第34話 鉄剣聖
聖シュタイン帝国。大陸の北部に世界最大の領土を誇る軍事大国だ。
その皇帝カール・フォン・シュタインは齢七十にして、なお精力の衰えを感じさせない。皺の深い顔に、獣めいた眼光がある。大陸を睥睨してきた男の目だ。
その誕生祭に、各国の要人が集った。皇帝を称えるために。あるいは——称えているように見せるために。
◇
聖シュタイン帝国の王宮。
謁見の大広間。では、見えないほど高い天井を、何本もの石柱が支えている。左右には銀色に輝く甲冑姿の衛兵が、どこまでも並んでいた。その真ん中を、赤い絨毯が一本の川のように伸びている。賓客たちはその絨毯の上を進み、玉座に座る皇帝に祝辞を述べる。
皇帝の傍らには、ハインリヒ皇太子が控えていた。父より四十も若い。皇帝の獣の目と対照的に、落ち着いた目をした男だ。
最初に進み出たのは、自由都市リミニからの一行だった。十人委員会議長ロレンツォ・ディ・ヴァザーリ。その後ろにアゴスティーノ、バルトロメオ、フィリッポが続く。
「皇帝陛下の、益々のご発展を」
ロレンツォが穏やかな声で言った。四人が揃って片膝をつく。しかし——その場の視線を集めたのは、四人の姿よりも、彼らが献上した品だった。捧げ持たれた宝剣が、燭台の灯りを受けてきらめいている。柄には金銀が象嵌され、鞘には宝石が散りばめられていた。豪奢を通り越して、もはや芸術品だ。自由都市の経済力を——これ見よがしに、しかし優雅に誇示している。
シュタイン皇帝が素直に顔をほころばせた。
「うむ、見事じゃな」
「ありがたいお言葉」そう言いながら頭を下げるロレンツォの目は冷たかった。
◇
法王国セルヴィアから来たセバスティアヌス枢機卿は、静かに頭を下げた。
「神のご加護を」
型通りの祝辞だった。それ以上でも、以下でもない。
◇
アルカディア公国の使節が進み出たとき、広間に微妙な空気が流れた。
先頭に立つのは若い女性だった。紅い髪。赤一色のコート。胸には他の誰よりもひと際大きな刺繍が施されている。アリアドネ・テミス——アルカディア公国魔法評議会議長。彼女が皇帝の前に立ち、深々と頭を下げた。丁寧な所作ではあるが、帝国の皇帝の前で、全く臆した様子がない。
その後ろに五人の人影が続く。黒いコート。黒い仮面。顔が見えない。名前が分からない。そしてこの五人がどんな魔法を持っているかは誰にも分からない。
皇帝が、小さく眉を動かした。
◇
そして——ナディールが、赤い絨毯を踏んだ。
エアル王国宰相。ルートヴィヒ・フォン・エーレンベルク。見慣れた貴族の正装。でも——その目の奥に、以前と違う確かなものがあった。
「エアル国王エドゥアルトに代わりまして、皇帝陛下のご健康を祈願いたします」
皇帝が目を細めた。
「ルートヴィヒ、久しいな。しばらく見ぬうちに少しは良い顔になった」
「ありがたいお言葉」
「エドゥアルトに伝えてくれ」皇帝が続ける。「余はまだまだ元気盛んじゃ。余より若いお主が旅もできんほど老け込んでどうする、とな」
「確かにお伝えさせていただきます」
ナディールが深々と頭を下げた。
◇
謁見が終わると大広間に賑わいが戻った。楽師の音楽が流れ始める。各国の料理人が腕を振るった料理が並ぶ。人、人、人。大国シュタインの威光を示すような盛大なパーティーに、各国の要人が入り乱れていた。
ナディールが、ひとつの人影に近づいた。セバスティアヌス枢機卿だ。白い法衣。穏やかな目をした老人。
「カラカスの聖地認定をいただきました件、改めて感謝申し上げます」
枢機卿の顔が柔らかくなった。
「ああ、ヴェルダの件ですな。法王様も大そうお喜びで。これからも、心してあの地をお守りください」
「承知いたしました」
