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第47話 スパイ


 自由都市リミニ。


 石畳の街路を、黒塗りの馬車が滑るように進んでいく。車輪が濡れた石を踏む音だけが、夕暮れの空気に響いていた。運河沿いの倉庫、商館の明かり、荷を運ぶ人夫たちの影。二百年かけて積み上げた富が、この街のあらゆる場所に染み込んでいる。


 馬車の中で、ロレンツォ・ディ・ヴァザーリは書類に目を落としていた。帰路の馬車でさえ、この男の手は止まらない。各地の市況、為替の動向、視察の報告。片眼鏡の奥の目が、文字の上を正確に滑っていく。


 ただし——今日はいつもより、頁をめくる手が遅かった。


 屋敷の門をくぐり、正面の車寄せに止まる。


「お帰りなさいませ」


 マルティーノが扉を開けて出迎えた。主の顔を一目見て、わずかに眉をひそめる。


「お疲れのようですね」


「ああ」


 ロレンツォは短く頷いただけで、書類の束を抱えたまま屋敷に入っていった。


 ◇


 自室。


 窓の外にリミニの運河が見える。夕陽が水面を橙色に染めていた。


 ロレンツォはいつもの椅子に腰を下ろし、深いため息をついた。片眼鏡を外し、目頭を押さえる。


 目を閉じると——藍色の上着を着た若い男の顔が浮かんだ。


「収奪は一度だけです。一度奪うのと、何度も分け合うのと——どちらが儲かるか」


 アルヴィンの言葉が蘇る。グラリキスの花びらが舞う中で、真っ直ぐにこちらを見つめていたあの目。六十年の人生で、あんな目をした人間には会ったことがない。


「あの男の言ったことは——正しい」


 声に出すと、余計に重かった。


「だが——それでは……」


 自由都市リミニの十人委員会は、国家財産の運用成績でその議長を決める。短期的な利益を出し続けなければ、その座は奪われる。収奪をやめて長期の共存に舵を切れば、数字は落ちる。数字が落ちれば、十人の誰かが取って代わる。


 正しいと分かっていても——システムの中にいる限り、変えられない。


 雑貨屋。諜報員。実業家。経済の天才。あるいは——何らかの魔法なのか。六十年かけて築いた分類体系のどこにも、あの男は収まらなかった。


「お前は何者だ…」


 絞り出すような声だった。


 しばらく目を閉じていた。それから——顔を上げた。


「マルティーノ」


「いかがされました」


 扉の近くで控えていた男が、すっと近寄る。


「エアルの国立銀行から融資を引き揚げてくれ」


「全てでよろしいですか」


「ああ」


 ロレンツォは片眼鏡をかけ直した。レンズの向こうの目が、冷たい光を帯びている。


「あの男の自信が本物か——試してみよう」


 ◇


 エアル王宮、閣議室。


 重厚な木製のテーブルに、いつもの顔ぶれが揃っていた。上座にエドゥアルト国王。白い髭、白い髪。静かに座っている姿は穏やかだが、老いた目には確かな光がある。その隣にナディールが背筋を伸ばして前を見ている。以前のように肩を落としてはいない。向かい側にはオットー財務卿が帳簿を抱え、その隣にブラント軍務卿がカイゼル髭の下の口元をきつく結んでいる。て


