第37話 外交イベント
エアル王宮の閣議は一変していた。
重厚な木製のテーブルの上座から二番目——いつもの席に、ナディールは腰を下ろした。
向かいにはオットー財務卿が座っている。四十代の神経質そうな男で、眼鏡の奥の目はいつも何かを計算している。彼が帳簿を手放したところを見たことがない。その隣には、ヴィルヘルム・フォン・ブラント軍務卿。五十代、立派なカイゼル髭を蓄えた厳格な顔つきの軍人だ。他にも数人の官僚たちが席についていた。
以前のように、全員が疲れ切った顔をしているわけではない。閣議の開始まで、試合のゴングが鳴るのを待つような緊張感がみなぎっていた。
「国王陛下の、おなりー!」
衛兵の声とともに全員が立ち上がり、エドゥアルト国王が入ってきた。白い髭、白い髪。杖をついてゆっくりと上座に着く。
「皆の者、座れ」
書記官が立ち上がり、閣議の開始を告げた。まずは宰相が、聖シュタイン訪問の報告を求められる。
ナディールは立ち上がった。背筋を伸ばし、以前の彼とは異なる落ち着いた目つきで——淡々と、しかし明瞭な声で語り始めた。
「聖シュタイン帝国の、カール皇帝は齢七十にして盛ん。その誕生祭は、まことに壮大なものでございました」
列席者の名を挙げていく。自由都市リミニからはロレンツォ・ディ・ヴァザーリ議長をはじめ、アゴスティーノ、バルトロメオ、フィリッポの各議員。法王国セルヴィアからはセバスティアヌス枢機卿。アルカディア公国からはアリアドネ・テミス魔法評議会議長。
列強の要人が一堂に会していたという重みが、閣僚たちに静かに伝わっていく。
「セルヴィアからは、既にカラカス地方の聖域化を取り下げる正式文書が届いております。法王様も、聖獣が棲むことを認定され、大変喜んでおられるそうです」
官僚たちの間に安堵の空気が流れた。聖域化要求——あの厄介な問題が、ようやく片づいたのだ。
「アルカディアからは、魔法使いを銀行に起用したことにお礼の言葉がありました」
ここまでは明るい報告だった。しかし、ナディールは声の調子をわずかに変えた。
「そして、聖シュタインのハインリヒ皇太子は——軍事道路の建設に、大そう関心を示されております」
閣議室の空気が張り詰めた。軍用道路。一年以上前からこの国にのしかかり続けている課題だ。
「第二期工事を約束されましたか?」
オットー財務卿が手を上げた。眼鏡の奥の目が不安げに光っている。
「いえ、それは避けることができました」
オットーが胸をなでおろし、帳簿を持つ手の力が少し抜けるのが見えた。
「工事の進捗を聞かれましたので、春にグラリキス街道の視察を提案いたしました。せっかくの機会です。各国の要人を招いて、親交を深めましょう」
普段あまりしゃべらないエドゥアルト王が、声を出した。
「ほう。それは良いな」
「各国というと——リミニの方々もですか」
オットーがすかさず口を開く。
「街道開発は彼らの最も重要な関心事項です。交渉材料にもなります」
「しかし、その規模の催しとなると、かなりの経費が必要ですな」
オットーの手が帳簿にかかる。ナディールはさらりと返した。
「各国から要人にお出でいただくのだから、それなりのおもてなしは必要でしょう。招待者の人選などは、これから詰めて参りましょう」
その時、ナディールはオットーの目の動きを探った。見ていないふりをしながら——しっかりと観察する。
第二期工事は無し。各国の要人が集う。リミニも招く。
この情報をお前はどこに伝えたいんだ?