ナディールは少し考えてから聞いた。「枢機卿様は、明日はいかがされますか」
「明日は早々にお暇しましょう」枢機卿が静かに首を振る。「血なまぐさいイベントは——真っ平です」
「まったくですわ」
女性の声に、ナディールが振り向く。いつの間に来たのか。赤いコートの女性が、そこに立っていた。アルカディアのアリアドネだ。
「アリアドネ議長」
「エアル宰相殿」
静かな目が、ナディールを見ている。
「残念ながら、私たちはパレードを辞退することはできなさそうですね」
聖職者と魔法使いは相性が悪い。目に見えぬ神の奇跡を信じる者と、目に見える魔法を使う者。それぞれの理屈が交わらない。セバスティアヌス枢機卿は軽く会釈をすると、別の客に挨拶するために離れていった。
「その通りです」ナディールが答える。「せいぜい感心していると見せなければなりませんな」
アリアドネが、かすかに頷いた。そして——
「魔法の通帳をくれる銀行…」静かに言う。「聞きましたよ。魔法を、上手にお使いになるのですね」
「エルネスト・ソラリス」ナディールが答えた。「良い魔法使いと出会えました。使うというより——共同経営者のようなものです」
アリアドネが一瞬だけ意外そうな顔を見せた。が、すぐに元の静けさに戻る。
「それはそうと……お願いしている件、考えていただけましたか?」
「魔導物質……ですか」
「ええ」アリアドネがナディールを見る。「我々魔法使いには必要でも、貴国には無用のものでしょう」
「確かに……」ナディールは少し考え込む振りをした。「正直なところ、知見のある者がおらず——なかなか結論が出ないのです。今度、魔導物質がどのようなものか、教えていただけませんか」
「分かりました。考えましょう」
アリアドネが踵を返した。赤いコートを取り巻くように、五人の黒い影が続く。全員、黒い仮面をつけている。
その後ろ姿を見送りながら——ナディールは内心で呟いた。
彼らはアルカーナムを何に使うつもりなのか? アルカディアと結ぶべきなのか?調べないといけないな。
◇
アリアドネは今度は、十人委員会の面々の方に向かっていた。
ロレンツォ・ディ・ヴァザーリ。裏社会では毒蜘蛛アラクネと呼ばれる男。老獪な商人にして、自由都市の為政者。その前に立っても、アリアドネは冷静だった。黒い仮面の五人を従え、自身もおそらく強力な魔法を持つ。その自信が——落ち着きをとなって現れていた。
「これはロレンツォ議長、再任おめでとうございます」
ロレンツォがわずかに頭を下げた。
「アリアドネ議長。ご無沙汰しておりますな。何しろエアルを挟んで対局にありますから、なかなかお目にかかれません」
「実は——提案があります」ロレンツォが穏やかな声で言った。「自由都市に魔法学校を作りませんか。校舎も設備も、我々が工面します。運営だけを貴国にお任せできないでしょうか」
アリアドネがかすかに首を傾けた。
「あら。その投資って回収できるでしょうか。ご存じのように、いくら魔法を教えても、小さな魔法しか使えない者がほとんどです」
「今度、投資計画書を見せていただけましたら——考えますわ」
「分かりました。次回に」とロレンツォが言った。その目が、値踏みをするように見つめている。
◇
「皇帝陛下だ」
囁く声が、あちこちから聞こえた。人波がさっと割れる。皇帝カール・フォン・シュタインがハインリヒ皇太子と一人の騎士を伴って入ってきた。
騎士の凛とした姿が——遠目でも際立つ。鋼のような背筋。静かな目。剣を腰に差しているが、どこにも無駄がない。
「鉄剣聖コンラートだ」客が口々に言った。「あの、無敵無敗の」「騎士団長か」
ロレンツォがすぐに歩み寄った。
「これはこれは皇帝陛下、皇太子殿下」
皇帝が鷹揚に頷く。アゴスティーノが騎士の方に近づいた。
