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第40話 アルカーナム


 カラカス地方。


 蒸留所の薄暗い倉庫に、ウィスキー樽がずらりと並んでいる。木の香りと、かすかな甘い匂いが空気に溶けている。


 その列の前に、ルカが立っていた。小さな体が大きな樽に向き合っている。両手を前に伸ばし、ゆっくりと手を回していく。一度、二度、三度——丁寧に、根気よく。


 やがて、新品だった樽の木肌がわずかに飴色を帯び始めた。隣の樽と見比べれば、その違いは歴然としている。その樽の中では無色透明だった原酒が、少しずつ琥珀へと染まっていく。


 老化魔法。時間を進める魔法。使い道がないと言われ続けた力が、ここでは酒を育てている。


 ルカは額の汗を拭い、次の樽に向かった。何十もの樽が待っている。地道な作業だ。だが、この地道な繰り返しが、無色の液体を魅惑的な琥珀色の飲み物に変えていく。


 ◇


 同じ蒸留所の実験室、石の壁に囲まれた小さな部屋に、シャドーキャビネットの魔法使いたちが集まっていた。


 リーナが羊皮紙の束を広げ、蒸留の準備を進めている。先王フリードリヒが残した、アルカーナムに関する実験記録だ。その几帳面な文字を何度も読み返した。数ヶ月かけてようやく解読し、再現にこぎつけた手順書でもある。


 魔導物質アルカーナムは、このカラカスの大地から採掘される。水には溶けないが、温水に溶け出す。それを蒸留することで、純粋な結晶を得ることができる——記録にはそう書いてあった。


 フリードリヒ王が残した採掘記録を頼りに、冬の間に掘り出したアルカーナムの白い層。それを細かく砕き、湯に溶かし、実験室の小さな蒸留窯にかける。


 蒸気が銅の管を巡り、冷却されて凝縮していく。その先端に——ほんのわずかに、白い粒が析出した。


「……ようやく、出ました」


 リーナの声が、静かに震えていた。


「これが——凝縮アルカーナムです」


「長かったー」


 カッシオが椅子の背もたれに体を預けて、天井を仰いだ。


「途中で心が折れそうになったけど、折れずに続けて良かった」


 エルネストが身を乗り出して覗き込んだ。興味深そうに手を近づけると——守護魔法がふわりと光った。普段よりずっと明るい。琥珀色のランプのような温かい輝きが、石壁の部屋を照らす。


「いやぁ……これは」


「触らないでください」


 リーナが慌てて制した。


「消えますから」


「じゃあ、どうすれば」


 カッシオが首をかしげる。


「触れないなら、運ぶこともできないですよね」


 エルネストが困った顔をした。


「周りを蝋で固めるのはどうかな」


 カッシオの提案に、リーナが頷いた。


「やってみましょう」


 三人の魔法使いが白い粒を囲んで、次の手順を相談し始める。先王が一人で進めていた研究を、今は三人の若い魔法使いが引き継いでいる。あと一歩のところまで辿り着きながら果たせなかった父の研究が、息子の仲間たちの手で、ようやく実を結び始めていた。


 ◇


 エアル王宮、ナディールの執務室はいつも通り、書類の山に囲まれていた。だが以前のような鬱屈した空気はない。窓から差し込む春の光が、羊皮紙の束を明るく照らしている。


 アルヴィンとフェルディナントが、向かいの椅子に座っていた。


「リーナたちが、アルカーナムの蒸留に成功したそうだ」


 アルヴィンが報告すると、ナディールは静かに頷いた。


「そうか。方法が分かれば、いずれは量産用の蒸留器でも作れるようになるな」


「ああ」


 アルヴィンはそこで声のトーンを変えた。


「ところで——状況を整理しておきたい」


 椅子に深く座り直す。冷静な阿久津の目だ。


「イサッコは自由都市のロレンツォに地図を渡され、カラカスの土地を買収しようとしていた。ロレンツォの目的は——当然、アルカーナムだ」


 ナディールもフェルディナントも、黙って聞いている。


「だが、ナディールさえ、最近までアルカーナムのことをよく知らなかった。オットー財務卿から漏れたわけでもない。それなら——なぜロレンツォはアルカーナムを知っているのか」


