第48話 安上がりな戦争
その頃。自由都市リミニでも、十人委員会の会議が開かれていた。
蹄鉄型のテーブルを囲む十の椅子。天井にはフレスコ画。壁には歴代議長の肖像。窓の外に運河が見える。リミニの富を象徴する部屋だ。
主戦論者のアゴスティーノが熱弁をふるっていた。白い顎髭を震わせ、身を乗り出している。
「先日視察したエアルのグラリキス街道ですが——なかなか見事な出来でした。あれなら、聖シュタインの騎馬隊がすぐに進出できる」
バルトロメオが発言した。痩せた体を椅子の背にもたせかけ、数字を弾くような目をしている。
「問題は、わが国までの残った区間がいつ整備されるかですが。最近、エアルは産業の振興が著しい」
「確かに」
フィリッポが頷いた。
「銀行設立に続き、蒸留酒、紙と。資金の目処がつくのは時間の問題でしょう」
アゴスティーノが十人委員会を見渡した。
「先日の聖シュタインの軍事パレード——あんなものを見せつけられれば、エアルが要求に屈する可能性が高い。そして——街道が出来てしまえば、もう戦にも何にもなりませんぞ」
声を落とした。
「やるなら——今しかありません」
全員の視線が、一人の男に集まった。
ロレンツォは——表情の読めない顔で議論を聞いていた。片眼鏡が灯りを反射している。腕を組み、椅子の背にもたれたまま。
「計画を聞こう」
低い声で呟いた。
アゴスティーノが嬉々として作戦の説明を始めた。
「まず、聖シュタインとの国境山間部で守備隊を挑発します。あそこでは今までも喧嘩沙汰がありましたからな。そこに格闘技の猛者を紛れ込ませておいて——ボコボコにする」
十人委員会の一同が笑った。
「それは良い」
「あの気位の高い聖シュタインです。怒った皇帝はエアルを通って飛び地のポルタヴェルデに軍を送るでしょう。しかし街道は未完成。補給線が機能しない」
アゴスティーノが意地悪く笑った。
「ここからが真骨頂ですな。とにかく徹底的に兵糧攻めをする。糧食を焼き、周辺地域の食料を買い占める。立派な騎士団も——腹が減っては戦はできません」
バルトロメオがもう計算を始めていた。指が宙に数字を書くように動いている。
「傭兵の費用、スパイへの謝礼、食糧買い占めのコスト——一方で帝国正規軍の維持費。損耗率がこれくらいとすると……」
むくりと顔を上げた。
「我々の方が圧倒的に安上がりだ」
「いかがでしょう」
フィリッポが、ロレンツォの顔色を窺った。
ロレンツォは——片眼鏡を外し、布で拭いていた。ゆっくりと。いつもより——長く。
「いいだろう」
呟くように言った。片眼鏡をかけ直す。レンズの向こうの目は——何も映していなかった。
変われない男が、ここにいた。
◇
閣議を終え、アゴスティーノは自室に戻った。大股で歩き、扉を押し開けると、待っていた部下に向かって即座に指示を出す。
「例のガスパーレ一味を呼び寄せろ」
「あのならず者ですか」
部下が顔をしかめた。
「そう——あの品の無い奴らだ。それと、あの化け物——マッシモか。あれも必要だ」
「承知しました」
部下が下がると、入れ違いに別の部下が入ってきた。
「お手紙と荷物が届いております」
木箱が机に置かれた。蓋を開けると、陶器の瓶が丁寧に藁で包まれて並んでいる。
「何だこれは」
のぞき込んだ瞬間——アルヴィンの顔が頭に浮かんだ。花見の席で木陰に誘われ、二人だけで交わした話。あの若い男の目。
立派な羊皮紙の手紙の封を切り、文字を目で追った。
にやりと笑った。
「運が向いてきたぞ」
◇
バルトロメオの執務室には、分厚い紙束が届いていた。
差出人は——アルヴィン・フェルトナー。
「ああ、あの」
つぶやきながら紙束を開いた。びっしりと書かれた文字と数字。数値モデル。実例に基づく分析。
「ほぉ」
食い入るように読み始めた。頁をめくる手が止まらない。
