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第44話 十人委員会を取り込め


 自由都市リミニからグラリキス街道までの道のりは、険しかった。


 大陸最大の軍事力を誇る聖シュタイン帝国と、大陸最大の経済力を誇る自由都市リミニ。この二つの大国の間には山脈が連なり、大軍がこれを越えて侵攻することは不可能に近い。


 だからこそ——聖シュタインがリミニに軍を送るなら、エアル王国を通過する必要があった。


 グラリキス街道。聖シュタインからエアル王都に向かうこの道は、整備が進みつつある。だが、そこからリミニまでは未だ悪路が続く。大軍勢が迅速に移動できる状態ではない。


 しかし、この道がすべて整備された時——リミニがポルタヴェルデ、聖シュタインがアイゼンガルトと呼ぶ国境の飛び地に軍隊が送り込まれ、リミニの喉元に駐屯地が築かれるだろう。


 それは、自由都市にとって絶対に避けねばならない事態だった。


 十人委員会がこの地を訪れる理由は、花見ではない。街道の状態を確認するためだった


 ◇


 グラリキスの満開の並木道に、見慣れない馬車が現れた。


 アルヴィンは目を凝らした。他の国の馬車とは明らかに造りが違う。車軸に独特の機構が組み込まれ、道の凹凸に追従するように車体が揺れを吸収している。悪路をものともせず、滑るように進んでくる。


 こんな馬車は他の国にはない。


 それだけで分かる。産業と技術を何よりも重視する自由都市——リミニの力の片鱗だった。


 馬車が止まり、扉が開いた。


 最初に降り立ったのは、白い顎髭を蓄えた六十代の男だった。軍人のように背筋が伸びている。アゴスティーノ。続いて、五十代の男が指先でステップを叩きながら降りる。数字を聞くと指が動く癖——バルトロメオだ。その後ろに四十代の男。十人委員会で一番若いフィリッポ。


 そして最後に——派手さのない、しかし重厚な仕立ての服を着た六十代の男が、静かに馬車を降りた。


 ロレンツォ・ディ・ヴァザーリ。


 穏やかな表情。しかしその瞳の奥で何を考えているかは誰にも読めない。


 ナディールがアルヴィンの隣で、低く呟いた。


「絹商人イル・セタイオがお出でになった」


「毒蜘蛛じゃないのかい?」


「隠語だよ。絹も虫の糸だ。彼は絹の商売もしているしね」


 アルヴィンの反対側で、リーナが小さく息を呑んだ。


「アルヴィンさん」


 耳元に、囁くような声。


「あの馬車の周りに——魔法の気配がします。護衛だけではなく、委員自身にも何か……」


「どんな種類の?」


 アルヴィンは表情を変えずに聞いた。


「守護魔法に似ていますが、エルネストさんのものとは違います。もっと——隠すための魔法です」


 心を読まれないための防壁。さすがは大陸一の商人たち。交渉の場で腹の底を見せないために、魔法まで使っている。


「なるほど。分かった」


 アルヴィンは短く答えた。アルカディアのアリアドネは、恐らく自分の力で魔法を感じさせない。ロレンツォたちの場合は、魔法を「買って」身に纏っている。リーナの探知はその差を正確に捉えていた。


 ナディールが一歩前に出た。


「さぁ。十人委員会の皆様にご挨拶をしよう」


 ◇


 ナディールとエリザベート王女が、十人委員会の面々を出迎えた。


 道中の苦労をねぎらい、グラリキスの花を示しながら、ナディールはロレンツォと向き合った。


「お忙しい議長にお出でいただけるとは、光栄です」


「なに、興味のあるものは自分の眼で見ることにしているだけですよ」


 ロレンツォの声は穏やかだった。だが「自分の眼で見る」という言葉に、ナディールは意味を読み取った。ファブリツィオを送り込み、報告を受け——それでも足りず、自ら乗り込んできたのだ。


