第45話 遠くから来た知識
その頃、帰り支度を進めていたアリアドネのもとに、ロレンツォが姿を現していた。
ナディールはそれを遠くから見ていた。介入はしない。だが二人が何を話すかを——見ておく必要があった。
「あら、ロレンツォ議長」
アリアドネの声は穏やかだったが、聖シュタイン誕生祭で初めて言葉を交わした時ほどの警戒はない。ただし——親密さもなかった。
「今日、発たれると聞いて。先日お話しした魔法学校の投資計画書を持ってきました」
ロレンツォが羊皮紙の束を差し出す。アリアドネがそれを受け取り、目を通し始めた。
「それはありがとうございます」
二人が計画書を見ながら語り合う。ナディールの位置からは声は聞こえないが、アリアドネの表情が次第に冷めていくのは見て取れた。
やがて、アリアドネが口を開いた。
「立派な学校を作るというお話に、興味がないわけではありません」
声が届く距離まで、ナディールは自然に近づいていた。
「ですが——学生がアルカディアまで留学する必要がなくなる一方で、講師陣をアルカディアから派遣させると、授業料では講師陣の給与を賄うのが精一杯ですね」
「これほどの投資が、いつまで経っても回収できないことになると?」
ロレンツォが穏やかに答えた。
「運用成績を最も重視する議長が、学校に投資される理由は何でしょう」
「魔法使いが増えることは、産業界全体を底上げする。学校だけの採算を見るべきではない」
その時——アリアドネが突然、ロレンツォの顔を真っ直ぐに見つめた。
「私が怖いのですか?」
空気が変わった。グラリキスの花びらが二人の間に舞い落ちたが、どちらも動かなかった。
「それは——どういう意味でしょう」
ロレンツォの声に、初めてわずかな揺れが混じった。
「今日の議長にはいくつもの守護魔法がかかっていますね。体を守る魔法。心を悟られない魔法……」
ロレンツォの眉が動いた。
リーナが到着時に感知した、あの「隠すための魔法」——アリアドネはそれを正確に読み取っていた。しかもリーナが「守護魔法に似ているが違う」としか言えなかったものを、具体的な機能まで言い当てている。アルカディア魔法評議会議長の眼力は、次元が違った。
「もっと信頼し合えなければ、共同事業は難しいと思いませんか」
「立場上、色々と用心しなければならないのだ」
「お互いに腹を割ってお話が出来るようになるまで、学校のことは保留にしましょう」
ロレンツォが引き留めようとしたが、アリアドネはすでに背を向けていた。
紅い髪が風に揺れ、黒仮面の護衛が静かに続く。その背中は、もう振り返らない。
ナディールはその光景を見つめていた。ロレンツォとアリアドネの接触が——ここで亀裂を生じた。先日、アリアドネがナディールに見せた信頼と、ロレンツォに見せたこの拒絶。同じ女性の、全く異なる二つの顔だった。
◇
ゴールデンフィールドのグラスを手に、アルヴィンは賓客たちの間を歩いていた。
リーナが半歩後ろについている。青いスーツの胸元で、魔法使いの刺繍が春の光を受けて金色に輝いていた。
白髪に白い顎髭の男が近づいてきた。軍人の姿勢。背筋が伸びている。
リーナがすかさず耳打ちした。
「アゴスティーノ議員です。リミニ一番の軍事強硬派です」
アルヴィンは内心で感心した。事前に渡しておいた来賓リストの情報を、リーナは完璧に頭に入れている。しかも、タイミングが良い。相手が声をかけてくる直前に、必要な情報を囁いてくる。
「アルヴィン殿」
アゴスティーノの声は低く、率直だった。回りくどさがない。軍人気質がそのまま出ている。
「バルトロメオがあなたから凄い計算方法を聞いたと興奮しておりました。いつも数字に冷静な男があんなになったのは、見たことがない」
「お互いの趣味が合っただけです」
アルヴィンはゴールデンフィールドを勧めながら、話題を変えた。
「アゴスティーノ委員は軍務卿のお仕事を兼ねているのですよね」