◇
フィリッポは、自分の商館で業者と話し込んでいた。
「エアルの新しい酒を売らないか。実は——私が一番安く仕入れられるのだ」
テーブルの上に陶器の瓶が置かれている。業者が瓶を手に取り、傾けて中身を確かめた。
「腐らないというのが良いですね。乗らせていただきます」
フィリッポは上機嫌で頷いた。内心では別の計算をしている。販売量が増えれば、次回の仕入れ値を更に下げられる。
自分だけの特別な案件だと——信じていた。
◇
春。
雪解けの国境山間部。
聖シュタイン帝国と自由都市リミニの間には、天を衝くような山脈が横たわっていた。白い峰々が朝の光に輝き、雪解け水が岩肌を伝って谷底へ落ちていく。万年雪を戴いた稜線の向こうに、どこまでも澄んだ青空が広がっている。鷲が一羽、気流に乗って旋回していた。
峠道は狭く、険しく、大軍が進むことはできない。しかし山間部の関所や峠道には、少数ではあるが両国の守備隊が駐留していた。普段なら、守備隊同士は峠で顔を合わせれば挨拶を交わす仲だった。
だが今は——険悪になっていた。
聖シュタインの関所。石造りの小さな詰所に、三人の兵士が詰めている。雪解けの水で顔を洗い、朝の見回りに出ようとした時——山の向こうから声が響いてきた。
谷を渡り、岩壁に跳ね返り、何度もこだまする声。
「カール皇帝は……豚の王……」
「豚の王……」
「の王……」
兵士の一人が足を止めた。険しい顔で空を見上げる。
ちっ、と舌打ちした。
「また始めやがった」
やまびこは続く。
「紋章は……泥棒の印だ……」
「印だ……」
「だ……」
「軍隊は……羊の群れだ……」
「羊の群れだ……」
「群れだ……」
三人の兵士が拳を握りしめた。帝国の軍人だ。侮辱には慣れている。国境の守備など退屈な任務で、向こう側との小競り合いも珍しくない。
だが——次の言葉が、堪忍袋の緒を切った。
「王女は腐った売春婦だ……」
「売春婦だ……」
「婦だ……」
「もう、我慢がならん」
年嵩の兵士が立ち上がった。
「行くぞ」
三人が山道を登り始めた。雪解けでぬかるんだ道を、軍靴が踏みしめていく。息が白い。標高が上がるにつれて、空気が薄くなった。
山頂付近に出た。
そこは——息を呑むほどの絶景だった。三方を白い峰に囲まれた稜線の平地。足元には薄紫の高山植物が雪の間から顔を出し、遥か下には両国の領地が箱庭のように広がっている。聖シュタイン側には緑の平原と騎士団の砦、リミニ側には運河の糸と港の影。空は雲一つなく、鷲の影が岩壁を横切っていった。
神々が見下ろすような場所だった。
その神々の庭で——三人の男がだらしなく寝そべっていた。
リミニの守備隊。とはいっても正規兵ではない。傭兵だ。ガラの悪い顔。汚れた革鎧。腰に下げたナイフは使い込まれているが、鞘は磨かれていない。
一人が岩の上に立ち、両手を口に当てて、楽しそうに叫んでいる。
「股をみろ、シラミが沸いているぞ……」
「いるぞ……」
「るぞ……」
それを聞いた仲間が股間を覗き込んだ。
「……いや、いないぞ。……いや、痒い気がしてきた——呪いをかけやがったな!」
ゲラゲラと笑う。雄大な景色の中で、下品な笑い声だけが谷にこだましていた。
そこに——怒り心頭の聖シュタインの兵がやってきた。
「貴様ら、いい加減にしろ」
「おや——聖シュタインの兵隊様たちだ」
傭兵がにやにやと笑った。
「羊の群れか見せてやる」
兵士が殴りかかった。拳が傭兵の顎を捉え、男がよろめく。それを合図に、残りの傭兵たちも一斉に殴り合いに加わった。
薄紫の高山植物が踏み荒らされた。雪と泥の上で男たちが組み合い、殴り、転がる。足元に広がる絶景も、頭上を舞う鷲の影も、誰の目にも入っていない。拳だけが世界の全てだった。
