第41話 琥珀色のチェイス
グラリキス街道。
春の朝だった。
エアル王家と各国要人の馬車が、街道に沿って列をなして進んでいく。冬の間は灰色の枝ばかりだった並木が、今は別の姿を見せていた。
グラリキスの木だ。
真っ白な花が、枝という枝に咲き乱れている。一本一本の木が花の塊のようで、それが延々と街道の両側に続いている。真っ青な空を背景に、白い花びらが風に乗って舞い上がり、陽光を受けてきらきらと光りながら落ちていく。
馬車の窓を開けたナディールは、思わず息を呑んだ。
グラリキスの見事なあたりに街道を開くと素敵だ、いうエリザベート王女の言葉から全てが始まった。あの時は軍用道路の問題で頭がいっぱいで、景色のことなど考える余裕はなかった。
だが——今、目の前に広がる光景を見ると、王女の直感は正しかったのだと認めざるを得ない。これは確かに、人を呼べる景色だ。
「まぁ、なんて綺麗——!」
前の馬車から、甲高い声が聞こえた。金色の髪とが窓から大きく身を乗り出している。傍らには茶色の犬が窓に足をかけ楽しそうに吠えている。
「およしなさい、落ちますよ」
ナディールが窓越しに声をかけたが、エリザベートは聞いていない。白い花びらが風に舞って、王女の金髪とマックスの頭に降りかかっていく。
別の馬車では、正装のアルヴィンとリーナが並んで座っていた。リーナは窓の外を見つめたまま、小さく微笑んでいる。青いスーツの胸元で、魔法使いの刺繍が春の光を受けていた。
街道の所々に衛兵が立ち、黒い軍馬に跨ったブラント軍務卿が隊列の前後を行き来している。カイゼル髭を風になびかせ、警備に余念がない。国賓を迎える日に失態は許されないのだ。
やがて馬車が止まった。
目の前には、ひときわ大きなグラリキスの老木がそびえている。幹は三人がかりでも抱えきれないほどの太さで、枝は天蓋のように広がり、その下に白い花の影を落としていた。
その周囲では、もう準備が始まっていた。白い天幕が張られ、長いテーブルが並び、料理人たちが竈に火を入れている。ゴールデンフィールドの陶器瓶が詰まった木箱が、いくつも運び込まれていく。
◇
最初にやってきたのは、聖シュタインの一行だった。
金と黒で彩られた重厚な馬車が、街道の向こうから姿を現した。護衛の騎士が左右に並び、その威容だけで大国の格を示している。
馬車の扉が開き、ハインリヒ皇太子が降り立った。父カール皇帝の獣めいた眼光とは対照的な、落ち着いた目をした男だ。皇帝の誕生祭で見た時と同じ——知性と節度を感じさせる物腰だった。
続いて降りたのは、鉄剣聖コンラート・フォン・アイゼン。長身で引き締まった体躯に、簡素だが仕立ての良い軍服を着ている。決闘二十一連勝の騎士団長にしては穏やかな顔立ちだった。
「お出でいただいて、光栄です」
ナディールが進み出て、深く頭を下げた。
ブラント軍務卿も嬉しそうに——いや、軍人として敬意を込めて挨拶している。脅威であると同時に、一人の武人として尊敬する相手なのだろう。
ハインリヒ皇太子が、グラリキスの並木を見渡して微笑んだ。
「噂には聞いておりましたが、満開のグラリキスは見に来る価値がありますね。まるで天国のようだ」
「殿下。視察です」
コンラートが控えめに諫めると、ハインリヒはくすりと笑った。
「もちろん。街道は道中で確認させていただいた。立派なものです。残った区間も進めていただければ、文句はない」
「ありがとうございます」
ナディールは胸の内で安堵しながら、言葉を続けた。
「そのためには産業を興して、財政を安定させなくてはなりません。銀行に続いて——今回、新しい酒造を設立しました」
「酒、ですか」
コンラートの声に、わずかな関心が混じった。
「ええ。麦から新しい蒸留酒を作りました。後ほど、ご賞味ください」
◇
続いて現れた馬車は、他とは明らかに異質だった。
赤い帷で覆われた馬車の扉が開き、最初に降り立ったのは——真っ赤な髪に、真っ赤なコートの若い女性だった。
アリアドネ・テミス。アルカディア公国魔法評議会議長。
聖シュタイン誕生祭で初めて会った時と、印象は変わらない。美しいが、近寄りがたい。紅い髪が春の風に揺れて、コートの胸元には他の誰よりもひときわ大きな魔法使いの刺繍が施されている。