「アルカディアからでしょうか」


 フェルディナントが眼鏡を押さえながら言った。


「アルカディアは我が国に魔導物質の独占契約を求めています。アルカーナムの情報がリミニに漏れた経路として、最も可能性が高いのでは」


「その線は一つあるな」


 アルヴィンが頷いた。


 ナディールが腕を組んで、少し考えてから口を開いた。


「もう一つは父だ。先王フリードリヒは、研究と蒸留所の建設に自由都市から金を借りている。当時の窓口はロレンツォだった」


「なるほど」


 アルヴィンの目が光った。


「金を貸した相手が何に使うか——調べるのは当然だな。それなら大まかな採掘場所を知っていてもおかしくない」


「アルカディアが魔導物質の独占契約を結ぶ前に土地を押さえて、高く売りつけるという計画でしょうか」


 フェルディナントがまとめると、アルヴィンは肩をすくめた。


「それなら、土地は取り返したから一安心ではある。だが——まだ何か仕掛けてくるだろうな」


 ナディールが窓の外に目をやった。春の空が高い。


「グラリキス街道の視察には、各国の要人を招く。当然、自由都市の十人委員会議長であるロレンツォも含まれる。あの男のことだ——自分で乗り込んでくるだろう」


「黒幕とご対面というわけだ」


 アルヴィンの口元が、かすかに上がった。


「十人委員会というのは、供託金を積んだ上で運用成績が良い者が議長になる仕組みだったな。まるでヘッジファンドだ」


「ヘッジファンド?」


 ナディールが聞き返したが、アルヴィンは説明を省いた。


「いずれにせよ、議長の座はここ十年間、ロレンツォが独占している」


「ああ。だが——互いに競い合っているところに、つけいる隙がある」


「具体的には?」


「まぁ、お楽しみだ」


 悪魔憑き作戦の時と同じ台詞だった。だが、ナディールはもう疑わない。この男はやると言えばやるのだ。


「十人委員会の全員を招待してほしい。俺が一人一人と会って、仕込みをする」


 ナディールとフェルディナントが顔を見合わせた。それから二人の視線が、アルヴィンの服装に落ちる。


 いつもの、くたびれた麻の上着。擦り切れた袖口。泥のついた革靴。


 ナディールが口を開きかけたが、フェルディナントが先に言った。


「その格好で、自由都市切っての富豪たち、十人委員会と会うおつもりですか」


 アルヴィンが自分の袖を見て、黙った。


 ◇


 酒場「金色の麦」の二階にはシャドーキャビネットの七人が揃っていた。狭い部屋に椅子を寄せ合い、いつもの丸テーブルを囲んでいる。


 ナディールが立ち上がって、全員を見渡した。


「ということで、グラリキス街道の視察には、アルヴィンにも参加してもらう。有力な若手実業家という触れ込みだ」


 エルネストが目を丸くした。カッシオが首をかしげる。


「ゴールデンフィールドを開発した酒造家で、その宣伝のためにやって来た。そして宰相の友人であり、銀行の設立にも携わっていると、」


 ナディールは一拍置いてから、付け加えた。


「まぁ——本当のことだ」


「アルヴィン」


 声をかけると、隣の部屋の扉が開いた。


 全員が、あっ、と声を上げた。


 入ってきたのは——いつものアルヴィンではなかった。


 細かい繊維で織り上げられた深い藍色の上着が、ランプの灯りを受けてつやつやと光っている。白いシャツの襟がきちんと折られ、銀の小さなブローチが胸元で控えめに光る。仕立ての良いズボンにはぴしりと折り目がつき、磨き込まれた革靴が床を踏む音まで違って聞こえた。


