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第46話 詐欺師と毒蜘蛛


 フィリッポが夢中になって藍色の上着の若者と話し込んでいる。


 その光景を——ロレンツォは見ていた。


 離れた場所から、グラリキスの花びらの向こうに、若い男の横顔を観察している。笑っていない目で。あの男が先ほどからバルトロメオを興奮させ、アゴスティーノを木陰に引き込み、今はフィリッポまで虜にしている。花見の席で「やめろ」とは言えない。言えば、他の委員が不審に思う。


 何かの工作をしかけている。それも、スケールの大きな。


 ロレンツォは静かにフィリッポの席に近づいた。


 それを認めて、アルヴィンがすっと立ち上がった。その動きは速く、しかし滑らかだった。


「これはロレンツォ議長」


 笑顔だ。だが——ロレンツォは見た。目が笑っていない。笑顔の奥に、別の何かがある。


「アルヴィン・フェルトナーと申します」


「議長、エアルの実業家のアルヴィン氏です。国立銀行の顧問もされているとか」


 フィリッポが紹介する声を聞きながら、ロレンツォは頭の中で分類を試みていた。


 アルヴィン。


 ファブリツィオから聞いた名前だ。「アルヴィンという男、雑貨屋などではありません。おそらくは宰相の影の諜報部隊」。遍歴の騎士の言葉が蘇る。


 しかし、目の前に立つのは——深い藍色の上着が映える、品のある若者だ。


 雑貨屋。そんなはずがない。この空気は、商売の場数を踏んだ者だけが纏えるものだ。


 諜報部員。ならば堂々と本名を名乗り、リミニの議長の前に出てはこない。偽名を使う方が動きやすい。


 実業家。確かに——外観だけ見れば、若くして成功した実業家にしか見えない。だが、フィリッポを虜にする知識と話術。バルトロメオを興奮させた計算方法。国立銀行の顧問。雑貨屋から実業家になっただけでは説明がつかない深さがある。


 どの分類にも——収まらなかった。


 考えているロレンツォに、アルヴィンが笑いかけた。


「やっとお目にかかれましたね、議長」


「私も君の名前は聞いていたが。イメージとは違ったな」


 そして——ロレンツォの視線がアルヴィンの隣に移った。


 青いスーツの胸元。魔法使いの刺繍。


「お連れの方は……アルカディアの方ですかな」


「リーナ・ヴァイス・フローラと申します。留学していたんです」


 リーナが落ち着いて会釈した。背筋を伸ばし、真っ直ぐ前を見つめている。金色の麦で泣きながらエプロンを外した娘の面影は、もうどこにもない。


「なるほど」


 ロレンツォの衰えを見せない記憶力が、過去の情報を引き出していた。イサッコの契約書が魔法で改ざんされたこと。守護魔法使いがエアル側に寝返ったこと。目の前の魔法使いの娘が、その関係者である可能性。


 諜報員の男に魔法使いが秘書として仕えている。これは——「雑貨屋」でも「スパイ」でも説明がつかない。


「しかし、君が本名で私の前に出るとは意外だった。怖くはないのかね」


「どうして怖がる必要があるのでしょう」


 アルヴィンの声に、微塵の怯えもなかった。


「私は議長に対して何の敵意もありません。ビジネスの先輩として教えを請いたいし、一緒に新しい事業ができるかもしれません」


 笑顔のまま続ける。


「イサッコの件は——農民が詐欺で土地を奪われそうになっていたから、手助けした。それだけです」


「それが私の商売の邪魔をすることになったとしても?」


 ロレンツォの声が、わずかに低くなった。穏やかな声の奥に——「この男の人生は無かったことにしよう」とマルティーノに命じたのと同じ冷たさが、一瞬だけ覗いた。


 アルヴィンは動じなかった。


「農民から本来の価格で土地を買っていれば、私は手を出しません。守護魔法使いに十分な報酬を出していれば——彼は私ではなく、あなたのビジネスパートナーになった」


 一呼吸置いて——


「収奪は一度だけです。議長ほどの方なら、お分かりでしょう。一度奪うのと、何度も分け合うのと——どちらが儲かるか」


 ロレンツォが沈黙した。


 この若者は——何をしているのか。自分を批判しているのか。商談を持ちかけているのか。それとも——試しているのか。どれだとも断定できない。


 気を取り直して、ロレンツォは話題を変えた。


「やはり自分の眼で見てみるのが一番だな」


 穏やかな声に戻っている。だが、ロレンツォの目は笑っていなかった。


「街道整備、魔法の契約書、銀行設立、蒸留酒、製紙工場——全ては君の仕事なのだな」


「それは買いかぶりです」


 アルヴィンが笑った。


「でも——もし、そうならば、このアルヴィン・フェルトナーというのは、一体どんな男なのでしょうね」


 詐欺師が獲物を弄ぶような笑みだった。ロレンツォは——長い人生で初めて、その種の笑顔を相手に向けられる側になっていた。


「議長、自由都市の供託金システムはいつから続いているのですか」


「二百年ほどだろうか。優れた者が国を指導する。合理的な仕組みだろう」


「二百年とは長いですね」


 アルヴィンの声が、静かに変わった。笑みが消え、阿久津蓮の目が——剥き出しになった。


「運用成績を競うことは、収奪を招きます。普通の人々が毎日働き、子供を産み、育てる。食べて、着て、住む。この中間層が育たなければ、経済は発展しない」


 グラリキスの花びらが、二人の間を横切った。


「自由都市の供託金システムも——更新する頃合いかもしれませんね」


 毒蜘蛛アラクネ。


 蜘蛛の糸で獲物を捕らえ、その毒で数々の敵を葬ってきた男が——天敵の網にかかったような、不思議な感覚に触れていた。


 小国の若い実業家。経済大国トップの影響力とは比べようもない。だが——天敵には毒が効かない。脅しても動じず、分類しようとしても収まらず、供託金制度という自由都市の根幹にまで手を伸ばしてくる。