「銀行に続いて、酒造と製紙工場を起こしております。ご興味がありましたら、投資もぜひご検討ください」


 ロレンツォが目を上げた。満開のグラリキスの並木を、ゆっくりと見渡す。


「こんな素晴らしい並木道を軍馬が進むなど、冒涜だと思わないかね」


 穏やかな声だったが、刃が隠れている。街道の軍事的意味を十分に理解した上で——あえて言葉を選んでいる。


「ここは観光地にするのがふさわしい」


「そうですね」


 ナディールはさらりと受け流した。


「皆様をお席にご案内いたします」


「その前に——アルカディアのアリアドネ議長と話したい。今日、お帰りと聞いているのでね」


 ロレンツォが静かに去っていく。アリアドネを探す背中を見送りながら、ナディールは次の一手に移った。


 バルトロメオ議員に声をかける。


 その瞬間、背後でリーナがアルヴィンに耳打ちしているのが見えた。手元のメモを確認しながら——「バルトロメオ議員です。数字に強くて帳簿ばかり見ているとか」


 ナディールは内心で頷いた。事前に渡しておいた来賓リストが、きちんと機能している。


 ◇


「バルトロメオ殿、今日はご紹介させていただきたい友人がおります」


「宰相閣下のご友人ですか。喜んで」


 バルトロメオの目が動いた。指先が無意識にテーブルを叩いている。数字のことを考える時の癖だ。宰相の友人がどれほどの男か——品定めする目を向けた。


 ナディールの後ろから、リーナを伴ったアルヴィンが姿を見せた。


「実業家のアルヴィン・フェルトナーと申します」


 深い藍色の上着。銀のブローチ。磨き込まれた革靴。シャドーキャビネットの前で初めて見せた、阿久津蓮の空気を、そのまま纏っている。


「バルトロメオ殿は十人委員会の中でも数字にお強いとお噂はうかがっております。ぜひお話しさせていただきたいと思っておりました」


 ナディールがそう口を添えた。


「彼は新しい酒の宣伝を兼ねて参加しているが、国立銀行の顧問もお願いしているのです」


「これほどお若くて銀行の顧問を。ご立派なことですな」


 バルトロメオの声に、かすかな嘲りが混じった。自由都市の商人から見れば、小国の若い実業家など——子供の遊びにしか見えないのだろう。


「銀行の運営となれば計算が大変でしょう。どうされています?」


 試すような問いだ。アルヴィンは表情を変えなかった。


「それほどでもありません。借方と貸方のバランスを見ていれば、事業の健全性は一目で分かります」


 バルトロメオの指が止まった。


「ほう。貴行では複式簿記を採用されているのですね。それは進んでいる」


 嘲りが消えている。声のトーンが変わっていた。リミニの商人たちが使いこなしている複式簿記を、エアルの若い男が原理から理解している。それだけで——一段、目線が上がった。


「でも、銀行ではたくさんの国民から預金を預かっているとか。それでは国民が一度に預金を引き揚げたら、どうされます」


 鋭い質問だった。取り付け騒ぎ。銀行にとって最も恐ろしいリスクを、バルトロメオは正確に突いている。


「私たちは常に数ヶ月先の現金収支(キャッシュフロー)を管理していますから。そこはご安心を」


「どういうことでしょう」


「つまり——儲けと、手元の金は、別物ですよね」


 アルヴィンの声が、少しだけ低くなった。阿久津の声だ。


「売掛が溜まれば帳簿上は利益が出ていても、現金がない。我々はそれを管理しています」


「一体、どうやって管理を?」


 バルトロメオが身を乗り出した。指がテーブルを叩く速度が上がっている。興奮している。キャッシュフロー管理——利益と現金を分けて把握する概念は、阿久津の世界では19世紀にイギリスで初めて体系化されたものだ。中世の商人にとっては、存在しない発想だった。


 そこに、リーナが落ち着いた声で加わった。


「月次で入金と出金の予定表を作成しています。三ヶ月先まで」


 バルトロメオが驚いた顔でリーナを見た。


「秘書殿もこの計算を?」


「銀行の通帳を管理するのが私の仕事ですので」


 リーナの声に震えはなかった。自分が発案した魔法通帳の仕組みを、毎日運用している。それは事実だ。


 バルトロメオの目が変わった。アルヴィンだけではない。この秘書も——分かっている。


「まぁ、立ち話も何ですから。あちらの席にどうぞ」


 アルヴィンが促すと、バルトロメオは頷いた。歩きながらも二人は話し込んでいる。キャッシュフローの予測方法、入金の確度による重み付け——バルトロメオの質問が止まらない。


 アルヴィンは心の中で笑った。一人目、確保。

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