぞ」
コンラートが大きな甲冑を拳で叩いた。ゴン、と鈍い音がする。
ディートリヒ・フォン・ベーレンが畏まった。
「コンラート様の指揮では出る幕もありませんが——弾除け程度には働きます」
「でかい弾除けだ」
ゲオルクが言うと、ディートリヒが口の端を上げた。
「それだけが自慢で」
その横で、若い騎士が目を輝かせてコンラートを見つめていた。二十歳そこそこだろう。新品の甲冑が陽光に眩しく光っている。
「名前は?」
ゲオルクが聞いた。
「ヴォルフ・シュトラウスです」
「戦場は初めてか?」
コンラートが問う。
「はい。鉄剣聖の軍団に加われて光栄であります」
声が弾んでいる。コンラートは少し間を置いてから言った。
「訓練の成果を見せろ」
そして——もう一つ。
「逃げ回ってでも、生きて帰れよ」
「粉骨砕身働きます」
コンラートがその肩を叩いた。若い甲冑に、鉄剣聖の手の重みが伝わった。
◇
広場の隅で、魔法部隊も出発の準備を進めていた。
騎士たちと比べると、明らかに体が小さい。甲冑ではなくマントを纏い、剣ではなく杖を手にしている。年配の魔法使いが声を上げた。
「聖シュタイン魔法部隊、初の実戦参加だ。手柄を立てるぞ」
「はい」
一斉に答える魔法使いたち。その中に——若い女性がいた。
細い腕、細い足。軍隊向きの体ではない。だが目にはやる気が満ちていた。
マルタ・フォン・ヴィンター。聖シュタイン帝国の小貴族ヴィンター家の一人娘だ。
父親は帝国軍の軍人だったが、男の子には恵まれなかった。アルカディアに留学し、炎の魔法を身につけたマルタが入隊を志願した時——父が見せた喜びを、マルタは忘れられない。
「ヴィンター家の誇りだ」
そう何度も言われた。
この戦いで——本当の誇りになる。心の中で、そう決めていた。
◇
城門前の広場。勢揃いした騎馬隊と魔法使いたちを見下ろす一段高いところから、コンラートが声を張った。
「諸君——自由都市リミニの傭兵たちが、山岳部国境で我が兵を叩き殺した。これを見過ごせば聖シュタインの威光は地に落ちる。それでも良いか」
「駄目だ!」
「叩きのめせ!」
兵士たちの声が広場に響いた。
「傭兵たちに、騎馬隊の突撃がどれほど恐ろしいか——思い知らせよう」
「一撃だ!」
「魔法部隊の炎を叩きつけよう」
わっ、と歓声が上がった。マルタも拳を握りしめている。
「戦場はエアルを越えて遥かアイゼンガルト。約百二十ヴェークの長い道のりだ。しかし——それを乗り越えれば、我々の勝利は揺るがない」
「あんたについて行くぞ!」
「出発!」
王宮を出発する騎士団。二百騎それぞれに歩兵、弓兵、従者らが従い、総勢は千名に及ぶ。その真ん中に魔法使いたちが守られながら進む。兵士たちの列がどこまでも続いていた。
◇
行軍が始まった。
騎士団は慣れたものだ。鎧を揺らしながら、黙々と歩を進めていく。しかし、体力の劣る魔法使いたちは早くも疲れ切っていた。
「一日何時間歩くんでしょうね」
「まだ国境も越えちゃいない。先が思いやられます」
口々に言う魔法使いたちの中で、マルタが辛そうな顔をしていた。一歩ごとに顔を歪めている。
「お嬢さん、どうした?」
声をかけたのは——ディートリヒだった。巨大な甲冑の上から、見下ろしている。マルタが見上げる。大きい。空が甲冑に隠れて見えない。
「靴擦れしたみたいで」
ディートリヒが馬から降り、マルタの足元を覗き込んだ。薄い軍靴の踵に、赤い染みが滲んでいる。
「ああ、こりゃ駄目だ。もっと厚い靴を履かなきゃ」
そう言うと——ひょいとマルタを持ち上げた。軽々と。片手で。そのまま自分の馬の背に乗せた。
「あ、あの——良いのですか」
「あんたが乗ったって、ロッテはびくともせんよ」
ディートリヒが愛馬の首を撫でた。栗毛の雌馬だ。穏やかな目をしている。
「ありがとう……ロッテ、よろしくね」
マルタがたてがみに触れた。温かかった。ロッテが一つ小さく鼻を鳴らして、ゆっくりと歩き始めた。
◇
エアル国境を越えた。
馬を進めながら、コンラートとゲオルクが並んで話している。
「速度が出ないな。一日で十二ヴェークは進まないと」
「魔法部隊が歩けていません。そもそも遠征を想定した訓練をしていない」
ゲオルクが後方を振り返った。馬の横を喘ぎながら歩く魔法使いたちが見える。
「仕方がない。魔法使いは馬に乗せよう。嫌がる騎士もいるだろうが」
「ですな」
コンラートは前方に目を戻した。エアルの平原が広がっている。あの先に——グラリキス街道がある。
◇
グラリキス街道。
春の花はとうに散り、緑の葉がグラリキスの並木を覆っていた。コンラートは馬上から、その緑のトンネルを眺めた。
あの時は——平和だった。花びらが舞い、酒が注がれ、エリザベート王女が笑っていた。
若い騎士ヴォルフが、隣の騎士と声をひそめて喋っている。
「この街道の視察で、隊長が飲み潰れたって噂は本当なんですかね」
「しっ、余計なこと言うなよ。怒られるぞ」
「ということは本当なんですね」
「相手が悪い。なんでもエアルの王女が底抜けらしい」
「こんなですか」
ヴォルフが両手を広げてみせた。
「華奢な体で笑いながら蒸留酒を何本も干すんだと」
ヴォルフの頭の中で、悪魔のようにケタケタと笑うエリザベート像が浮かんでいる。
コンラートとゲオルクが、兵士たちの笑い声を聞きながら前を見ていた。
「今は良い。街道が切れてからが勝負だな」




