第32話 世界最初のブランデー
蒸留所。以前は廃墟だった建物が、今は人の気配に満ちている。冬は耕作のできない農夫たちが集められていた。
石の壁、高い天井。穴の空いた天井は塞がれたが、天窓から冬の光が細く差し込んでいる。磨き直された銅の蒸留窯が、その光を静かに反射させていた。山積みにされたワインの樽と、壁に沿って並ぶ大麦の袋。
「まず、ワインを蒸留する」
農夫たちが顔を見合わせた。
「ワインを煮詰めるんですかい」「もったいない」「量が減っちまう」
口々に言う。
「大丈夫だ」アルヴィンが言う。「量は減っても濃くなる。コクとキレが良くなる」
「コクとキレ?」
ピンとこない農夫たちの顔を見て、アルヴィンが言葉をつまらせる。
「……つまり、うまくなる」
この一言が響いたらしい。
「よし、分かった」「うまい酒を作ろう」「やろう」
農夫たちが動き出した。三人がかりで重いワインの樽を担ぎ上げ、蒸留窯に注いでいく。
窯に——火が入った。底で薪がちろちろと燃えていく。熱が窯全体にじわじわと広がる。ワインが温まり始めると、蒸気がのぼりはじめ、細い管を回っていく。蒸気で満ちた管が水槽をくぐると——管の先から、アルコールが垂れてきた。
ポタ。ポタ。
一滴ずつ、溜まっていく。まるで、砂時計のように。
アルヴィンは指先で一滴を受けた。舐める。刺激がある。無色透明な液体。まだ荒削りだ。でも——確かにこれだ。前世で何度も嗅いだ、あの香り。
「舐めてみるか」農夫たちに声をかける。
一人が恐る恐る受け取る。舐めた瞬間——
「うっ」
口元を押さえて、飛びあがった。隣の男も、次の男も。みんな、同じ反応だ。
無理もない。この世界で、誰も飲んだことのない酒だ。火を吐くような——強さ。アルヴィンだけが、ひとり静かに笑っていた。洗練には程遠い。でも——始まりは、こういうものだ。
「今年の秋には葡萄の皮からグラッパを作るぞ」アルヴィンが楽しそうに言う。
「搾りかすの皮からも酒ができるんですかい?」「そいつはいい」
大地の恵みを無駄なく使えると聞いて、農夫たちの顔に笑みがもれる。
「取り敢えず、ワインの蒸留が終わったら窯を徹底的に洗う。それから、今度は大麦だ。まだまだ忙しいぞ」
「ビールを作るんで?」
「ビールじゃない。ウィスキーだ」
「ウィスキー?」
「熟成期間が必要だから、すぐには飲めないけどな」
「楽しく待つさ」
◇
夜。『金色の麦』二階の会議。ナディールが卓上に羊皮紙を置いた。法王国の——天秤の紋章の入った蝋の封印は、既に解かれている。
「セルヴィアから——正式な文書が届いた」
全員が息をのんだ。
「カラカスは、ヴェルダが棲む聖地として——正式に認定された。聖域化要求は……永久に取り下げされる」
一瞬の沈黙の後。エルネストが思わず声を上げた。フェルディナントが眼鏡を外して目を押さえた。カッシオが静かに天井を仰いだ。
リーナは——
「……嘘が、本物になりましたね」ぽつりと言った。
「嘘って言うな」アルヴィンが即座に言い返す。「曖昧戦略だ」
ナディールだけが——ランプの灯りを見ながら、静かに「そうだな」と言った。
◇
翌日。カラカス地方。
リーナは地図を手に持って立っていた。先王の測量記録と見比べながら、慎重に場所を選んでいる。
「……ここをお願いします」
作業員たちがスコップを入れた。冬の土は硬い。それでも少しずつ——掘り進んでいく。すぐに男たちの体から湯気が立ち始めた。
リーナは足の裏で土の感触を確かめるように立っていた。目を閉じている。何かを——待つように。
どのくらいの時間が経っただろうか。
「何やら出ました!」
作業員の一人が声を上げた。断面が、白い。層が横に連なっている。土の中に刻まれた、白い筋。
誰もが見守った。リーナが駆け寄り、断面に手を伸ばした。そっと、白い層に触れる。
指先に——何かが伝わった。この感覚。研究室で感じた、あの感覚。
「……あります」小さな声で言った。「ここに——あります」
歓喜の声が上がった。作業員たちが口々に叫ぶ。気づいたら——リーナの体が宙に浮いていた。
「え、えぇ——」
大きな手が何本も。左右から。
「ちょ、ちょっと——」
リーナが宙の上で手をバタバタさせる。作業員たちはかまわない。高く。また高く。冬の空に——リーナが何度も舞い上がった。
「やめてー!」
でも——口元が、笑っていた。
◇
ナディールの執務室。ナディール、アルヴィン、フェルディナントの三人が机を囲んでいた。
「実は」ナディールが引き出しから書状を取り出した。「聖シュタインから——皇帝誕生祭の招待状が来ている」
アルヴィンが眉を上げた。「あんたが——聖シュタインに行くのか」
