第39話 ゴールデンフィールド(金色の畑)
翌朝。カラカス地方、蒸留所。
先王フリードリヒが建てた蒸留所の入口で、アルヴィンが待っていた。何やら上機嫌だ。目が子供のように輝いている。
リーナとルカが歩いてくると、アルヴィンは両手を広げた。
「よく来てくれた!」
「はじめまして。ルカ・メッツァーニと言います」
ルカが丁寧に頭を下げる。アルヴィンはルカを上から下まで見て、ぽつりと言った。
「アルヴィンと呼んでくれ。しかし——君は若いな」
「アルヴィンさん!」
リーナがたしなめたが、ルカは手を上げて制した。
「慣れていますから大丈夫です。。老化魔法を使うと——若返ってしまうんです。特に——人に使うと」
「魔法の等価交換ってやつか。そうなると、やたらには使えないな」
「生きていない物にかける時は——ほとんど影響はありません」
「なるほど」
安心してため息をつくと、アルヴィンの目の色が変わる。好奇心に満たされる。
「ちょっとついて来てくれ」
三人で蒸留所の中を進んでいく。石の床、銅の管、木の梁。冬の光が窓から差し込む中を歩き、ルカが足を止めた。目の前に巨大な蒸留窯がそびえている。銅の表面がきらきらと光を反射していた。
「こんなの——初めて見ました。何ですか、これ」
声が少年のように弾んでいる。
「蒸留器だ。物の成分を——抽出する。そしてこれを使って出来たのが——こっちだ」
アルヴィンが奥の扉を開けた。
薄暗い大きな倉庫に、酒樽がずらりと並んでいた。列が何本も、奥が見えないほどだ。木の香りと、かすかな果実のような甘さが三人を包んだ。
「いつの間に——こんなにたくさん」
リーナが目を丸くした。
「お酒……ですか?」
ルカが樽の一つに手を触れた。
「ああ」
アルヴィンが樽の列を案内しながら歩く。右の列を示して「こっちが葡萄から作られるブランデー」、左の列を示して「こっちが麦から作られたウィスキー。中身が濃いから腐らない、長持ちする。何十年、何百年と」
アルヴィンは近くの木箱から紙を取り出し、ペンを走らせ始めた。線を引き、数字を書いていく。
「ワインやビールを遠い国に売るのは——水を運ぶようなものだ。輸送費の方が高くつく」
原価の線、輸送費の線、市場価格の線。二本の線が交差する。
「いくらエアルで麦が取れても——輸送費で、すぐに損益分岐点を切ってしまう。ところが蒸留酒なら——市場価値は上がり、重さあたりの輸送費が劇的に下がるから、経済圏が広がる」
ルカが紙を覗き込んでいる。目が真剣だ。二十五歳の目をしている。
「その範囲は——二千五百倍。大陸中で、販売が可能となる」
「自分が飲みたいだけじゃなかったんですね」
リーナが真剣な顔で言うと、アルヴィンがちょっと睨んだ。リーナは平然と笑っている。
「ただ——別の問題がある」
アルヴィンの声が真剣になった。
「特にウィスキーは——蒸留してから熟成させる必要があるんだ。最低でも三年。本当は——十年は欲しい」
樽の列を見渡す。
「でも——この国には、十年を待つ余裕がないんだ」
沈黙が訪れた。並んだ樽の中には、まだ若い無色透明の原酒が眠っている。飲めるようになるまで何年もかかる。でも、この国にその時間はない。
ルカがアルヴィンを見た。
「……そういうことですか」
小さな声だが、事情を悟った声だった。
アルヴィンは真っ直ぐにルカを見た。
「この樽を——老化させられるかい?」
ルカの目が見開かれた。
老化魔法。使い道のない魔法。人に使えば自分が若返る。建物に使えば崩れ落ちる。誰にも必要とされなかった力だ。
「樽を——老化」
ルカが繰り返した。声がかすかに震えている。
「そうだ。人じゃない。木だ。木の中で——酒が眠っている。その時間を——進めてくれ」
ルカは一つの樽の前に立った。小さな体の前に、大きな樽。
「やってみましょう」
声はもう震えていなかった。
両手を樽に向けて、手を回し始める。一度、二度、三度。ゆっくりと、丁寧に。小さな手が空気を撫でるように動いている。
一分、二分、三分。なかなか変化は現れない。ルカは手を回し続けている。額に薄く汗が浮いていた。
五分。
「あ——」
リーナが声を上げた。
「樽の木の色が——変わっています」
アルヴィンが目を凝らした。確かに、隣の樽と比べると色が違う。新しかった木肌が、深い飴色に変わり始めていた。
十分。
樽全体の色がはっきりと変わっていた。新品だった木が、何年も風雨に耐えたかのような落ち着いた色合いになっている。そして——倉庫の中に、甘い香りが漂い始めた。木の香り、穀物の熟した匂い。
「よし。調べてみよう」
アルヴィンが樽の栓に手をかけ、ゆっくりと抜く。グラスを栓の下に当てると、琥珀色の液体が落ちた。あの無色透明だった原酒が——見事に熟成している。
ランプの灯りに透かすと、琥珀色が光を帯びて揺れた。
一口、口に含む。オーク樽の香り。麦の甘み。そして——。
「……この国の、大地の匂いだ」
アルヴィンはグラスを見つめた。満足を超えて、感動に近い顔をしている。
「すごい。大成功だ」
ルカを見る。
「ルカ——君の魔法が、この国の酒を産業にするぞ」
ルカの手を掴んで、激しく振った。回し続けて疲れた小さな手を、ギュッと握って振り回す。小さな体が振り回されて、足が宙に浮きかけた。
「わ——ちょっと——」
でも、ルカは笑っていた。使えない魔法と言われ続けた男が、居場所のなかった男が、初めて居場所を見つけた。
魔法を使った手のひらは——赤ん坊のように、ピカピカになっている。等価交換の証だ。
リーナはそれを見ていた。自分の手のひらに目を落とす。うっすらと残る染みの跡。同じだ。この人も、代償が自分の体に出る。リーナは優しい目でルカを見ていた。
◇
数日後、王宮の中庭。
アルヴィンとフェルディナントが並んで歩いていた。アルヴィンは陶器の瓶を大事そうに抱え、フェルディナントはその横で書類を持っている。
「ナディールに見せるんだ。きっと驚くぞ」
「そうでしょうね。色の変わった樽を見た時は——私も驚きました」
その時——ワン!