「ところで」
ブラント軍務卿が口を開いた。低く落ち着いた声だ。
「軍事パレードを拝見されたということだが。どのようなものでした」
ナディールは、ゆっくりと頷いてから答えた。
「ええ。間違いなく——地上最大の軍隊です」
閣議室が静まり返った。
ナディールが淡々と、事実だけを報告する。重装備の槍部隊が数えきれないほど行進したこと。騎士団が約五百騎——従者や弓兵を加えれば二千を超す騎兵軍団だ。エアル王国の全騎士を集めても、その十分の一にも満たない。魔法部隊は鎧を山と積んで溶かしてみせた。少なくとも四十人はいた。最後に大砲が数十門。
ブラント軍務卿は椅子の背にもたれ、目を閉じた。数字を頭の中で組み立てているのだ。自慢のカイゼル髭をゆっくりと撫でながら——以前の閣議では拳をテーブルに叩いた男が、今は別の感情で黙り込んでいる。
やがて、絞り出すように言った。
「……我が国の全兵力を合わせても、騎士団の——半分も止められない」
長い間があった。
「何としても——聖シュタインとの直接対決は避けねばならん」
戦えないと悟った軍人の、覚悟の言葉だった。閣議室の誰もが黙っている。
重い空気を変えるように、ナディールは話題を振った。
「今回の訪問で、一つ、良い出会いがありました。鉄剣聖コンラート・フォン・アイゼン。騎士団長です」
ブラント軍務卿が顔を上げた。軍人としてその名を知らぬはずがない。
「決闘二十一連勝という、あの……」
「春の視察に、ハインリヒ皇太子と共に来られる可能性があります」
「……コンラート殿が、この国に来るのか」
軍務卿の目に複雑な光が宿った。脅威であると同時に、その男と同じ食卓に着けるのは、小国の軍人にとってめったにない機会でもある。
「報告はここまでとして、もう一件」
ナディールは話題を変えた。
「銀行業務の拡大に伴い、通帳と帳簿の需要が急増しています。羊皮紙では追いつかない。藁と木灰から紙を製造する工場を、グラリキス街道沿いに建設したい」
「藁から紙? 聞いたことがありませんが」
オットー財務卿が眼鏡をずらした。
「新しい技術を手に入れました。水が大量に必要なので、街道沿いの川のそばが適している」
エドゥアルト王が白い髭を撫でた。あの仕草だ。
「ルートヴィヒ。最近のお前は——知恵の宝庫だな」
少し嬉しそうに言う老王に、ナディールは軽く会釈した。
「財源はどうされます」
オットーが反応する。
「資本金の半分は銀行から出資する。国庫への負担は最小限に抑える」
オットーは帳簿をめくる振りをしている。だが、頭の中では別のことを考えているはずだった。エアルが製紙産業を始める。藁から紙を作る技術がある。この情報は当然伝える価値がある。
「負担が半分であれば、何とか」
オットーが頷いて、閣議は終わった。
以前とは何もかもが違っていた。かつての閣議は何も決まらなかった。今日は二つの新しいことが決まっている。春の外交と、製紙工場。長らく停滞していた小さな国が、少しずつ動き始めている。
◇
官僚たちが席を立ち、閣議室から出ていく。オットーは足早に去った。
ブラント軍務卿がナディールに近寄り、周囲を確かめてから耳打ちした。
「宰相殿。春の視察では、治安維持が最も重要になります。要人たちが揃う場で何かがあっては——許されない」
カイゼル髭の下の口元がきつく結ばれている。
「今から、綿密な警護体制を練り上げます」
ナディールは軍務卿の目を真っ直ぐに見た。
「その通りだ。頼りにしている」
ブラント軍務卿の厳しいな表情がわずかに和らいだ。
「お任せください」
背筋を正して去っていく後ろ姿を見送ってから、ナディールは王宮の中庭に出た。
冬の空気がまだ冷たいが、どこかに春の気配がある。以前のように下を向いて歩いてはいなかった。頭の中でいくつもの計画が回り始めている。足取りが軽い。
そこへ——。
ワン!
茶色い毛並みが突進してきた。マックスだ。尻尾を千切れんばかりに振り回している。
「おお、マックス」
犬の頭を撫でていると、その後ろから金色の髪が揺れた。
「あら、ルートヴィヒ。今日は元気そうね。聖シュタインで、良いことでも?」
エリザベート王女が駆け寄ってきた。小さな王冠に青い瞳。
「……ええ、少しは」
「そういえば——先日のブランデー、まだありますか?」
王女の目が輝いた。ナディールは額に手を当てた。
「……殿下。朝から酒の話はやめてください」
言いながらも、ふと思いついた。
「春に、グラリキス街道に各国の要人をお招きします。王女様に、コンラート殿をご紹介しますよ」
「あの鉄剣聖ですね」
王女の目がさらに輝いた。
「是非、一緒に飲みたいわ」
ナディールは苦笑した。鉄剣聖と飲みたい。決闘でも、剣でも、政治でもなく——飲みたい。この王女は本当に、何というか。
マックスが尻尾を振っている。主人の楽しそうな声が分かるのだろう。




