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第42話 バックヤードの戦い

 歓声が上がった。


 テーブルを囲む人垣から、どっと笑いが起きた。鉄剣聖コンラート・フォン・アイゼンが十四杯目のゴールデンフィールドを空け、かろうじて直立を維持している。向かいでエリザベート王女が十五杯目のグラスを掲げ、にっこりと笑っていた。


「さぁ、十五人目です」


「……」


 コンラートは無言でグラスを受け取った。この決闘を引き受けた自分を呪いながら。


 ハインリヒ皇太子が腹を抱えている。賓客たちが笑い声を上げている。ナディールが額に手を当てている。アルヴィンとリーナが人混みに紛れて情報収集をしている。


 誰も気づかなかった。


 大きな茶色い犬が、静かにテーブルの輪から離れていくのを。


 ◇


 マックスは、鼻で世界を見ていた。


 花の匂い。酒の匂い。土の匂い。汗の匂い。肉の焼ける匂い。これだけの人間が集まれば、匂いだけでその場の全てが分かる。誰が緊張しているか。誰が酔っているか。誰が——何かを隠しているか。


 それを見つけた。


 花びらが舞う方向と逆に流れてくる、ひとすじの匂い。油と革と、もうひとつ——マックスが忘れかけていた匂いだった。帝国の厳しい訓練で覚えさせられた、そして本能が「危険」と告げる、化学的な刺激臭。


 それは料理を作る天幕の方向から漂っていた。


 マックスは歓声に見向きもせず、鼻先を低く下げて、地面の匂いの筋を辿った。


 ◇


 料理の天幕の裏に、男がいた。

 

 給仕の格好をしていた。手際よく盆を持ち、会場の端を歩いている。どこから見ても普通の給仕だ。目立たない。急がず、周囲に合わせた動きが身についていた。

 

 男は懐に小瓶を持っていた。食べ物に混ぜれば、二日後に発熱する。三日後に臓器を損なう。暗殺ではなく「急病」として処理される、良い毒だ。これを聖シュタインのハインリヒ皇太子に、あるいはコンラートに飲ませることが、彼の使命だった。

 

 全員の目がテーブルの飲み比べに向いている今が——最高のチャンスだ。

 

 天幕の陰から料理の列に近づこうとした、その時。

 

 足元に、影が落ちた。

 

 男は目を下げた。

 

 大きな犬が、尻尾を振りながらこちらを見ていた。

 

 茶色い毛並み。ずんぐりとした体軀。舌を出して、はあはあと息をしている。大きいが、愛されている顔だ。番犬ではない。

 

 男の肩から力が抜けた。誰かの飼い犬か。宴にも慣れた犬だ。エサでもやれば退く。懐からパン屑を出して——遠くへ投げた。

 

 犬が匂いを嗅いで、ゆっくり歩いていく。

 

 よし、と男は思った。そのまま天幕へ踏み込もうとした。

 

 足元に、また影が落ちた。

 

 犬が戻ってきていた。パン屑には見向きもせず、男の足元に陣取っていた。尻尾は——止まっていた。

 

 ◇

 

 マックスは動かなかった。

 

 この男から漂う匂いが、何であるかを確かめていた。油の匂い——刃物に塗るもの。革の匂い——鞘か、あるいは手袋。そして、懐の奥からあの刺激臭。訓練で教わった毒の一つ。これを持った人間を、王女に近づけてはいけないと——理解していた。


 戦闘犬として生まれ、訓練の中で育った。あの頃の記憶は、今の生活の中に薄れていた。エリザベートの声を聞くたびに、マックスの体の奥で何かが柔らかくなっていく。花びらにくしゃみをするようになった。腹を見せて転がるようになった。


 しかし、忘れていない。体は——覚えている。


「しっし」


 男が足で払った。


 マックスは横に滑るように動いた。一歩だけ。男の蹴りは空を切った。

 

 ◇


 男の表情が変わった。

 この犬は——おかしい。さっきまでの愛嬌が消えている。丸かった瞳が、今は細く、深く、自分だけを見ている。蹴りを躱した動きに、無駄がなかった。


 男はプロだった。だから分かる。

 

 この犬も、プロだ。

  

 一歩、退いた。犬が一歩、前に出た。男は懐のナイフに手をやった。握った。しかし抜かなかった。抜いたら犬がどう動くか——読めない。


 逃げるか。しかし背後は天幕の布。左右に回り込めば、犬の方が速い。

 

 じりじりと後退する。犬が静かについてくる。吠えない。唸らない。ただ、詰めてくる。

 

 その時。

 

