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第5話 雑貨屋のお仕事

 目を開けた瞬間、頭が割れるかと思った。


 二日酔いだ。昨夜ナディールと一緒に、ミードを二本空けて、ワインは何杯飲んだか覚えていない。転生してまだ二日目で、この体の酒の限界もわからないまま飲んだのだから、当然の報いだった。


「……痛い」


 質素な寝台の上で体を起こすと、見慣れない天井が目に入る。木と石で組まれた、中世そのものの内装。ここはアルヴィン・フェルトナーの雑貨屋——つまり今の阿久津の家だ。


 壁際の棚には、蝋燭や石鹸、紐に釘といった日用品が並んでいる。窓から差し込む朝日がやけに眩しい。まだ頭がずきずきしているが、のんびりしている場合じゃなかった。


「この世界での生活を、始めないとな」


 立ち上がって、アルヴィンの記憶を頼りに店の中を見て回る。一階が店舗でカウンターと商品棚。二階が住居で、寝室と小さな書斎。その書斎の棚に、一冊の帳簿を見つけた。


 手に取って、ページをめくる。この世界の文字——転生と同時に習得したらしく、問題なく読めた。売上、仕入れ、そして——。


「……ツケか」


 思わず頭を掻いた。


 農夫ヴォルフ、金貨五枚分。宿屋の店主、金貨三枚。教会、金貨二枚。食堂、金貨四枚。次々と名前が並んでいて、合計すると金貨百枚にもなる。


「お人よしと呼ばれるだけのことは、あるな」


 前世の阿久津なら、ツケで商品を渡すなど言語道断。商売の基本中の基本だ。だがアルヴィンという男は、困っている人を見ると放っておけない性格だったらしい。「今は収穫前だから」「金が入ったらすぐ払うから」——そう言われると断れない。結果、ツケは溜まる一方で、回収の見込みはほぼゼロ。


 ただし。


 前世で巨大な組織を回していた阿久津の目には、この帳簿がまったく別のものに見えていた。


 回収できない売掛金は、普通の商人にとってはただの不良債権だ。だが、やり方次第では——これは立派な「武器」になる。


「使えるものは、使おう」


 帳簿を片手に、アルヴィンは店の外に出た。


 ◇


 外に出ると、朝の光が眩しかった。


 快晴の空の下、金色の麦畑が果てしなく広がっている。昨夜は夕焼けに照らされて見たが、朝日の中で見る麦畑もまた格別だった。風が吹くたびに穂が波のように揺れて、まるで黄金の海だ。


 思わず足を止めて見入りそうになるが、今日は仕事がある。


 村人たちはもう働き始めていた。畑を耕す者、井戸で水を汲む者、子供たちが笑いながら走り回っている。平和な朝の風景だ。この景色を守りたいと昨日思ったが、まずは軍資金を作らないと話にならない。


 最初の訪問先は、村外れの農家だった。木造の質素な家だが、周囲には広い麦畑が広がっている。


 扉をノックすると、不機嫌そうな声が返ってきた。


「誰だ?」


 出てきたのは五十代くらいの農夫だ。日焼けした顔に、意地の悪そうな目つき。アルヴィンの記憶によれば、名前はヴォルフ。村で一番のケチで、意地が悪いことで知られている。


「何の用だ、雑貨屋。ツケの支払いなら、収穫が終わって金が入るまで待ちな」


 開口一番それだ。まあ、予想通りだった。


 アルヴィンは愛想のいい笑顔を作った。前世の阿久津が何百回とやってきた、相手を安心させるための笑顔だ。


「いえいえ、催促じゃありません。今度、売り出しをするので——二割引きのクーポンを持ってきました」


 懐から一枚の紙を取り出して差し出すと、ヴォルフの目つきが変わった。ケチな人間ほど「割引」という言葉に弱い。これは前世でもこの世界でも変わらない真理だ。


「クーポン? 本当に二割引きになるのか?」


「もちろんです。ただ——」


 もう一枚、紙を取り出す。


「ツケの支払いはまた今度で結構なんですが、残高だけ確認してサインをいただけますか。お互いに分からなくならないように」


 紙の上部には、大きく「金貨五枚」と金額が書いてある。その下には、細かい文字がびっしりと並んでいた。


 ヴォルフは眉をひそめた。


「何だ、これは?」


「確認書です。ツケの金額を確認して、サインしていただくだけですよ。金利のことも書いてあります。後でトラブルにならないように」


 ヴォルフは紙を手に取り、じっと見た。細かい文字は読みにくそうだったが、金額は確かに金貨五枚と書いてある。間違いない。


「……わかったよ、仕方ないな」


 慣れない仕草でサインをする。下手な文字だが、確かにサインだ。アルヴィンはそれを丁寧に受け取り、懐にしまった。


「ありがとうございます。では、また」


 ヴォルフの家を出て、アルヴィンは口元に笑みを浮かべた。


 一人、確保。


 今ヴォルフがサインしたのは、ただの残高確認書じゃない。細かい文字の中に、債権譲渡に関する条項をしっかり織り込んである。要するに、「この借金を第三者に売り渡しても文句は言いません」という同意書だ。