 阿久津蓮の底知れない自信の前で、老獪な政治家が——揺らいでいた。


「ロレンツォ議長、アルヴィンとお話が弾んでいるようですね」


 歩いてきたナディールが、穏やかに声をかけた。絶妙なタイミングだった。場の空気がわずかに緩む。


「ああ——なかなか面白い話を聞けたよ」


 ロレンツォが気を取り直して答えた。穏やかな声。感情の見えない目。


 だが、ロレンツォは二人を並べて見ていた。宰相ルートヴィヒ・フォン・エーレンベルクとアルヴィン・フェルトナー。並ぶと何やらしっくりくる。この二人が組んで——ここまでのエアルの変貌を成し遂げたのだ。


「さぁ。あちらへ参りましょう。宴席を設けております」


 ナディールがロレンツォを促す。二人の背中が、グラリキスの並木の方へ遠ざかっていく。


 アルヴィンはそれを見送った。


 リーナが傍らに戻ってくる。


「さぁ——議長はどう出るかな」


「何で楽しそうなんですか」


「そう見えるかい」


 笑った。しかしリーナは笑わなかった。満開のグラリキスを見上げて、少し眩しそうに目を伏せている。


「私はちょろちょろ走り回っていただけですけど——世界を動かす人たちを目の当たりにして、満開のグラリキスの前で、何だか夢のようです」


「リーナは良くやってくれたよ」


 アルヴィンが静かに言った。


 酒場をくびになって泣いていた娘が、今日は世界を動かす商人たちの前で、一度も怯まなかった。魔法を探知し、情報を囁き、キャッシュフローの説明に加わり、フィリッポの視線を読み取った。染み抜きしかできない「役立たず」は——もう、どこにもいない。


 リーナが嬉しそうに笑った。白い花びらが、青いスーツの肩に舞い降りた。


 ◇


 アリアドネの赤い馬車が出立した後に——入れ違いのように、黒い馬車がやってきた。


 天秤の紋章が刻まれている。法王国セルヴィアだ。


 魔法と信仰は相性が悪い。アリアドネの出立とセバスティアヌスの到着が入れ違いになるよう、日程は絶妙に調整されていた。ナディールの仕事だ。


 黒い馬車から、セバスティアヌス枢機卿が降り立った。聖シュタイン誕生祭では「血なまぐさいイベントは真っ平」と軍事パレードを辞退した人物だ。穏やかな目をした老人が、グラリキスの花を見上げて微笑む。


「セバスティアヌス枢機卿。よくお出でいただけました」


「お招きいただき光栄です。素晴らしい景色ですね」


「ええ。各国が争うのではなく、一緒に花を愛でる。そんな場を作りたくて」


「それは良いお考えです」


 二人はグラリキスの並木を歩き始めた。白い花びらが風に舞い、足元に降り積もっている。


 先ほどまでの商人たちとの丁々発止が嘘のように、穏やかな空気が流れていた。ナディールは——この時間を、待っていた。


「そうだ、カラカスに棲むヴェルダについて教えてください。確か、聖典に書かれているのですね」


「良いですよ」


 セバスティアヌスは花びらを見つめながら、ゆっくりと語り始めた。


「私も声は聴いたことがあるのですが、姿は——見えたような、見えないような」


「そうでしょう。ヴェルダは、この世とあの世、現在と過去と未来の間にいるそうです。私たちに見えるとすれば——それはヴェルダの影です」


「別の世界にいると」


「シュテファン修道士の調査報告を読みましたが、村人の証言通りです。見えなくても、気配は感じられる」


 ナディールはアリアドネから聞いた言葉を思い出していた。父フリードリヒの魔法は——召喚魔法だった。そして木こりから聞いた、蒸留所の天井を突き破るような光。父が何かをした、あの夜。


「その村人が——十年ほどヴェルダの気配が消えたと証言しています。そして半年前に戻ってきたと」


 ナディールは慎重に言葉を選んだ。


「一体どこへ行っていたのでしょう」


「神ならぬ人には分かりませんが——」


 セバスティアヌスが空を見上げた。


「それこそ遠い世界、遠い時間を旅してきたのかもしれませんね」


 グラリキスの花びらが舞った。


 二人はしばらく黙って、その光景を見つめていた。白い花びらが風に乗って、見えない流れに沿って空を渡っていく。その一瞬だけ——目に見えない風の道が、はっきりと浮かび上がる。


 そんなものなのかもしれない、とナディールは思った。


 見えないものが、確かにそこにある。


 遠い世界を旅して、戻ってきたもの。


 父が呼んだもの。


 まだ、点と点は繋がらない。だが——ナディールの胸の中で、何かが静かに形を取り始めていた。


 頭上では、グラリキスの白い花が風に揺れている。この世界とあの世界の間で——何かが、微笑んでいるような気がした。

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