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第49話 嵐の予感


 自由都市リミニ。夜。


 ロレンツォの書斎に、ランプの灯りが小さな光の輪を落としている。窓の外はとうに暗くなっていた。


「夜分失礼いたします」


 扉が静かに開き、マルティーノが入ってきた。


「どうした」


 ロレンツォは書類から目を上げなかった。


「例のエアルの国立銀行ですが——契約の特別条項を盾に、出金を拒んでおります」


 マルティーノが契約書を差し出した。ロレンツォが片眼鏡を上げ、覗き込む。


「あちこちに巧妙に分散されていますが——大口融資は最大九十三日間、引き下ろしができない内容となっています」


 ロレンツォの指が契約書の上を滑った。第四条の但し書き。第十二条の特記事項。別紙の付帯条件。一つ一つは何気ない条文だが、全てを合算すると——九十三日。


「なるほど」


 静かに言った。


「それともう一つ。エアルのオットー財務卿が捕縛されました。横領の罪です」


 ロレンツォの手が止まった。


「このタイミングで——。ということは、奴は泳がされていたな」


「そう考えるのが妥当かと」


「始めから——こちらの手札が見えていた」


 長い溜息をついた。オットーを通じて流した情報。グラリキス街道の進捗。製紙工場の計画。銀行の経営状態。全てが——相手の手の中にあったことになる。


「あの自信は——本物だったわけだ」


 グラリキス街道では、アリアドネに見透かされ、アルヴィンに底知れなさを感じた。これまでただの若造と侮っていた彼らは——本当に金で買えるのか。


「それと——」


 マルティーノがもう一つ、報告を加えた。


「山岳部の国境守備隊が衝突したようです」


 ロレンツォは目を閉じた。


「始まったか」


 ◇


 エアル王宮。ナディールの執務室。


 以前とは違い、部屋には少しずつ秩序が生まれていた。書類は棚に分類され、机の上にはその日の案件だけが並んでいる。壁には地図が貼られ、グラリキス街道が赤い線で描かれていた。


 ナディールは椅子に座り、正面の来客を見ていた。


 アルヴィンが来ている。正装だった。深い藍色の上着に、磨かれた靴。グラリキス街道で自由都市の十人委員会を翻弄した——あの時の実業家の姿だ。


「今後、王宮に来る時はその恰好で頼むぞ。グラリキス街道で皆が見ている。粗末な服で来たら怪しまれるからな」


「何だか窮屈だな」


 アルヴィンが首元を緩めようとして、ナディールに睨まれた。


「しかし——お前は贅沢に興味がないよな」


「前の世界でさんざん楽しんだからな」


「前の世界で——例えば、どんな美食を楽しんだ」


 ナディールがゴールデンフィールドのグラスを傾けながら聞いた。ランプの灯りが琥珀色の液面を揺らしている。


「そうだな——無理やり餌を食べさせて太らせた鳥の肝臓とか、魚の卵の塩漬けとか、豚に探させたキノコとか」


 ナディールが顔をしかめた。


「そんなものばかり食べていたら——病気になりそうだ」


「なるよ。それで皆、走って、薬を飲んで帳尻を合わせる」


「……」


 ナディールがうんざりした顔をした。この男が前の世界の話をする時、いつも皮肉が混ざる。


「結局——蒸留所にはアルカーナムの蓄えはなかったか」


 ナディールが話題を変えた。声が静かになっている。


「ああ。蒸留技術を確立していたにも関わらず、在庫がない」


「木こりが言っていた。十年前のあの夜——天井を突き破る光が上がったと」


「そこでアルカーナムが消えたのだろう。魔法の暴走なのか——」


「いや」


 ナディールが遮った。グラスを机に置き、ランプの灯りを見つめた。


「恐らく——父は、死期を察したんだと思う」


 アルヴィンが黙った。


「だから——全部使った?」


「アリアドネ議長に言われた。父フリードリヒ王は——召喚魔法を持っていた」


「召喚魔法?」


「小さな精霊を呼ぶ、可愛らしい魔法だったそうだ」


 ナディールの声が穏やかになった。父を語る時だけ、宰相の仮面が少し外れる。


「だが——アルカーナムを使えば」


「大きな召喚ができる」


 アルヴィンが引き取った。


「もう一つ。セバスティアヌス枢機卿からヴェルダの話を聞いた。時空を旅する生き物なのだと。我々が見るのはヴェルダの影に過ぎないと」


「見えたようで見えない。それは——分かるような気がするな」


 カラカスの原野で、緑がかった巨大な影を見た記憶が蘇る。


 ナディールが——ゆっくりと、言葉を紡いだ。


「アルカーナムで増幅された召喚魔法が——ヴェルダを時空に飛ばし」


 アルヴィンの顔を見た。


「お前が——この世界に来た」


 ランプの炎が揺れた。二人の間に、沈黙が落ちた。


 アルヴィンの目が変わった。深い目。阿久津蓮の目。


「……そうかもな」


 低い声だった。


「でも——なぜ俺なんだ」


 ナディールは答えられなかった。


「大きな召喚魔法なら——強い魔物でも呼べばよいじゃないか。よりによって——詐欺師なんかを」


 ナディールが——はっとした顔をした。何かが繋がった。


「為政者には、限られたアルカーナムを——何に使うかが委ねられる」


 静かに語り始めた。


「神になってはならない。悪魔になってもならない」


「人として——最善の道を」


 アルヴィンが首を傾げた。


「なんだい、それ」


「父のノートにあった——最後の言葉だ」


 ナディールがグラスを見つめた。琥珀色の中にランプの灯りが沈んでいる。


「そして——間に合わなかった、と」


 二人とも、しばらく黙っていた。ランプの灯りだけが静かに揺れている。


 ◇


 ドンドンドン。


 突然、扉が叩かれた。


 二人の間の静かな空気が断ち切られた。ナディールが立ち上がり、扉を開ける。


 ブラント軍務卿が立っていた。カイゼル髭の下の口元がきつく結ばれている。額に汗が滲んでいた。


「どうした」


 軍務卿の目が——ナディールの肩越しに執務室を見た。アルヴィンがいる。


「彼は私の経済顧問だ。気にするな」


 ブラントは一瞬だけ迷い、それから頷いた。


「国境付近で——リミニと聖シュタインの間に武力衝突が発生。聖シュタイン側に死者が出た模様です」


 ナディールの顔が曇った。


「カール皇帝は」


「大変なお怒りで——帝国は騎馬隊を派遣するようです」


 アルヴィンが口を開いた。声が変わっていた。


「ああ——リミニは帝国を怒らせたいんだ。怒った帝国が未完成の街道を通って軍を送れば——補給が途切れる」


 ナディールを見た。


「これは——毒蜘蛛たちの罠だぞ」


 ブラントの目が見開かれた。ナディールは窓の外を見た。暗い夜空に星が瞬いている。あの星の下で——コンラートが馬に乗っている。バルコニーで一緒に星を見上げた男。飲み比べに付き合った男。


 その男が今、罠に向かって進もうとしている。


 ランプの灯りが揺れた。風が窓の隙間から入り込んでいた。


 嵐が——近づいている。

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