 ナディールが口を開いた。


「グラリキス街道の視察は大成功だった。皆の努力に感謝する」


 閣僚たちが頷く。あの花見外交にどれほどの準備を要したか、この部屋の全員が知っている。


「特に——ブラント軍務卿。万全の警備をありがとう」


 そう声をかけられたブラントが微妙な顔をした。


「ありがたいお言葉ですが、毒飼の逮捕には王女殿下の飼い犬の働きが大であります」


 軍務卿が深々と頭を下げた。


「マックスには骨付き肉を振舞った」


 閣議室に笑い声が満ちる。


「しかしあの毒飼、脅しても何も喋りません」


「聖シュタインの来賓をねらったのだとすれば誰の差し金かは予想がつくが…。引き続きよろしく頼む」 


 ブラントが再び頭を下げた。


「さて、今日の議題だが——」


 ナディールが手元の書類に目を落としかけた時、オットー財務卿が手を上げた。


「宰相殿。実は——大変なことになりました」


 閣議室の空気がわずかに張り詰めた。オットーの眼鏡の奥の目が、いつもの計算とは違う——芝居がかった深刻さを帯びている。


「海外の貴族が国立銀行へ行った大口融資——金貨百万枚の即時引き揚げ通告が入ったそうです。このような金額が一度に下ろされれば、銀行の資金が回りません」


 官僚たちがざわめいた。


「百万枚……」


「銀行が……」


「由々しき事態です」


 オットーが眼鏡を押さえながら言い切った。声が大きい。閣議室の全員に聞かせるように。


 ナディールは——聞いていた。閣僚たちの言葉を聞きながら、オットーの顔を見ていた。


 手を上げて、ざわめきを制する。


「それならば——問題ない」


 声に力みはなかった。淡々としている。


 オットーが意表を突かれた顔をした。


「何故でございましょう」


「大口顧客への特別条項がある。百万枚もの融資を引き揚げるには、頭取会の審議を経なければならない。頭取会の開催には十四日前までの招集通知が必要だ」


「つまり——十四日後には引き下ろせると」


「いや。引き下ろしの申請が正当なものか、確認が必要だ。調査員が派遣される。調査員は申請から営業日で六日以内にやって来る。調査後、六日以内に証明書が発行され——」


 特別条項を、一つ一つ並べていく。閣議室の全員が黙って聞いている。


「つまり——合計で九十三日の猶予がある。その間に資金の手当てをすれば良い」


「それが——契約書に書いてあると」


 オットーの声がかすかに揺れた。


「ああ。全て書かれている。あちこちに分かれているので分かりにくいかもしれないが」


 オットーの顔が一瞬、ひきつった。


「何たることだ!」


 声が裏返りかけていた。


 ナディールは見逃さなかった。百万枚の融資が九十三日間動かせない。それを知った財務卿の第一声に——怒りがにじみ出ていた。


「助かった、ではないのかね」


 冷たい目をオットーに向けた。


 閣議室が静まり返った。


 オットーは一瞬、言葉を失った。それから慌てて表情を作り直す。


「お、おっしゃる通りです。契約に救われましたな。フェルディナントたちが良い仕事をしたわけだ」


 声に余裕がない。取り繕った笑顔の下で、目が泳いでいる。


 ナディールは何事もなかったかのように続けた。


「もう一つ。この大口融資をヒントに、聖シュタインの誕生祭で各国の貴族に融資の話をしたところ、いくつかの申し込みを受けた」


「そ——そうなのですか」


 オットーの声が上ずった。


「それは凄い……」


「先日のグラリキス街道の視察でも、数件の融資がまとまっている。金貨百万枚が引き下ろされても、銀行の運営に支障はない」


 閣僚たちが顔を見合わせた。安堵と驚きが入り混じっている。エドゥアルト王も白い髭を撫でながら静かに頷いた。


 オットーだけが——様子が違った。


「しかし——そういうことは、もっと早く教えていただかなければ」


「自由都市に知られたくなかったので、伏せていたんだ」


 オットーの体が、目に見えて引きつった。帳簿を握る指の関節が白くなっている。


「……どういう意味でしょうか」


 恐る恐る、ナディールの顔色を窺う。


 ナディールは——オットーではなく、閣僚たち全員に向かって言った。


「複数の偽情報を、オットー財務卿に流しました。リミニおよびセルヴィアの双方が反応したことから、両国への情報漏洩が確認されています」


 閣議室の空気が凍った。


「そんな!」


 オットーが椅子から腰を浮かせた。


「言いがかりです!」


 ナディールはその抗議を無視した。傍らの役人に小さく頷く。


 扉が開いた。


 フェルディナントが入ってきた。眼鏡の奥の目は落ち着いている。手には書類の束。一歩一歩が確かだった。


「失礼いたします」


 会釈をして、閣僚たちに書類を配り始める。オットーが目を見開いた。


「国庫の帳簿について、複式簿記による再検証を行いました」


 フェルディナントが淡々と報告する。


「その過程で、複数の横領が発覚しております。詳細は資料にございますが——全ての支出許可を出しているのが、財務卿殿です」


 配られた資料を、全員が見ている。数字の羅列。帳簿の不整合。金貨三千枚の橋の補修費に対して、橋の資産価値の増加記録がない。同様の空白が、何件も並んでいた。


 いつも物静かなエドゥアルト国王が、資料を見つめている。紙を持つ手が——震えていた。


「……これ程、長きにわたって……」


 老王が顔を上げた。怒りのこもった目が、真っ直ぐにオットーを射抜く。穏やかな老人が初めて見せる表情だった。


「今回のグラリキス街道視察でも、かなりの中抜きを行っている」


 ナディールの声は平坦だった。感情を殺している。報告事項を読み上げるように、事実だけを並べていく。


 オットーの顔が蒼白になった。


「これは——これは何かの罠です」


 声が裏返った。


「誰かが私を陥れようとしている。そ、そうだ——私がセルヴィアに情報を流した、そんなことはあり得ない」


 ナディールが小さく頷いた。フェルディナントが一歩前に出る。


「悪魔憑きの話は、財務卿だけにお話ししました」


 静かな声だった。だが閣議室の隅々まで届いた。


「ほどなく——セルヴィアからエクソシストが派遣されましたよね」


 オットーの口が開いたまま止まった。


「ああ、あの……」


 閣僚たちが頷いた。あのエクソシストの騒動は、全員が覚えている。


「もう良いだろう」


 ナディールが言った。声は変わらない。最初から最後まで、一度も声を荒らげなかった。


「連れていけ」


 閣議室の扉が開き、衛兵が二人入ってきた。オットー財務卿の両腕を、左右からしっかりと掴む。帳簿が床に落ちた。


「待ってくれ——私は——これは誤解で——」


 引きずられながらオットーの声が遠ざかっていく。扉が閉まると、声は聞こえなくなった。


 沈黙。


「次の議題に移りましょう」


 ナディールが、こともなげに言った。


 エドゥアルト国王が——頷きながら、ナディールを見た。白い髭の下の口元が、何かを噛みしめるように動いた。あの仕草だ。だが今日は——髭を撫でる代わりに、甥の顔を真っ直ぐに見つめていた。

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