「それに御高名なコンラート殿。お噂はかねがね——お目にかかれて光栄です」
コンラートが静かに会釈した。
「私こそ光栄です、自由都市議員殿。コンラート・フォン・アイゼンと申します」
「何でも、二十一回の決闘で無敗とか」
「幸運にも」
皇帝が割って入った。
「この男——真面目と寡黙が服を着て歩いているような男でな」
コンラートが、微動だにしない。皇帝が満足そうに笑った。
「コンラート。その腕をお見せしなさい」
「父上」ハインリヒ皇太子が静かにたしなめた。「そのような場ではありません」
しかし皇帝は、意に介さない。
「余興じゃ、気にするな」
◇
広間の真ん中が、ぽっかりと空いた。
十人の騎士が、コンラートを囲んで立つ。剣を抜いている。コンラートは両手を下げたまま立っていた。剣に手をかけていない。
皇帝が手を上げた。騎士たちが一斉に動いた。
最初の一人が斬りかかる。コンラートが——ひらりとかわす。剣が空を切った。次の一人。また次の一人。ヒラリ、ヒラリ、ヒラリ。コンラートは剣も抜かず、ただ流れるように動いた。そして——当身をいれると一人が倒れる。また当身。また一人。
観客が状況を把握する間もなく——十人が、床に倒れていた。
静寂。それから——拍手が広間を満たした。ロレンツォとアゴスティーノが皇帝に称賛の言葉を贈る。遠目にそれを見ていたナディールは、静かに呟いた。
「相手の動きを、全て読んでいる……」
◇
夜がふける。パーティーの喧騒が少し遠くなった。
バルコニーに出ると、夜風が冷たかった。ナディールは欄干に手を置いて、星空を仰いでいた。故郷の星と、同じ星だ。それでも——エアルがとても遠く感じる。
足音が聞こえた。振り向くと、ハインリヒ皇太子とコンラートが立っていた。
「ハインリヒ殿下」ナディールが驚きながら頭を下げる。「コンラート殿」
「殿下におかれましては、ご機嫌麗しく」
コンラートに向かって「初めまして。ルートヴィヒ・フォン・エーレンベルクと申します」
「コンラート・フォン・アイゼンと申します。エアル宰相殿」
「もちろん存じております。先ほどはお見事でした」
「ありがとうございます」
コンラートの声は、短い。
「止めたのだが——父は大人気がなくて困る」ハインリヒが静かに言った。「これほどの男に、あのような余興をやらせるなど……」
「皇帝陛下の誕生祭です。私は構いません」コンラートが少し目を和らげた。「殿下にそう言っていただけるだけで——十分です」
二人の間に、長い年月で培った信頼が見えた。ナディールは、それを少しの間眺めていた。そして——
「コンラート殿の剣は」静かに言う。「リミニが献上した宝剣のように見せるものではなく——本物の剣ですね」
コンラートが、笑った。それまでの無表情が一瞬だけほどけた。
「だから——抜きませんでした」
「確かに……」
星空を、しばらく三人で見ていた。それから、コンラートが言った。
「お聞きしたいことがあります」
「何でしょう」
「グラリキス街道です。整備の状況はいかがでしょう」
「順調ですよ」ナディールが答えた。「まだまだ時間はかかりますが」
ハインリヒの目が少し変わった。「貴国にとって大変な負担であることは——分かっている。しかし、いざという時には彼らの生死を別つ道だ」
「ええ……。存じております」
ナディールは少し考えてから言った。「そうだ、ご視察に来られては」
「視察?」
「春になると、あの街道はグラリキスが咲き乱れます。視察には——ぴったりです」
「それは良いな」ハインリヒが思わず口元を緩める。
「それが視察ですか?」コンラートが笑う。鉄剣聖が——笑っている。夜風の中で、ナディールもそれにつられて笑った。