茶色い毛並みが突進してきた。マックスだ。アルヴィンの腰に体当たりする。
「わ——あの時の犬か」
陶器を落としそうになったところを、フェルディナントが慌てて受け止めた。
「あら。確か……ルートヴィヒのお友達でしたわね」
金色の髪を揺らして、エリザベート王女が近づいてきた。
「これは——王女殿下」
アルヴィンが頭を下げる。だが王女の視線は、まっすぐにフェルディナントの腕の中の陶器に向かっていた。
「それは——もしかして、先日いただいたブランデーですか」
目が輝いている。アルヴィンは一瞬はっとしてから——にやりと笑った。
「これは前回とは別の、麦から作った酒で——ウィスキーと言います。自信作です」
陶器を王女に向けた。
「最初の一瓶です。どうぞ——お収めください」
「あら、いただいて良いのかしら」
王女が両手を合わせた。フェルディナントは、あ、という顔をしている。それ、ナディール様に持っていくんじゃ……。
そこへ、廊下の向こうから足音が聞こえた。
「アルヴィン、そこか」
ナディールが早足でやって来て、王女を見て立ち止まった。
「最初の一本を献上したぞ」
アルヴィンが涼しい顔で言った。
「自信作なのですって」
王女が陶器を嬉しそうに抱えている。ナディールは頭を抱えた。また王女に強い酒を渡したのか。
「お願いですから……自分のお部屋でお召し上がりください」
せめて人前では飲まないでくれ、という切なる願いだった。
「はーい」
王女は陶器を抱えたまま手を振って、マックスを連れて楽しそうに去っていった。
ナディールがアルヴィンを見る。アルヴィンは肩をすくめた。
「まぁ、飲んでもらわないと始まらないだろ」
◇
酒場『金色の麦』はいつも通り人であふれている。
カウンターの奥に、七つのグラスが並んでいた。琥珀色の液体が注がれていく。
ナディール、アルヴィン、リーナ、エルネスト、フェルディナント、カッシオ。そして——ルカ。七人がカウンターとテーブルに散らばって座っている。いつもの二階の会議室ではない。今日は、祝いの日だ。
アルヴィンがグラスを手に取った。
「ウィスキーの完成を祝して——乾……」
言いかけて、止まった。ルカを見る。小さな体、少年の顔。グラスを嬉しそうに見つめている。
「ところで——ルカは酒を飲んで良いのか?」
「私は一応——二十五歳ですが」
「でも体は十五歳だろ。成長期だ」
「児童飲酒と言われると面倒だ」
ナディールが真面目な顔で言った。
「水にしておけ」
リーナがルカのグラスを下げて、代わりに水のコップを置いた。ルカが恨みがましい目を向ける。
「私が完成させたのに……」
カッシオがルカの隣に座って、肩をポンと叩いた。
「えらいところへようこそ。だんだん分かると思うけど……」
「そうだ」
ナディールが思い出したように言った。
「エリザベート王女から——伝言があった」
全員の目がナディールに向く。
「この酒は麦畑みたいだから——金色の畑と名付けようと」
ゴールデンフィールド。
アルヴィンはグラスの中の琥珀色を見つめた。
金色の麦——この酒場の名前。金色の畑——この酒の名前。
頷いた。
「それでは」
グラスを掲げる。
「ゴールデンフィールドの完成を祝して——」
六つのグラスと一つの水のコップが掲げられた。
「乾杯」
カチン、と澄んだ音が酒場に響いた。
アルヴィンが口に含んだ。琥珀色。オークの香り。麦の甘み。この国の、大地の匂い。
百年ものの酒を飲んで——この世界へ来た。しかし、あの酒は苦かった。
今日、この世界で初めての、魔法で熟成させたウィスキーを飲んでいる。
悪くない。
仲間たちの笑顔を見つめながら、アルヴィンは思った。
悪くない人生だ。




