第43話 グラリキスの花の下で
飲み比べの興奮が冷めやらぬ中、アルヴィンとリーナは給仕たちを従えて賓客の間を歩いていた。
ゴールデンフィールドの陶器瓶を手に、グラスを配っていく。飲み比べを見た客たちは、あの琥珀色の液体に興味津々だ。
「これが王女様が飲んでいた酒か」
「蒸留酒と言っていたな。麦から作ったと」
「一口もらおう」
次々と手が伸びる。これまで世界に存在しなかった蒸留酒を、国賓たちが初めて口にしていく。驚きの声が上がり、グラスを見つめ、もう一口と求める。アルヴィンの実業家としての存在が、自然と認知されていった。
アリアドネの前に来た時、アルヴィンはグラスを差し出した。
「どうぞ」
「ありがとう」
アリアドネがグラスを受け取り、琥珀色の液体に目を落とした。静かな目だ。一口含んで——かすかに眉を動かした。
「これは蒸留酒ですね?」
「よくご存じですね」
アルヴィンが答えた。普通の客なら驚くところだが、この女性は蒸留の概念を知っている。さすがはアルカディア——魔法だけでなく、化学にも通じているのだろう。
「このたび完成した、ゴールデンフィールドというウィスキーです」
アリアドネの紅い目が、アルヴィンの顔からリーナの胸元に移った。魔法使いの刺繍を捉えている。
「お目にかかれて光栄です、議長閣下。私は実業家のアルヴィン・フェルトナーと申します」
「私は秘書のリーナ・ヴァイス・フローラと申します」
リーナが落ち着いた声で会釈した。
アリアドネの目がわずかに柔らかくなった。
「魔法学校の卒業生が国外で活躍しているのを見ると——嬉しいものですね」
◇
「アリアドネ議長」
呼びかけながら、ナディールが歩いてきた。
「宰相閣下」
アリアドネが会釈する。
「お話したいことがあります」
ナディールは頷いた。二人は賑わうテーブルを離れ、少し遠くにぽつんと立っている一本のグラリキスの木の下へ歩いていった。
それを見送りながら、アルヴィンがリーナに小声で聞いた。
「何か感じたかい?」
「いいえ」
リーナが首を振った。だがその顔に、困惑が浮かんでいる。
「でも——おかしいのです。議長からは魔法の気配がしませんでした。強力な魔法使いのはずなのに——何も」
アルヴィンは二人をじっと見つめた。
何も感じないということは、二つのうちどちらかだろう。魔法を持っていないか——あるいは、リーナの探知を超えるほどの力で、完全に隠しているか。
◇
離れたグラリキスの下で、ナディールとアリアドネは向き合っていた。
白い花が二人の間に舞い落ちている。周囲に部下はいない。黒仮面の護衛も、ナディールの随行者も、遠くに下がらせてある。
「先日お約束した、魔導物質の話をさせていただきたいのです」
アリアドネが切り出した。声は静かだが、はっきりとしている。
「内密なお話なのですね」
「重要なことです」
アリアドネはグラスの中の琥珀色を一瞥してから、真っ直ぐにナディールを見た。
「魔導物質は、魔法を何倍にも増幅させて——消える。そういうものです。それが貴国の地下に埋まっている」
ナディールは黙って聞いている。父の記録から知った内容と一致する。だが、それをこちらから言う必要はない。
「それを手に入れて、魔法評議会はどうするつもりなのですか」
「厳重に管理したいだけです」
アリアドネの声に、わずかな熱が込められた。
「宰相閣下もご覧になったでしょう。聖シュタインの軍事パレードを。あの国に魔導物質が渡れば、どうなるか」
ナディールの脳裏に、パレードで見た光景が蘇った。魔法部隊が鎧の山を溶かしてみせた、あの圧倒的な力。あれに魔導物質が加われば——。
「確かに。恐ろしいことになりますね」
「自由都市リミニも動いている」
アリアドネの声が低くなった。
「あの国は、魔法使いを道具としか思っていません。魔導物質が何に使われるか——想像もつかない」
風が吹いて、花びらが二人の間を横切った。
「我々が貴国に魔導物質の独占契約を迫ったことが、各国を動かしてしまった可能性があります」