しかし——聖シュタインの正規兵は、さすがによく訓練されていた。剣を持たなくとも体の使い方が違う。重心が低く、動きに無駄がない。傭兵たちを一人、また一人と圧倒していく。
「逃げるぞ!」
不利と見るや、傭兵たちはあっさりと逃走を始めた。岩場を跳ぶように駆け下りていく。
不埒な傭兵を蹴散らし、肩で息をしながら、兵士たちはそれを見送った。
◇
翌日。
聖シュタインの関所に詰めている守備隊。朝の空気が冷たい。
そこに——また、やまびこが聞こえてきた。
「聖シュタインは、シラミの巣だ……」
「シラミの巣だ……」
「巣だ……」
「シュタイン王宮は売春宿だ……」
「売春宿だ……」
「宿だ……」
守備隊の兵士が地面を蹴った。
「あいつら」
「弱虫のくせに」
「また、こらしめてやる」
三人が山道を登り出した。昨日と同じ道。同じ怒り。
山頂。
昨日と同じように、傭兵たちがぶらついている。だが——数が違った。昨日は三人。今日は六人に増えている。
聖シュタインの三人が姿を現した。
「お前たち、性懲りもなく——」
飛びかかる。だが相手は倍だ。
二人が正面から殴り合っている間に、背後から別の傭兵が襲いかかった。足を払われ、転がったところに三人がかりで蹴りが飛んでくる。
「駄目だ——撤退!」
三人は血を流しながら山道を駆け下りた。
背後から歓声が上がり——やまびこが追いかけてくる。
「シュタインの兵隊は腰抜け羊だ……」
「羊だ……」
「だ……」
逃げる兵士たちの背中を、山の声が叩いた。
◇
さらに翌日。
顔を腫らした聖シュタインの兵士たちが、隣の関所を訪ねていた。
「リミニの傭兵に——やられた」
紫色に腫れた頬を見せる。話を聞いた隣の関所の兵士たちの顔が、真っ赤になった。
「帝国の兵がここまで辱められるとは」
六人が山頂を目指した。
山頂に出ると——やはり傭兵たちがいた。六人。人数は同じだ。
「昨日の借りを返すぞ」
先頭の兵士が拳を構えた。六人対六人。人数が同じなら正規兵が負けることはない。
「おっと——頭数を揃えてきたな」
傭兵の一人がせせら笑い、口笛を吹いた。
甲高い音が山の空気を裂いた。
少し離れた草むらで、何かが動いた。寝ていた男が、むくりと上半身を起こす。
「マッシモ。出番だぞ」
草むらから立ち上がった男を見て、聖シュタインの兵士たちの足が止まった。
大きい。
体格の良い帝国の兵士より頭一つ抜けている。肩幅は扉ほどもあり、腕が丸太のように太い。マッシモは腕をポキポキと鳴らした。首を左右に傾げると、ゴキリと鈍い音がした。
兵士たちが一瞬ひるんだ。だが——帝国の誇りが、足を前に出させた。
「見掛け倒しだ。叩きのめせ!」
六人が一斉に傭兵たちに殺到した。
殴り合いが始まった。拳が飛び交い、雪と泥の上で男たちが転がる。聖シュタインの正規兵は一対一なら圧倒的に強い。傭兵たちを次々と押し返していく。
しかし——マッシモは格が違った。
兵士の一人がマッシモに向かって拳を振るった。マッシモは半身をずらしてかわし、巨大な掌で兵士の胸を押した。それだけだった。押しただけだ。
兵士の体が浮いた。三歩、四歩と地面の上を滑るように飛び、背中から倒れた。しばらく起き上がれない。
二人目が背後から飛びかかった。マッシモは面倒くさそうに腕を掴み、引き剥がし、地面に叩きつけた。おもちゃの人形のように。
一人、また一人。マッシモの前に立った者が、次々と吹き飛ばされていく。
そして——最後の一人が、マッシモに掴まれ、投げつけられた。
その先に大きな木があった。
鈍い音が山に響いた。
兵士の体が幹にぶつかり、ずるずると地面に崩れ落ちた。
動かなかった。
山頂に風が吹いた。高山植物が揺れている。鷲が遠くの空を旋回していた。
雄大な景色は——何も変わらなかった。峰は白く輝き、空はどこまでも青い。ただ、その美しい風景の片隅に——動かなくなった一人の兵士が横たわっていた。