 犬が、横を向いた。天幕の調理場に、まっすぐ歩いていった。

 

 男は一瞬、脱出の機会だと思った——しかし足が動かなかった。犬から目が離せなかった。

 

 マックスは調理場の端に置かれた長い包丁を、音もなく抜くと口に咥えた。

 

 くるり、と振り返った。刃を口に挟んで、静かに男を見ている。


 男は思い出した。

  

 聖シュタインの戦闘犬。

 

 ずっと昔に聞いた話が、頭の中に蘇った。信じていなかった。戦場の霧の中から音もなく現れ、兵士の喉元を掻っ切っていく。犬が刃物を扱うという話もあった。眉唾だと思っていた。


 しかし今——。

 目の前の犬は長い包丁を口に挟み、刃がピンと横に伸びて光っている。

 十分に大きな牙と爪を持ちながら、これを使う意味は、効率良く、殺すため。


 男のナイフを握る手が——震えた。


 抜くか。しかし抜いた瞬間に勝負がつくのは分かっていた。距離を取りたかった。しかし後ろはもう天幕の布だ。

  

 ◇


 遠くでまた歓声が上がった。

 誰かがグラスを空けたのだろう。花びらの雨の中で、笑い声が弾けている。

 マックスの耳が、その方向に一度だけ動いた。

 

 マックスが音に気をやった瞬間に男がナイフを抜いた。素早く横に薙ぐ——マックスが低く沈んで躱した。慣れた動きだった。ナイフが包丁に弾かれて宙を舞った。その瞬間に、マックスは包丁を捨て、男の利き腕に牙を食い込ませた。

 

 男が声を上げた。


 また歓声が重なって、かき消した。


 地面に引き倒された。背中から地面に落ちて、息が詰まった。起き上がろうとした——できなかった。体重のある犬が胸の上にいた。


 包丁が、顔のすぐ横の地面に刺さっていた。


 マックスが、男の喉元に顔を寄せた。


 一声だけ、唸った。腹の底から出る、低い声。男は動けなかった。その意味が分かった。


 動けば命は無い——。


 聖シュタインの戦闘犬は本当に存在した。


 ◇


 料理人たちの通報で、真っ青になったブラント軍務卿が配下を連れて天幕の裏を覗いたのはそれから間もなくだった。


 ブラントが、固まった。


 地面に男が伏している。その胸の上に、大きな犬が乗っている。そばの地面に包丁が刺さっている。男の手首から、少し血が出ている。地面には小瓶の割れた破片と、何か液体が染み込んだ跡があった。


  ブラント軍務卿が割れた小瓶を一瞥し、液体の匂いを嗅いだ。男の顔を確認した。

 

 マックスが、ブラントを見た。


 ブラントが頷いた。


 マックスが、男の上から退いた。


 兵士たちが素早く男を取り押さえ、天幕の裏から引き出した。音を立てずに。誰の目にも触れずに。ブラントは割れた破片を布で包み、懐にしまった。重要な証拠だ。


 それからマックスの前脚に目をやった。ナイフで引いたのだろう、薄い傷が一本あった。血は止まっている。たいしたことはない。


 ブラントは、しゃがんだ。


 カイゼル髭の下で、口元が動いた。


 「よくやった」


 大きな手が——マックスの頭に、一度だけ乗せられた。


 ◇


 宴の方では、まだ歓声が続いていた。


 二十一杯目のグラスが空になった後、コンラートの体が静かにテーブルに沈んだ。ハインリヒ皇太子が笑い転げ、賓客たちが拍手を送った。エリザベートは楽しそうに客の間を回りながら更に杯を重ねている。


 そこへ——大きな体が駆け寄ってきた。


 マックスが尻尾を千切れんばかりに振りながら、王女の足元に突進してきた。


「あら! マックス、どこへ行っていたの」


 エリザベートがしゃがんで抱きしめた。顔を埋める。毛並みに頬を押しつける。顔を上げると酔った頭で、マックスの目を見る。見つめ返してくるいつもの丸い優しい目。


 でも王女には分かった。


「マックス」


「……戦ってきたのね?」


 マックスは答えなかった。

 

 ただ、エリザベートの頬を舌で舐めた。

 

 誰と戦ったのか?酔った頭では、うまく考えられなかった。難しいことは明日でいい。ただ思い切り頭を両手で挟んで、繰り返した。


「えらい。えらい、えらい」


 マックスが嬉しそうにその声を聞いている。尻尾が大きく揺れる。


 グラリキスの花びらが、二人の上に降り積もっていた。


 白い花の下で——誰も知らない戦いが、静かに終わった。

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