閣議に取り上げられたことで、オットー財務卿からリミニとセルヴィアへ。
ナディールは息を呑んだ。これは我が国の問題なのに、アリアドネが自らの非を認めている。これは——予想していなかった。
「なるほど」
「そして申し上げにくいのですが」
アリアドネは花びらに目を落とした。
「エアルは弱い。聖シュタインの軍事力にも、自由都市の経済力にも太刀打ちできません。貴国が魔導物質を手にすれば——奪われると思います」
突き刺すような言葉だったが、嘘はなかった。ナディールにも分かっている。エアルは弱い。それは事実だ。
「否定は出来ません」
ナディールは静かに答えた。
「魔導物質を安く買いたいなら、その重要性は伏せておいた方がいい。それをここまで開示していただけるとは」
アリアドネの目が、わずかに動いた。
「探り合いを続けていては、話が進みません。よくお考えください」
ナディールは深々と頭を下げた。白い花びらが、背中に降りかかる。
「ありがとうございます。実は——我々も魔導物質の研究を始めています。貴方の信頼に応えられるよう、検討させていただきます」
顔を上げると、アリアドネの表情がわずかに柔らかくなっていた。鉄の仮面のような議長の顔に、初めて人間の温度が差した。
「先ほど——実業家の方が、魔法使いの秘書を連れていましたね」
話題が変わった。声のトーンも軽くなっている。
「エアルでは、魔法使いが生き生きしていますね」
「ああ、リーナですね。貴国で学んだ娘です」
ナディールは少し誇らしい気持ちで答えた。
「そういえば」
アリアドネが空を見上げた。白い花の向こうに、青い空が広がっている。
「貴方の父上——フリードリヒ様も、若い頃にアルカディアで学ばれました。お父上の魔法をご存じですか」
ナディールの心臓が、一つ跳ねた。
「いいえ。魔法の研究をしていた、としか」
「召喚魔法です」
アリアドネは花びらを見つめたまま、穏やかに言った。
「小さな精霊を呼ぶ、可愛らしい魔法だったと記録されています」
召喚魔法。
ナディールの頭の中で、何かが繋がりかけた。
蒸留所の天井を突き破る光の記録。「天にも届くような光が」と木こりは言っていた。父が全てのアルカーナムを使って何かをした、あの夜。召喚魔法を使う男が、魔導物質の力を借りて——何を、呼んだのか。
リーナが言っていた。「潰える命に強い意志が宿る。魔法の基礎に、そういう原理がある」と。
「召喚魔法ですか……」
ナディールは言葉を選びながら答えた。
「貴重な情報をいただき、ありがとうございます」
頭の中で、まだ繋がりきらない点と点が揺れている。だが、確かな手応えがあった。父の研究の、最後の一片に——近づいている。
◇
満開のグラリキス。
白い花の下で、賓客たちが笑い、語り合っている。ゴールデンフィールドのグラスが傾けられ、春の風が花びらを運んでいく。
コンラートはまだテーブルに突っ伏していた。エリザベートがその横で、何事もなかったかのように別の客と談笑している。ハインリヒ皇太子がグラリキスの花を眺めながら、上機嫌でゴールデンフィールドを味わっている。
アルヴィンとリーナは、ゴールデンフィールドを配りながら来賓の間を観察し続けていた。——十人委員会の来訪に備えた、下準備だ。
ナディールはアリアドネとの対話を終えて、宴の場に戻った。
花見を兼ねた視察と大外交イベントは、まだ始まったばかりだ。明日には自由都市リミニの十人委員会が来る。ロレンツォが来る。金貸しイサッコを操り、遍歴の騎士ファブリツィオを送り込んできた、あの毒蜘蛛が——自ら、この地に足を踏み入れる。
だが今は——春の光の中で、確かな一歩が踏み出されたことを、ナディールは感じていた。
アルカディアとの間に、信頼の糸が結ばれた。聖シュタインとの関係も、街道の視察を通じて安定に向かっている。
頭上では、グラリキスの花が風に揺れていた。白い花びらが、まるで雪のように空を舞い、春の光を受けてきらきらと光りながら——ゆっくりと、地上に降りてくる。
冬は終わった。
新しい季節が、始まろうとしている。