「どうかな?」


 アルヴィンが少し照れたように言った。照れている時点で、まだアルヴィンだ。


「似合わない」


 カッシオが即座に言った。


「落ち着かないですね」


 ルカが首を振りながら、遠慮なく感想を述べた。


 アルヴィンが苦い顔をする。しかし次の瞬間——襟に手をやり、すっと姿勢を正した。


 空気が、変わった。


 肩の力が抜け、背筋が自然に伸びる。目つきが変わる。口元に浮かぶのは、余裕のある微笑。前世で富裕層とやり合ってきた阿久津蓮の目が——静かに蘇った。


 同じ服、同じ体なのに、まるで別人だった。ランプの灯りの中に立つその姿には、落ち着きと色気が漂っている。


 リーナが息を呑んだ。


「アルヴィンさんって、きっと——そういう人だったんですね」


 声が、少しだけ震えていた。この酒場でナディールが初めてアルヴィンを見た時——泥と血まみれなのに、立ち姿が堂々としていた。、まるで高級な服を着ているようだと思った、あの時の感覚だ。今は本物の良い服を着ている。纏う空気に、服が追いついた。


「何を他人事みたいなことを言ってる」


 阿久津の目のまま、アルヴィンがリーナを見た。


「リーナも、そういう人になるんだよ」


「え?」


「実業家が秘書も連れずに一人で歩けないだろう。これを着てみてくれ」


 アルヴィンが部屋の隅に置いてあった白い衣装箱を開けた。中から現れたのは、清楚な青いスーツだった。落ち着いた藍色——アルヴィンの上着より少し明るい、空の色に近い青だ。


 リーナが手に取ると、胸元にきちんと魔法使いの刺繍が施されていた。魔法学校の卒業生であることを示す、あの小さな紋章だ。


「私が、これを……」


「隠す必要はない。むしろ見せるんだ」


 リーナは衣装箱を抱えて、隣の部屋に入った。


 待っている間、誰も何も言わなかった。ルカが水を飲み、カッシオが天井を見上げ、エルネストが大きな手を膝の上で組んでいる。フェルディナントだけが眼鏡を拭きながら、何か考え事をしているようだった。


 扉が開いた。


 今度は——誰もからかわなかった。


 ほう、と誰かがため息を漏らした。


 青いスーツに身を包んだリーナが、少し緊張した面持ちで立っている。胸の刺繍が灯りを受けて、金色に光っていた。


 それは酒場の給仕でも、雑貨屋の店番でもなかった。ワインをこぼし、泣きながらエプロンを外した娘の面影は、もうどこにもない。背筋を伸ばし、真っ直ぐ前を見つめるその姿は——成長した一人の女性の佇まいだった。


「似合いますね」


 フェルディナントが、眼鏡をかけ直しながら素直に言った。


 リーナの頬がわずかに赤くなった。


 ナディールが咳払いをして、話を戻した。


「来賓の話だ」


 全員の目が集まる。


「前半は、聖シュタインからハインリヒ皇太子と鉄剣聖コンラート。アルカディアからはアリアドネ魔法評議会議長を招いている」


「後半には——自由都市リミニから十人委員会。セルヴィアからはセバスティアヌス枢機卿だ」


 フェルディナントが補足した。


「リミニを聖シュタインと同席させるわけにはいきませんからね。グラリキス街道は聖シュタインから自由都市へ向かう道です。その視察に自由都市が同席すれば——喉元に刃を突きつけられていると感じるでしょう」


「加えて、セルヴィアの聖職者とアルカディアの魔法使いも一緒にはできない」


 ナディールが頷いた。


「前半と後半で客を分ける。それぞれに合わせた、もてなし方をする」


「つまり——俺の出番は後半か」


 アルヴィンが言った。ナディールが頷く。


「前半はゴールデンフィールドを提供した酒造として動いてくれ。後半には、様々な商機をかかえた実業家として十人委員会と向き合ってもらう」


「我が国からは、エドゥアルト王に初日のご挨拶だけしていただいて、後は私とエリザベート王女が来賓をおもてなしする」


「あの——天然王女か」


 アルヴィンが呟くと、ナディールは何とも言えない顔をした。



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