その後ろに、五人の黒いコートの人影が続いた。全員が黒い仮面をつけている。顔が見えない。名前も分からない。何の魔法を持っているかも——誰にも分からない。
グラリキスの白い花の下に、黒い仮面の集団。華やかな場に不似合いな暗い影が落ちた。
少し離れた場所から、アルヴィンとリーナがそれを見ていた。
「あれがアルカディアの議長」
アルヴィンが小声で言った。
「ええ」
リーナが頷く。
「黒仮面が場違いだな」
「アリアドネ議長の護衛です。顔を隠して誰だか分からなければ、どんな魔法を使うかも分からない。それが抑止力になるんです」
「なるほど。魔法版の覆面部隊か」
アルヴィンは目を凝らして、アリアドネの姿を観察していた。赤いコート。黒い護衛。どこまでが演出で、どこからが実力なのか——詐欺師の目が、それを見極めようとしている。
◇
ひときわ大きなグラリキスの老木の前に、来賓が集まった。
白い花が風に舞う中、エドゥアルト国王がゆっくりと前に進み出た。杖をついた老王の横に、ナディールとエリザベート王女が立っている。
「春の訪れを告げる満開のグラリキスの前で、皆様をお迎えし、一緒に花を愛でることは、我が国の最高の喜びでございます」
老王の声は低く、しかし不思議とよく通った。
「冬は去りました。新しい街道が、新しい季節を拓きます」
風が吹いて、白い花びらが一斉に舞い上がった。まるで老いた王の言葉を祝福するかのように。
「この度の皆様との交流が、さらに新しい未来を拓くことを祈願いたします」
拍手が起こった。花びらの中で、各国の要人たちが手を叩いている。
ナディールは、その光景を見つめていた。
半年前までのエアルを思い出す。「小さな王国が、重い空気の中に挟まれている」——あの頃の閣議室の、出口の見えない空気。それが今、満開の花の下で、各国の賓客を迎えている。
まだ道は長い。だが——確かに、季節は変わった。
◇
宴が始まると、エリザベートが水を得た魚のように動き始めた。
金色の髪を風になびかせ、華やかなドレスの裾を翻しながら、賓客の間を飛び回っている。裏表のない笑顔で次々と声をかけていく。
「あれがエアルの王女様か。なんとお美しい」
「天真爛漫とはこのことですな」
賓客たちの顔が緩んでいく。
「私、本当にここの景色が大好きで——ルートヴィヒに言いましたの。ここに街道を作りましょうって」
「そのおかげで我々も花見を楽しめているわけですな。王女様に感謝せねば」
「そんな。一番感謝しているのは私です。皆様とお花見ができるなんて」
ナディールはそのやりとりを少し離れた場所から見ていた。変わらない王女の天然ぶりだが、今日はそれがこの場に合っている。計算のない明るさが、国際外交の緊張を和らげている。
頃合いを見て、ナディールが声をかけた。
「エリザベート王女」
振り返る金色の髪。ナディールの横にはハインリヒ皇太子とコンラートが立っていた。
「あら、失礼いたします」
王女は話していた客たちに丁寧に挨拶をしてから、くるりと向きを変えた。
「こちら、エリザベート王女。こちらは聖シュタインのハインリヒ皇太子と、鉄剣聖コンラート殿です」
「初めてお目にかかります」
エリザベートがドレスの裾をつまんで、軽やかに挨拶をした。
ハインリヒ皇太子が笑った。
「私は初対面ではないのですよ。貴方がまだ五歳の時に、お会いしている」
「あら——そう言われれば、記憶にあるような」
「あの時はいきなり頭によじ登ってきて、驚いたものです」
ナディールが額に手を当てた。マックスの件といい、この王女は幼少期からこの調子だった。
「それでは今日はよじ登るのはやめておきますわ」
エリザベートはにっこり笑って、今度はコンラートに向き合った。
「お噂はうかがっております。どんなに恐ろしい方かと思っていましたが——お優しいお顔立ち」
「お目にかかれて光栄です」
コンラートが丁寧に頭を下げた。決闘二十一連勝の騎士団長も、この王女の前では少し戸惑っているように見える。
「歴戦のコンラート殿と、ぜひ新しいお酒をご一緒したくて」
「ああ——先ほど、宰相閣下がお話しされていた」
「ゴールデンフィールドと言います。私が名前をつけたのです」