 前世なら違法スレスレの手口だが、この世界にはそもそも消費者保護法なんてものは存在しない。そして、文字をろくに読めない農夫が、細かい条項に気づくはずもなかった。


 心が痛むか? 少しだけ。


 だが、この債権をどう使うかが問題だ。ヴォルフたちから金を搾り取るつもりはない。むしろ逆だ。この債権は、別のターゲットから金を引き出すための道具として使わせてもらう。


 それから数軒を回った。宿屋の店主、教会の神父、食堂の店主——全員に同じ手順で、二割引きクーポンを渡し、確認書にサインをもらう。みんな喜んでクーポンを受け取り、誰も細かい文字を読まなかった。


 昼過ぎには、アルヴィンの手元に紙の束が揃っていた。すべて債権譲渡に同意済みの契約書。合計、金貨百枚分。


「よし。次は、本命だ」


 ◇


 村で一番立派な建物は、石造りの二階建てだった。金貸しグレゴールの家だ。


 アルヴィンは力強く戸を叩いた。


 扉が開いて、グレゴールの顔が現れた瞬間——男は凍りついた。無理もない。昨日、路地裏で石を振り上げて脅した相手が、翌日笑顔で訪ねてきたのだから。


「お、お前……!」


「おっと」


 閉めようとする扉を手で押さえて、アルヴィンはにっこり笑った。


「今日は前向きな話だ。聞くだけ聞きな」


 グレゴールは警戒しながらも、アルヴィンを中に入れた。部屋には立派な家具が並んでいる。机も椅子も高級品だ。金貸しという商売は、どの世界でも儲かるらしい。


 机の向かいに座ると、アルヴィンは鞄から紙の束を取り出して、バサッと机の上に置いた。


「何だ、これは?」


 グレゴールが紙を手に取る。


「うちの店の売掛債権だよ。人が良いもんで、回収が苦手でね」


 グレゴールは紙を一枚一枚確認していく。契約書に金額が書いてあり、署名もある。さすが金貸し、すぐに何かを察したようだった。


「……これは、債権の譲渡契約か」


「そうだ」


「回収を手伝えと?」


「いやいや」


 アルヴィンは首を横に振った。


「この契約書を、あんたに売りたい」


 グレゴールの目が見開かれた。


「売る?」


「全部合わせると金貨百枚。それを今なら、たった五十枚でいい」


 金貸しの顔に、明らかな興味が浮かんだ。当然だ。額面金貨百枚の債権が金貨五十枚で買えるなら、それだけで五十枚の利益になる。しかも契約書には年利十パーセントと書いてある。一年待てば百十枚だ。五十枚の投資で百十枚のリターン——金貸しにとって、これ以上おいしい話はない。


「……悪い話では、ないな」


 グレゴールが呟いた。もう目の奥に計算が走っている。こういう顔を、阿久津は前世で何百回と見てきた。欲に火がついた瞬間の顔だ。


「じゃあ、取引成立だ」


 グレゴールは慌てて金庫から金貨の袋を取り出し、五十枚を数えてアルヴィンに渡した。代わりに債権の束を渡す。ずっしりとした金貨の重み。これがこの世界での最初の軍資金だ。


 アルヴィンが扉に手をかけた時、背後からグレゴールの声がした。


「待て。その金、何に使うんだ?」


「ちょっとした投資話があってね」


 わざと曖昧に答えた。案の定、グレゴールが食いついてくる。


「……話によっては、俺も乗ってもいいが」


 振り向く。考えるふりをして——実際には最初からこれが狙いだった。


「確かに、あんたが金を出せば、俺の金でチマチマやるより効率がいいな」


 アルヴィンは扉を閉め直して、再び机に座った。グラスに水を注ぎ、一口飲んでから、低い声で切り出す。


「いい話を聞いたんだ」


 前世で何千回と使ってきた、あの声だ。相手の欲を煽り、判断力を鈍らせ、財布の紐を緩ませる——詐欺師の声。


 それからどれくらい経ったか。


 アルヴィンがグレゴールの家を出た時、背後から興奮した声が聞こえた。


「これは……! これは、儲かるぞ!」


 振り向かずに手を上げる。


「じゃあな」


「ああ! また連絡する!」


 扉が閉まった後、アルヴィンは一人になった通りで、懐の金貨袋に手を当てた。


 この金貨五十枚は、あくまで釣り餌だ。最終的には、あいつの金庫ごと空にする。そのために必要なものは三つ。それらしい場所、それらしい男、そしてあいつの欲。


 午後の陽射しの中、金色の麦畑が風に揺れている。宿の脇を通りかかった時、大柄な厩舎番が馬の体にブラシをかけているのが目に入った。薄汚れた服を着ているが、顔立ちが違う。堀が深くて、どこか遠くの戦場を潜り抜けてきたような重厚な面構えだ。