「エドゥアルト王を行かせるわけにはいかない。しかし、断れない招待だ」
「誕生祭ねぇ」
「誕生祭は口実だよ」ナディールが書状を机に置く。「盛大な軍事パレードを見せつける。威圧のためのイベントだ。各国の要人を呼んで、この軍事力を見ておけ——逆らうな、と言うわけさ」
「なるほど」
「滞在期間も含めると、二週間はかかる」ナディールの目がアルヴィンを向いた。「その前に、財務卿の件を片付けておきたい」
「分かった」アルヴィンが椅子に座り直す。「それじゃあ、出かける前に——財務卿に四つの嘘を仕掛けよう」
「四つの嘘?」フェルディナントがオウム返しに聞く。
「聖シュタイン、自由都市リミニ、法王国セルヴィア、アルカディア。それぞれが——反応せざるを得ない嘘だ。反応した国が、財務卿から情報を買っている」
フェルディナントが自分の顎を掴んだ。「……一度に四つは、難しいですね」
「そうだな、優先順位をつけよう」ナディールが言う。「最も怪しいのは——自由都市だろう」
「それはそうですね」フェルディナントがうんうんと頷く。「横領するくらいですから——お金のある国にすり寄るに決まっています」
「金という意味では、セルヴィアも捨てがたい」アルヴィンが言う。「それに——信仰は金とは別の動機になる」
「では」フェルディナントがまとめる。「まずリミニ、次がセルヴィアですね」
「リミニには、何を流す」
「グラリキス街道だ」ナディールが即断した。「第二期工事が決まりそうだと——聞けば、邪魔をしてくる」
「間違いない」アルヴィンも頷く。「分かった。発つ前に財務卿に話をしておこう」
「では、セルヴィアは?」ナディールが尋ねる。
しばらく沈黙があった。
「ようやく聖域化の問題が収まったばかりだ」ナディールが続ける。「あまり刺激したくないな」
「魔法の話だと警戒される。更に圧力を強めてくるかもしれませんね」「あれは嘘でしたと言っても収まらなくなる」フェルディナントが言う。
三人が考え込んだ。アルヴィンが天井を見上げた。
「司祭、修道士……彼らの仕事は……」
独り言のように、ブツブツ言う。——悪い目つきになった。
「悪魔憑きというのは——どうだろう」
「悪魔憑き?」ナディールとフェルディナントが同時に気味の悪い顔をした。
「悪魔憑きが出たと聞けば——放置できない。確認に調査団を送るしかないじゃないか」
「それはそうですけど」フェルディナントがおそるおそる言う。「それ……どうやって、収拾するんですか」
アルヴィンがフェルディナントを手で制した。ニヤリ、と。悪い笑みだ。
「まぁ、お楽しみだ」
ナディールは少しの間アルヴィンを見ていた。それから——短く、笑った。
「任せよう」
「そういえば、お土産がある」アルヴィンが鞄から袋を取り出した。陶器の瓶が二本。机の上にそっと置く。素朴な瓶を傾けると、中で液体が揺れる音がした。
「この世界で——初めての、ブランデーだ」
ナディールが瓶を手に取った。「ブランデー?」光にかざして、じっと見る。
「一本は——エリザベート王女に献上してくれ」アルヴィンが続ける。「強い酒だから、湯で割って飲むと良いと——お伝えしてくれ。この寒さだ。からだが温まる」
ナディールは瓶を見たまま、しばらく黙っていた。
「……父の蒸留窯で作ったのか」
「ああ、最初の酒だ。もう一本は——俺たちで飲もう」
ナディールが首を振る。「酒を飲んでいる場合じゃないんだ」
アルヴィンが笑う。
「生来の酒飲みがこの変わりようだ。あんたがあの部屋で重いものを背負ったのは分かる。だが、それじゃもたないぞ。戦いはまだまだこれからだ。時には息を抜け」
そう言いながら、グラスにブランデーを注いだ。まだ透明のブランデー。ランプの火が静かに揺れている。
ナディールが頷いた。カチン、と——三人がグラスをぶつける。
「うわ」ナディールとフェルディナントが声をあげた。「火のように強いな」
「ああ。ワインが何本分も凝縮している。だから、腐らない。輸送も出来る」
「酒が——産業になるぞ」
三人が瓶を見つめる。ちびりちびりとブランデーを舐めながら、ナディールが語り始めた。
「父のことを——負い目に感じていた。政治は弟に任せ、借金をして自分の研究に没頭した先王。国の財政に穴を空けた暗君として——評判は最低だ」
「……だが、あの部屋で分かった。父はアルカーナムで——この国を変える気だった。試掘を繰り返し、蒸留所を作り、あと一歩のところまで——一人で——戦い続けていた」
「馬鹿な……父親だ」
そこまで言って——黙った。
「最高の父親じゃないか」アルヴィンが静かに言った。
早くも顔を赤らめているフェルディナントも、うんうんと黙って頷いている。
静かな夜だった。