エリザベートの目が輝いた。
「ぜひ、試飲してください」
「ええ。喜んで」
「さぁさぁ、こちらに」
コンラートの腕を取って、引っ張っていく。ハインリヒ皇太子が愉快そうに笑い、ナディールは何とも言えない顔でそれを見送った。
◇
グラリキスの大木の下に、長いテーブルが置かれていた。白い花びらがテーブルクロスの上にひらひらと舞い落ちている。
エリザベートがコンラートを席に着かせると、テーブルの上に小さなグラスを並べ始めた。一つ、二つ、三つ——その数が十を超え、二十を超え、なお並べ続ける。
そして——トン、とゴールデンフィールドの陶器瓶を置いた。
「皆で乾杯するのですね」
「いえいえ。私たち二人の分です」
コンラートの表情が固まった。
「それは……試飲でしょうか」
「一口では、お酒の良さは分かりませんわ」
にっこりと笑う王女。その笑顔の底が、まるで見えない。
「飲み比べだ」
「王女様と聖シュタインの鉄剣聖が飲み比べをされるそうだ」
「大丈夫なのか、あれは」
噂が広まるのは一瞬だった。テーブルの周囲に賓客たちが集まり始める。ナディールが頭を抱えた。
「面白い」
ハインリヒ皇太子が声を上げた。
「鉄剣聖コンラート、わが騎士団の強さを見せよ。勝てば褒美をとらせるぞ」
焚きつけている。完全に娯楽として楽しんでいる。コンラートが皇太子を恨みがましい目で見たが、主君の命令は絶対だ。
「決闘に二十一連勝のコンラート様に——二十一のグラスをご用意しました」
「二十一杯ですか」
「さぁ、一人目」
エリザベートがグラスを掲げた。コンラートもつられてグラスを持ち上げ——二人揃って、一気に飲み干した。
コンラートの目が見開かれた。
麦の味。だが——火のような酒だ。喉を焼き、胃に落ちて、体の芯が熱くなる。こんな酒は、飲んだことがない。
「さぁ、二人目です」
間を置かずに、次のグラスが掲げられる。
観衆の間に笑いと歓声が広がっていく。花びらが舞い、酒が注がれ、二人がグラスを重ねていく。
アルヴィンはその光景を少し離れた場所から眺めていた。全員の注目がエリザベートとコンラートに向いている。
その隙に——リーナが目立たないように客の間を歩き、観察していた。
「あっちで、聖シュタインの文官がアリアドネ議長に接触しているな」
アルヴィンが小声で言うと、リーナが頷いた。
「探ってきます」
リーナがさりげなく移動していく。青いスーツの背中が、人混みに紛れた。
王女の天然が——結果的に最高の陽動になっている。ナディールには申し訳ないが、あの飲み比べのおかげで、こちらは自由に動ける。
「いよいよ十人目!」
観客たちが歓声を上げた。エリザベートは飲むほどに陽気になっている。コンラートは——ふう、と息を吐き、自分に気合を入れて、グラスを空けた。
その後も、一杯、また一杯とグラスが重なっていく。コンラートの顔が赤くなり、目の焦点が少しずつぼやけていく。だがエリザベートは——頬がほんのり桜色になっただけで、笑顔に変わりはなかった。
楽しそうに見つめるハインリヒ皇太子と、何とも言えない顔のナディール。
そして——最後の二十一杯目に辿り着いた。
テーブルの周囲が静まり返る。グラリキスの花びらだけが、音もなく舞い落ちていた。
「あはは。二十一人目。乾杯」
二人がグラスを空けた。コンラートが混濁する意識の中で、何とか笑顔を作った。やっと——終わった。どの決闘よりも長い戦いだった。
「私たち、やり遂げましたー!」
一同から盛大な拍手が送られた。花びらの雨の中で、エリザベートがにっこり笑う。
そして——空いた二十一のグラスに、また琥珀色の液体を注ぎ始めた。
「一体、何を」
「第二戦です。参りましょう。コンラート様も未踏の二十二人目!」
それを聞いた瞬間、コンラートの体を絶望感が満たした。どの決闘でも——剣を構えた相手の前でも味わったことのない、底の知れない恐怖。
この女性には——底がない。
コンラートの意識が、静かに途切れた。
テーブルに突っ伏した騎士団長の横で、エリザベートがきょとんとしている。
「あら……もう少し飲めると思ったのに」
ハインリヒ皇太子が腹を抱えて笑った。ナディールは頭を抱えた。花びらが、次々に降ってくる。