 アルヴィンは足を止めた。


「あんた、良い面構えだな」


 男が顔を上げる。その顔を見て、確信した。服さえ変えれば、こいつは「大物」に見える。


「儲け話に、乗らないか」


 ニヤリと笑うと、男も口の端を上げた。


 ◇


 夕方、雑貨屋に戻ると、店の前に人影があった。


 大きな買い物籠を手にした若い娘が、不安そうに立っている。アルヴィンの顔を見ると、ぱっと表情が明るくなった。


「良かったー! 休みかと思って、帰るところでした」


 二十歳前後だろうか。茶色の髪を後ろで束ねた、質素だが清潔感のある娘だ。どこかで見覚えがある顔だが、思い出せない。


「お客さんか。そりゃあ、すまなかった」


 慌てて鍵を開けて店に入り、カウンターの後ろに回る。


 娘はメモを見ながら、手慣れた様子で商品を選んでいった。蝋燭十六本、紐三束、石鹸五個、油二瓶、布巾十枚——明らかに業務用の量だ。どこかの店の仕入れだろう。


 よく働く娘だな、と思いながら眺めていて、ふと気になった。


「あの……どこかで、お会いしましたっけ?」


 娘は目を丸くした。


「覚えていないんですか? あんなに夜遅くまで、何度もワイン運んだのに」


 そう言って、くすくす笑い始めた。


 ああ。思い出した。


 あの笑顔。酒場『金色の麦』の給仕だ。昨夜、ナディールと飲んでいた時に、何度もグラスを運んでくれた娘。あの時は忙しそうで、ちゃんと顔を見ていなかったが。


「ああ! 『金色の麦』の」


「はい。昨日はありがとうございました。たくさん飲まれてましたね」


「ちょっと飲みすぎた……」


 頭を掻きながら、アルヴィンはナディールが言っていたことを思い出していた。


 ——あの給仕、リーナというんだが、魔法使いなんだぜ。


 そう言えば、あの時のエプロンの端に、小さな刺繍があった。魔法使いの印だとナディールは教えてくれた。小さな魔法しか使えない魔法使いもいると、戦闘魔法や回復魔法ではなく、日常のささやかな魔法を使う者がいるのだと。それに、大きな魔法を使えば自分の命を削ることにもなるらしい。魔法は、扱いが難しい——ナディールはそう言っていた。


 商品を数えながら、アルヴィンは聞いた。


「全部で百九十三リルだな。頼まれものかい?」


「はい、酒場の買い出しです」


「昼は買い出し、夜は給仕か。昼も夜も仕事で、大変だな」


 何気ない一言だったのだが——娘の顔が曇った。


「……私、役立たずで」


 声がすとんと沈んだ。さっきまでの明るさが嘘のように消えている。


「役立たず?」


「魔法使いだって、聞きましたよね」


「ああ、エプロンの刺繍は見たよ」


 娘は苦笑いした。


「アルカディア公国の魔法学校を卒業したのに……私、染み抜きの魔法しか使えないんです」


 染み抜き。それだけ。


「奨学金を返すためには働かないといけなくて、だから酒場で、昼も買い出しを手伝って、夜も給仕をして……でも全然足りなくて」


 学費の高い魔法学校を出て、使えるのは染み抜きだけ。奨学金の返済に追われて、酒場で朝から晩まで働いている。それでも足りない。


「染みが抜けるなら洗濯屋でもやったらどうだ?」


「魔法はそんなに便利なものじゃなくて……小さな染みを消すのがやっとで、手で洗った方が早いんです」


 自嘲するように笑う。


「だから、役立たずなんです」


 アルヴィンはしばらく黙って、この娘を見ていた。


「……名前、聞いてもいいか?」


「リーナです」


 リーナ。阿久津はその名前を胸の中で繰り返した。


 商品を籠に詰め終えてから、棚の石鹸をひとつ手に取って、そっと籠に入れた。


「……あれ、それ頼んでませんけど」


「おまけだよ。昼も夜も働いて大変だろう。あの晩、何度もワインを運んでくれたお礼だ」


 リーナは目を丸くして、何か言いかけたが——やがて小さく微笑んだ。


「……ありがとうございます」


 さっきまでの沈んだ顔ではない。酒場で見た、あの明るい笑顔だった。


 百九十三リルを受け取り、リーナが重い籠を持って店を出ていくのを見送りながら、阿久津は考えていた。


 これからナディールの仕事に関わるとなると、あちこち出歩くことが増える。店番を誰かに任せないといけない。

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