「そうですな。ただ——軍隊など無駄飯ぐらいです。軍事は経済の下僕というのが、我が国のモットーでね」
「おっしゃる通りです」
アルヴィンはグラスを傾けた。
「腹が減っては戦はできない。それを計算すれば、負けることはない」
「計算するとは?」
「人員、食料、武器の消耗率を計算して、それが途切れないように後方から供給し続ければ——どうなるでしょう」
アゴスティーノの目が光った。
「いくら戦っても、同じだけの敵と戦わないといけないわけですな」
兵站。戦争論で必ず学ぶ基本中の基本だが、この世界では「勇猛な騎士の突撃」が戦争の花形だ。補給線の管理を数値化するという発想は——聖シュタインの騎士団にも、リミニの傭兵隊にもない。
「しかし」
アゴスティーノの目が鋭くなった。軍事強硬派らしい、値踏みする目だ。
「その若さで、一体どこでそんなことを学ばれた」
「遠いところです」
アルヴィンはにこりと笑って、話題を移した。
「それよりアゴスティーノ殿——あなただけに、ご相談させていただきたいことがあるのですが」
「どのようなお話でしょう」
アゴスティーノが身を乗り出した。
二人は人目を避けるように木陰に移動した。グラリキスの白い花の下で、声を潜めて何かを話し込んでいる。
何を話しているかは——少し離れた場所で見ていたリーナにも、聞こえなかった。
だが、リーナはアルヴィンの立ち姿を見つめていた。
帳簿の話で数字の達人を唸らせ、兵站の話で軍事通を引き込み、そして今——一人一人に「あなただけに」と持ちかけている。相手ごとに別のカードを切り、全員を虜にしていく。全く板についている。
ああ——確かに、この人は、こういう人なのだ。
◇
フィリッポとの話題は、投資だった。
ゴールデンフィールドを飲みながら、アルヴィンは阿久津蓮の営業術を惜しみなく注いでいた。帳簿、兵站ときて、今度は商売だ。
「確かにこの酒なら、遥か遠くまで売ることができますな」
フィリッポはグラスの琥珀色を見つめて、商人の目をしていた。四十代。十人委員会で一番若い。だからこそ——新しいものへの嗅覚が鋭い。
「しかも熟成期間があるから、これから十年は競合が参入できない」
「おっしゃる通りです。酒は地産地消しかできないものと思われていましたが——蒸留酒は違います」
フィリッポの目が輝いた。
「フィリッポ殿、ゴールデンフィールドを売ってみませんか。たくさん売っていただけたら、その数に応じて次の卸値を値引きさせていただきます」
「それは大変、興味のある話ですね」
ボリュームディスカウント。現代では当たり前の取引手法だが、この世界では存在しない概念だ。「たくさん買えば安くなる」——商人の本能を直撃する提案だった。
「そして、次の事業として——藁から紙を作る工場の建設が始まっています」
「藁から?」
フィリッポが身を乗り出した。
「羊皮紙でない安い紙ができれば、今度は印刷ができます」
「ああ。木版印刷ですね」
「まぁ、似たようなものですが——一文字ずつの判を組み合わせたら、どうなります」
フィリッポの表情が変わった。商人の頭が、凄まじい速度で計算を始めている。
「そうか——色々な文書が印刷できる」
「製紙工場の後は、印刷工場です。儲かりますよ」
「出資は募集されていますか」
食いついた。
その時——リーナがさりげなく声をかけた。
「アルヴィン様」
耳元に、囁くような声。
「フィリッポ議員は、先ほどからロレンツォ議長をちらちら見ていました。許可を求めるような目で」
アルヴィンは表情を変えなかった。だが、その一言で全てが分かった。
「ロレンツォの子飼いか。分かった」
フィリッポは自分の判断で動いているのではない。ロレンツォの許可なしには大きな決断ができない。二人の力関係が——透けて見えている。
リーナは銀行の守護魔法使いの面接を一人で仕切った。その人を見極める目が、フィリッポの視線の先を正確に読み取った。




